5章 裏と表

1 懐かしい場所

 通されたその部屋は、自分が暮らしていたときからなにも変わっていなかった。


 もう二度と戻ることはないと思っていた、アトロス伯爵家の屋敷。その中で、彼の私室として割り当てられていた一室。この部屋で、十五年を過ごした。それがそのまま残っているのを目の当たりにして、レヴィンはそれだけで胸がつまるような思いを感じていた。


「おかえりなさいませ、レヴィン様」


 開け放したままだった扉の向こうから、ひどく懐かしい声が届く。


「……ロサンナ」


 振り返った先にいたのは、予想通りの人物だった。

 ロサンナ・アトロス。

 伯爵夫人であるその女性は、ティーセットと茶菓子を乗せたトレイを自ら手にして部屋の前に立っている。五人の子を持つ母親とは思えないほど、小柄で華奢な女性だった。


「入ってもよろしいかしら?」


 おどけるようなその声にも、あやしてもらった幼いころの記憶がよみがえっていちいち懐かしくなる。


「ロサンナ、ここはあなたの屋敷だ」


 入室に許可などいらないだろう、とレヴィンが苦笑すると、ロサンナは「いいえ、レヴィン様」と返した。


「ここはあなたのお部屋です。お忘れになってしまいましたか?」

「もちろん覚えている。そのままにしておいてくれたんだな……」


「当たり前です。さあ、早くどうぞとおっしゃってくださいな。腕が痺れて、せっかく作ったケーキが台無しになってしまいそうです」


 ロサンナは微笑んでそう言った。人柄はおおらかで穏やかな女性だったか、譲るべからざるところは、こんなふうにやんわりと通してしまうしたたかさを持ち合わせてもいた。

 レヴィンはそれに逆らわず「どうぞ、ロサンナ」と応じて、この部屋の所有者が未だ自分であることを受け入れた。


 手際よくお茶の用意を整えたロサンナは、室内の一画にあるソファに腰を下ろした。テーブルを挟んでレヴィンと向き合うかたちになる。


「三年ぶり、ですね。ずいぶん背も伸びて……驚きました。もう十八歳になられたんですね」

「ゼルマの背には、いつまでたっても届きそうにないが」


 レヴィンが言うと、ロサンナは小さく声をたてて笑った。


「レヴィン様があの子たちのわがままを受け入れてくださったこと、そして、定期的に私たちのもとへ顔を見せに帰してくださること、感謝しています」


「エルマとゼルマには、俺の方が世話になっている。それに、領地を与えられてから森歩きが趣味になったからな。二人には、俺の楽しみのあいだ休んでもらっているだけだ」


「まあ、いつからそんな活動的な趣味を楽しまれるようになったのですか?」

「ロサンナの知らないところでた。俺だって、いつまでもひ弱な子どもじゃない」


「……ご無理はなさっていませんか?」


 紅茶色の瞳が静かにレヴィンを映す。双子の持つ紅茶色の髪と瞳は、彼女ゆずりだった。


「大丈夫だよ、ロサンナ」


 レヴィンは柔らかく答えた。

 安堵の表情を浮かべた女性は、気をとりなおした様子で口を開いた。


「今日、いらしてくださったのは、レヴィン様のお父君とお母君のことについてでしたね」


 本題に入るために投げかけられたその言葉に、レヴィンはうなずいた。


 王城にユキを残し、一人で屋敷に戻ったレヴィンは、双子に心配をかけたくないと思うあまり、平気なふりをすることが最善だと思いこんでいた。今考えれば、かえって大切な人たちを心配させてしまう、独り善がりな振る舞いだったのに、それに気づけないほどレヴィンの視野は狭くなっていた。


 そんなレヴィンを迎え入れてくれた双子が、彼に求めたのは、無理に取り繕わないことだった。弱さを隠さず、心配をかけていいのだと。なにがあったのかを話すこともできないレヴィンを、二人はただ受け入れてくれた。レヴィンはそれでようやく自分の弱さとまともに向き合うことができた。


 神の娘に課された、選択の期限は冬。エイリックはそれまでにユキの懐柔をはかるだろう。レヴィンはもう一度、彼と対峙しなければならなかった。


 自分と同じ場所で生まれ、まったく違う人生を歩んできた人。彼と向き合うその前に、これまであえて知ろうとはしてこなかった自分の生い立ちについても知っておきたいと思ったのだ。


