2章 青年の閉じた世界

1 双子の姉弟

 幼いころは体調を崩すことが多かった。前触れもなく発熱しては、そのまま数日ほど寝こむことも珍しくはなかった。


 そのときはたしか、前日の夕方に寒気を感じはじめ、夜になってから発熱したはずだ。唐突に襲った不調は引いていくのも唐突で、翌朝には熱も下がり、すっかり元気になっていた。


 大人からは、念のためその日は部屋から出ないで過ごすようにと言いつけられた。午前中は言いつけを守って大人しく遊んでいたが、午後には退屈を持て余すようになった。室内でできる一人遊びではたいして疲れもしなかったせいか、昼寝をしてもすぐに目が覚めてしまった。


 しん、と静かな誰もいない部屋で、寂しくなって泣いてしまった。部屋を出て、廊下をさまよいながら、慰めてくれる優しい人の姿を探した。扉の向こうから楽しげな声が聞こえてきて、足を止める。


 静かに扉を開けると、気づいた人が驚きながらも優しく声をかけてくれた。ほっとして、目を覚ましたら一人だったことを伝える。温かなその手で頭を撫でてもらえたら、抱きしめてもらえたら、きっと安心できると思った。


 不意に、ふわふわとした紅茶色の髪を揺らしながら女の子が駆け寄ってきて、そのまま力いっぱい突き飛ばされた。


 大人たちの焦る声と、女の子を叱責する声。彼女はそれを「うるさいっ」と怒鳴って振り払うと、明るい紅茶色の瞳にいっぱいの涙をためて、まっすぐにこちらを睨みつけてきた。


「あんたのせいで、いつも私はひとりぼっちなのに! 今日ぐらい、いいじゃない! とらないでよっ!」


 途端、大人たちの声から険が抜けて、女の子を宥め、あやす色へと変わっていく。


 突き飛ばされた衝撃で床に尻もちをついたまま、ただ呆然と、泣きじゃくる女の子とそれをとりなす大人たちを見上げていた。驚きのあまり声にはならなかった思いが、胸中で渦巻いていた。


 どうして、誰も助け起こしてはくれないのだろう。どうしてみんな、突き飛ばされた自分より、突き飛ばした彼女の方を見ているんだろう。


 どうして。


 そのあとすぐに、気づいた誰かが助け起こしてくれたはずだ。今日は少女の誕生日だったのだと話しながら、痛い思いをさせてすまなかったと、少女のかわりに謝られた記憶が残っている。


 そのとき感じた“どうして”のわけを知るのは、それから何年かが経ってからのことだ。そうしてはじめて、本当にかわいそうなのは少女の方だったのだと、痛切に思い知ることになった。






 ぺたぺたと、頬に触れる感触があって目を開く。


 人形のように整った少女の顔が眼前にあった。驚いて硬直するレヴィンをよそに、猫を思わせる目尻の上がった黒い瞳は、無遠慮なほどまっすぐに彼の顔をのぞきこんでいる。長い黒髪が細い肩からするりと滑り落ちると、少女はレヴィンの頬に置いていた手を離して、それをぞんざいに払った。


「……ユキ?」


 恐る恐る名を呼べば、少女は無言で一度うなずいてから、「もうすぐ着くと言ってる」と告げて、御者台へと視線をやった。そこでようやくレヴィンは現状を再認識する。


 走行する馬車の中だった。布張りの幌馬車。体調の落ち着いた少女を連れてあの森を抜け、街へと辿り着いてから店で借りたものだ。御者台には店の者が乗っていて、目的地まで乗車させてくれることになっている。


「……すまない、眠ってしまったんだな」


 つぶやくように言って、眠気の残滓を追い払うように指先で眉間を揉む。


 御者の言葉をレヴィンに伝える役目を終えて、向かいの座席へと戻ったユキは、少女らしくない淡々とした喋り口調で「疲れてるんだろう」と言った。昨日まではどこか舌足らずで幼かったはずの発音が、いつのまにか滑らかになっている。


「大丈夫だ」


 あの森からユキをここまで連れてくるあたって、もっとも難儀したのは彼女の靴がなかったことだ。服の予備は持ち合わせがあったレヴィンも、さすがに靴の予備までは用意していなかった。


 考えたすえ、木と縄を利用して、ユキを座らせたまま背負える背負子のようなものを自作して、森から街までの半日ほどの距離を、彼女を背負って歩いた。街に入ってすぐに馬車を借りることにしたのは、奇異の目で見られるうえ体力的にも限界だったためだ。すでにあちこちの筋肉が疲労を通り越して過労を訴えている。


