6章 雪の日に

1 再会

 扉を開いたその瞬間に、目が合った。


 西日が射しこむ部屋の中を、よく知る人物が一人、佇んでいる。

 長身で細身ながらまっすぐに伸びた若木のようなその青年は、夕日が溶け込んだような赤い髪をしていた。かすかに幼さを残した繊細そうな面立ちの中で、瞳をやわらげた青年は、ユキ、と小さく唇を動かす。


 二月前と変わらない、レヴィンの姿がそこにあった。


「……っ」


 ユキは堪えきれずに駆け出して、レヴィンの胸に飛びこんだ。息を呑む気配のあと、伸びた両腕が彼女を受け入れる。


「……ユキ」


 その声が、どこよりも近くで自分の名を呼ぶことが嬉しい。ユキは目の前の存在にしがみついて額をぐりぐりと擦りつけた。


「……ユキ……?」


 触れ合うところから伝わる温もりの心地よさに、安堵を覚えて目を閉じる。呼吸のたびに感じるのは、懐かしい匂い。


「……待てっ、匂いを嗅ぐなっ!」


 唐突にやんわりと抵抗しはじめたレヴィンを、ユキはがっちりつかんで離さなかった。


「やだ。いやだ、もう少し」


 駄々を押し通すように強気できっぱりと返すと、青年の体から諦めたように力が抜けていく。


「……ああ、もう……」


 不本意そうな声を最後に大人しくなったレヴィンを、ユキはしばらく堪能した。できるかぎりぴったりとくっついたうえで、満足してほうっと息を吐くと、小さくため息をつく音が伝わってきた。


「……いいかげん、顔を見せてくれ」


 ぽつりとこぼれた拗ねたようなその声に反応して、ユキは顔を上げた。

 いろいろ暴れたせいか、ぐしゃぐしゃになった髪が眼前に垂れ下がるのを、伸びてきた青年の手が丁寧に整えてくれる。そうやって開けた視界の先には、まっすぐに自分を見下ろしている黒い瞳があった。それを仰ぎ見ながら、ユキは口を開いた。


「会いたかった……」


 これ以上ないほど感情のこもった声。

 受け止めたレヴィンは、うん、とうなずく。


「俺も、会いたかった」


 返された声は、穏やかで温かい。


 伝わっている、と思った。出会ったあの日、はじめて意思疎通できたときのように、目の前の存在がいっそう近くに感じられる。


「元気にしていたか?」


 ユキが尋ねると、レヴィンは淡く微笑んだ。


「ああ、エルマとゼルマのおかげでな」


「二人とも元気か?」

「変わりないな。相変わらずエルマは明るくて……」

「ゼルマは無口?」

「まあ、基本はそうだが。……知っているか? エルマがいないところでは、ゼルマもけっこう話すぞ」

「……ゼルマが?」


 訝しげなユキに、レヴィンからは、ふっと笑いがこぼれた。


「ユキは、元気にしていたのか?」


 お返しのように投げかけられた問いに、ユキは首肯した。


「健康は問題ない。……けど、」

「うん」

「ずっと、寂しかった」


 自分にとっての彼はそれだけ欠くことのできない存在なのだと、そう伝えたくて口にした言葉だったのに、レヴィンの表情は曇った。


「……ごめん。あのとき、ユキを置いて行ったから……」


 自身を責めているようなレヴィンの口ぶりに、そんなふうに思っていたのか、とユキは驚いた。


「違う。おまえを責めるために言ったんじゃない」


 たしかにあのとき、置いて行かれたと感じたのはたしかだが、その瞬間でさえ、レヴィンを責める気持ちは微塵もなかった。会えなくなることが、ただ悲しかっただけだ。


「寂しいのは、それだけ私がおまえを必要としているからだ」


 今度こそ伝わるようにと、やや高い位置にある青年の顔を見つめながら話す。


「……ユキは、変わったな」


 ほんの少し目を見開いて、レヴィンはそう言った。


「いや、変わったのではなく成長した、と言うべきなのか。もとからユキは心の機微に聡かったから」

「聡い? 私が?」


 レヴィンが辛そうな顔をしていても、いつも気づかないふりをしていたのに。


「俺がしんどいと感じたとき、いつも話題を変えてくれていた」


 何度も続けばわかるよ、とレヴィンは苦笑する。


「ユキがそうやって、気づいていても触れずにいてくれたから、俺は取り繕わずに安心して一緒にいられた」


 穏やかな表情を浮かべながら、そうささやく。


 そういう感じ方もあるのか、とユキは唖然とした。同じ出来事が、見方ひとつでこうも違うなんて。

 気づいていても触れずにいたのは、そうすればレヴィンが元通りになると知っていたからだ。レヴィンの辛さに気づいても、深く考えず見過ごしてきたことを、ユキは後悔していた。けれどレヴィンは、そんなふうに受け止めていてくれたのか。