 この日の訪問は、事前に手紙で知らせを入れ、ロサンナの了承を得たうえでのことだった。


「ロサンナの知っている範囲のことで構わないから、俺の両親について教えてほしい」


 改めてレヴィンがそう伝えると、ロサンナは「うまくお話しできるか心配なのですが――」と前置いてから話し始めた。






 乳母となったロサンナが、レヴィンの両親である国王夫妻と関わったのは二回だけだ。


 一回目は、レヴィンが生まれるよりも前。王妃懐妊の報が国中に広まって、民のあいだで滅びの種という言葉がしきりに飛び交いはじめたころのこと。


 王城へと呼び出されたロサンナは、秘密裏に国王と面会することになった。そこで彼女は、王の口から直接、説明を受けた。これから生まれる子が、生後間もなく王籍を廃して王城から出されること。あわせて、その子どもの乳母になってほしい、と頼まれた。


 当然、ロサンナは尋ねた。どうして自分なのか、と。


「……あなたが、子煩悩だと聞いたので」


 暗い赤毛を持つこの国の王はそう答えた。叱られた子どものような、あるいは途方に暮れたような、頼りない声だった。


 自分が選ばれた理由としてロサンナが納得するには、あまりに足りない返答だった。続く言葉があるのかもしれないと静かに王を見つめたが、赤毛の王は伏し目がちに黙り込むだけで、続きを言う気配はなかった。


 言葉足らずなのではなく、語れる内容がそれ以上ないのではないか。ふと、ロサンナはそう気づいた。


 こうして非公式に場を設け、直接に頼んでくるのだ。子を思う気持ちはあるのだろう。けれどおそらく、王であるその人にもわからなかったのだ。滅びの種という途方もない業を背負わされた子どもの、実の親である自分たちがこれから手放す我が子の、親代わりとなってくれる者を、なにを基準にして選べばいいのかが――


 だから、子煩悩などという、不確かな情報にすがったのか。


 とっさに、早く断るべきだ、という思いがロサンナを支配した。彼女が口を開きかけたそのとき、王が先に口を開いた。


「あなたが子に注ぐ愛情のうちの……ほんのひと欠片でいい。私が王であったばかりに、親に捨てられなければならない我が子に、恵んでやってはもらえないだろうか……」


 ロサンナの目の前で、暗い赤毛がゆっくりと下げられた。


「……どうか、お願いしたい……」


 絞り出すようなその声を耳にして、ロサンナは、はっとした。

 こうして、我が子のために頭を下げているこの男性に、自分は一度でも、この国の王であり続けてほしいと願ったことがあっただろうか。


 仲睦まじい王妃とのあいだに長らく子ができず、新たな側妃を迎えることになったときも。そうまでして王太子を誕生させたあとで、王妃が身籠り、誰からも祝福されなかったときも。その子を手放す以外ないのだと、たった今、王自身の口から聞かされたときも。


 お労しい。お辛いだろう。そんなふうに思いはしても、彼が王である以上、それは仕方のないことなのだと、そう考えてはいなかったか。


 だとすれば、この国の王はなんて悲しい存在なのか。我が身を削って与えたものは、当たり前だと受け取られる。民の不安を和らげるために我が子を手放し、その子が少しでも幸せであるよう、不確かな可能性にすがって頭を下げることしかできない。


 それでも断るべきだった。生まれてくる子になんの罪もないとわかっていても、その子を引き受けるということは、自分の家族にも関わる問題だ。そう――わかっているのに。


「大変申し訳ありませんが、私の一存で決められることではないようです。まずは夫に話しを通していただけますでしょうか」


 ロサンナはそう言いながら、気が優しく、自らの言い分を押し通すことが苦手な夫を思い浮かべた。おそらく夫は断ることができないだろう。


 彼女の予想した通り、深刻な顔をした夫に滅びの種の後見役を引き受けることになったと告げられたのは、それから間もなくのことだった。


 そうしてレヴィンの乳母となったロサンナだったが、いざ目の前にしてみれば、たしかな重さと温もりを伴った嬰児は、人の子であっても無条件に愛らしいものだと思えた。


 同じ年に女児を産んだロサンナは、一度きりの王との面会の中で、王妃の心情を聞いておかなかったことを悔やんでいた。お腹を痛めて生んだ我が子を手放すことを、王妃はどのように感じていたのだろう。


 二度目の機会は、レヴィンが三歳を迎える少し前に訪れた。しかしそれは、手放しで喜べる面会とはならなかった。


 レヴィンを産んで以降、体調の優れなかった王妃は、いよいよ復調が望めない状態へとさしかかっているようだった。


「よく来てくださいました、アトロス伯爵夫人」


 床に就いたままロサンナを迎え入れた王妃は、淡い笑みを浮かべてそう言った。

 健やかだったころの美しさの面影は、十分に窺い知れる女性だった。けれど、痩せた細いその腕では、もうすぐ三歳になろうとしている男の子を抱くことは難しそうに思えた。


 寝台の脇に置かれた椅子をすすめられたロサンナは、膝の上にレヴィン乗せて腰かけた。求められるまま、彼の近況についてロサンナが語ると、傍らの女性は静かに耳を傾けていた。


 しばらくは大人しく膝におさまっていたレヴィンが、やがてむずかりはじめたころ、王妃は侍女を呼んだ。いかにも子どもが喜びそうな菓子が並んだトレイを手にした侍女を見て、幼いレヴィンはロサンナを見上げた。それに同意のうなずきを返したロサンナは、侍女に手を引かれて寝室を離れる幼子を、微笑んで見送る。


 やがて、窓から見える庭の景色の中に、レヴィンの姿があらわれた。あちらからも室内が見えることを侍女が教えたのだろう、小さな手がこちらに向かって元気よく振られるのを見て、ロサンナは手を振り返した。


 王妃は、まぶしげに窓の外を見ながら、口を開いた。


「あなたに感謝を。私のもとに置いていたら、あんなに屈託のない目をした子どもではいられなかったでしょう」


「……レヴィン様はまだ、自分が滅びの種と呼ばれていることなど知りません」


 それでもいずれは知ることになる。そうなったとき、今のように無邪気なままではいられないだろう。


 ロサンナの言葉に、王妃はゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。どんな辛苦を味わおうとも、愛された記憶は残り続けるものです。あなたはそれを与えてくださった。私には、できなかったことです」


「……王妃様のお気持ちを、聞かせていただくことはできますでしょうか」


 おそらく、こうして話せる機会は二度とない。そう思ったから、不躾とわかっていてロサンナは踏み込んだ。

 王妃はそれを咎めなかった。ゆっくとりうなずいてから、語りはじめた。


「子ができたと知ったとき、頭の中を巡ったのは、どうして、という疑問ばかりでした。あれほど望んでいたときには得られなかったものが、誰からも望まれなくなってから、どうして……と」


 感情を抑えた声で、王妃は続けた。


「ですから、自分では育てられないと知ったときにも、それがよいのかもしれないと思いました。傍にいれば、この子はどうして生まれてきたのかと、そればかり考え続けてしまいそうでしたから。実際、産後は体もこのような状態でしたから、やはり手放しておいてよかったのだと感じました。ですが――」


 痩せた身体から、重たい吐息が漏れる。話し続けた肉体的負担によるものか、苦悩によるものかは判然としなかったが、それは苦しみによって吐き出されたものだった。少なくともロサンナには、そう感じられた。


「毎日、気になって。今、どうしているのかと。どのくらい大きくなったのかと。気づけばそんなことばかり考えていて……せめてもう少し、丈夫な子に産んであげられれば違ったのかもしれませんが……」


 王妃の黒い瞳は、窓から見えるレヴィンへと注がれている。ロサンナはたまらなくなって、触れてみてはどうかと提案した。目の前のこの女性に、我が子の重さと温度を知ってほしいと思った。だが、王妃は首を振った。


「……この感情が、母としての愛情なのか人としての罪悪感なのか、私にはよくわかりませんが、どちらであったとしても、それを満足させるすべを私は持ちません。ですから、こうして姿が見られただけでよいのです」


 答えた王妃は、窓の外の我が子から視線を外すと、ロサンナに向き直った。


「あなたに報いるすべもまた、持ってはおりません。このような話がなんの役に立つとも思えませんが、どのようにでもあなたの好きに扱ってください。もしも、生みの親の話を聞かせてほしいとせがまれたとき、聞かせるに困ると感じたのなら、あなたの話しやすいように作りかえていただいてかまいません」


 自分が直接語って聞かせる可能性を少しも考えていない、悲しい言葉だった。王妃の訃報が届いたのは、それから一年もたたないうちだった。






 話を終えたロサンナは、冷めきったカップに口をつけてから、ため息をついた。


「もっと早くにお話しできればよかったのですが……」


 つぶやいた乳母に、レヴィンは苦笑して首を振った。


「いや。幼いころにこの話をされても、理解できなかっただろう」


 やはり自分は望まれずに生まれ、両親すらも苦しめた存在なのだと、自己否定を深めることになっていたかもしれない。部分的な見方としては、それも事実であるのだから。

 けれど自分も、多少は成長している。一点の曇りもなく愛されていたのだと聞かされる方が、かえって信じられなかっただろう。


 ロサンナが聞かせてくれた両親は、課せられた役目に抗うことのできない不自由で悲しい人たちであり、あらゆることを受け入れながらも折れずに生きる強さを持った人たちだった。そういう人たちに、自分はたしかに愛されていた。


「聞かせてくれてありがとう」


 淡い笑みを浮かべたレヴィンに、ロサンナは柔らかく微笑んだ。


「いいえ、私もありのままをお話しすることができて、本当によかったです」

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