 独り言のように小さな、けれどどこか嬉しげな声で、「それでも、さすがに今のは驚いた」とレヴィンがつぶやく。


「ずっと感じていたユキを置いていった罪悪感から、言葉だけであっさり掬い上げられたから」


 一瞬、理解が追いつかなくて惚けたユキは、理解が及ぶと同時に胸の熱さを覚えた。


 無駄ではない。これまでの時間すべてが。彼と共に過ごしたことも、離れて思い悩んだことも、その果てに彼を守りたいと願うようになったことも。すべてに意味があったのだ、と思えた。


 いち個人の錯覚にすぎないのかもしれないその認識は、それでもいち個人の心を満たして奮い立たせるには十分なものだった。


「レヴィン」


 名前を呼ぶと、青年の目元がやわらいだ。どうした、と問うように緩く首が傾げられる。


 ユキは深呼吸をしてから言葉を発した。


「私は、この国を滅ぼさない」


 そのために自分の命を差し出すことになっても。二度とレヴィンと会えなくなっても。滅びの種にはならないと決めた。


「……それは、いつ決めたんだ?」


 静かな声で、レヴィンはそう尋ねてきた。


「さ、最近だ……」


 予想していなかった質問に戸惑って、視線を泳がせながらユキが答えると、唐突に抱きすくめられた。


「レ、レヴィン……?」


 驚いたユキは、とっさに表情を確かめようとしたが、後頭部に回ったレヴィンの手が、見上げることを制止する。まるですがりつくように、巻き付いた青年の両腕からは、痛いくらいの力が伝わってきた。


 その力のぶんだけ強い感情を、彼は今、必死にやり過ごそうとしている。それを意識した途端、胸が押しつぶされそうな痛みがはしった。


 ――ユキと、一緒にいたいです。彼女を失いたくない。


 隣室から聞いたレヴィンの声が、脳裏で響く。おそらく彼にとっては望まないかたちで、知ってしまった彼の気持ち。


 ――けれどそれを願えば、彼女を滅びの種にしてしまう。それはきっと……彼女を苦しめる……。


 苦悩の滲んだその声は、言葉尻でいっそう苦しげに揺らいだ。その瞬間、ユキは気づいたのだ。


 ふたつの選択のうち、どちらを選んでもレヴィンは傷つく。けれど、いちばん苦しみが深いのは、滅びの種となったユキが、彼の隣で生き続けることだ。

 ユキがどんなに大丈夫だと伝えても、レヴィンはきっと一生、ユキの苦しみを思うことをやめられない。もしもユキが、滅びの種となった自分を呪うようなことがあれば、レヴィンはそれ以上にユキを止めなかった己を呪うだろう。


 レヴィンが苦しむことになる未来を、ユキは望まない。それはもしかすると、彼のためではなく、彼の苦しむさまを見たくない自分のための選択なのかもしれないけれど。


「……それは、もう覆らないことなのか?」


 短いとも長いとも形容しがたい沈黙の時間のあと、降ってきたレヴィンの声は、やはり静かだった。それでもこれが彼の最終確認なのだと、ユキにはそう思えた。


「――ああ。たとえレヴィンがなんと言っても覆らない。もう、決めたから」


 ユキの返答に「……そうか」とつぶやいたレヴィンは、両腕の力を抜いた。自由を得たユキは、今度こそレヴィンを見上げてその顔を確かめる。

 眉を下げた困惑の表情でユキの視線を迎えたレヴィンは、「取り乱してすまなかった」と言って苦笑を浮かべた。


 ゆっくりと頭を振ってから、ユキは尋ねた。


「……それでも最後まで……っ、一緒に、いてくれるか……?」


 平静を保つつもりだった問いかけは、みっともなく声が震えた。これではただの懇願だと思ったが、言い直す前に答えが返ってきた。


「いるよ。最後まで一緒にいる」


 だから、もう帰ろう。優しい声が、そうささやいた。

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