「……裸足でも歩けたのに」


 唇を尖らせながら、人の苦労を無にする減らず口を言う少女に、レヴィンは肩をすくめた。


「足が傷だらけになるだろう」

「別にいい」


 頑固に言ってぷいっとそっぽを向くさまに、レヴィンは苦笑した。この少女が自分を心配してこんなふうに言っているのだということは、もちろんわかっていた。


「このあと、靴屋に寄って行こう。靴を買ったら自分で歩けるぞ」


 レヴィンがそう言えば、少女はむすりとした表情は変えずに、首だけこくりとうなずいた。



◆◆◆◆◆



 五日ぶりに帰宅した主が、少女を連れてきた。主よりは少し幼く、成年である十五にはまだ届いていないだろう、黒髪の美少女を。


「おかえりなさいませ、レヴィン様」


 屋敷の扉を抜けて玄関ホールへと足を踏み入れた主に向けて、エルマ・アトロスは一歩前に出て頭を下げた。彼女の背後では、弟のゼルマもそれに倣って同じ動きをしていることだろう。


「ただいま、エルマ、ゼルマ。二人とも休暇はゆっくり休めたか?」

「はい、おかげさまで。母も変わらず元気でおりました」


 微笑んで答えたエルマに、レヴィンは安堵した表情を見せて「そうか。よかった」と言った。それから横に立つ少女にちらりと視線を向けると、少し戸惑った様子で口を開く。


「……急ですまないが、見ての通り客人を連れている。しばらく滞在してもらうつもりなので、彼女が過ごしやすいように協力してもらえるだろうか……」


 主人が使用人に下す命令にしては、遠慮がちな口調でつたなく言う。

 それでも、エルマは内心ひどく驚いていた。

 レヴィンが、自分たち姉弟に促されてではなく、彼自ら頼る姿勢を見せてきたのは、どれくらいぶりのことだろう。今のような主人と使用人の立場になるよりも前、きょうだいのように近しく接していたころ以来なのではないか。


 エルマは、はぁっ、と大げさにため息をつくと、肩をすくめた。


「レヴィン様。お願いですから、そんなふうに遠慮がちにならないでください。寂しくなってしまいますから」


 あえて踏み込んだ距離感でそう告げてから、背後にいる弟を振り返って「ねぇ、ゼルマ」と言う。


 少し眠たげな顔で「はい」と答えたゼルマは、紅茶色の髪と明るい紅茶色の瞳をもつ、長身の青年だ。双子の姉弟である自分たちは、服装と性別の差異を除けば、ほとんど同じつくりの容姿をしている。


 レヴィンは目元をやわらげると、「ありがとう」と応じた。


 客人をいつまでも立たせておくわけにもいかないので、いったん応接室へ通すことにした。先導しようとしたエルマを、レヴィンが制して自分が案内すると言ったので、そのまま任せることにした。


 この屋敷には、自分とゼルマ以外、使用人がいない。客人を迎え入れる準備だけで手一杯になりそうだった。


 客室の準備をゼルマに頼んでから、エルマは自室に戻り、自分の衣装棚から客人でも着ることができそうな服を見繕った。先ほど少女が身につけていた服はレヴィンのものだったので、おそらく着替えがないのだろう。間に合わせとして自分の服を使ってもらうとしても、滞在するのであれば、身の回りの品も含めてある程度は買いそろえる必要があるだろう。


 頃合いをみて厨房に向かい、客人に出すお茶の準備をしていると、レヴィンがやって来て「お茶くらい自分で淹れるから」と言った。エルマが笑顔で大丈夫だと応じると、申し訳なさそうな顔をする。


「すまない。二人には余計に負担をかけてしまっているな……」


 余計に、というレヴィンのその言い方が、日ごろから負担をかけていると彼が感じていることを物語る。


「負担ではありませんよ。頼ってもらえて嬉しいと、ゼルマも私もそう思っています」

「……うん」


 思いがけず素直で幼い返事がきて、つい手が伸びそうになるのを、エルマは自制した。成人を迎えて三年もたつ青年の頭を、安易に撫でるのもどうか、と彼女は思っている。その役目は、そういう疑問を一切持たない弟に譲ろう。


 エルマの脳内葛藤など知らないレヴィンは、ためらいながら口を開く。


「……彼女は、二日前にザウパの森で倒れていた。見つけたときには、それ以前の記憶がなかった」

「……そう、だったんですか……」


 客人に記憶がないと聞いて驚いたが、同時にどうしてレヴィンが彼女を連れてきたのかは、得心がいった。寄る辺のない少女を放っておけず、保護することに決めたのだろう。


「当人に記憶を失くした自覚はないし、当たり前の日常動作も覚束ないところがあるから…………その、気にかけてやってくれるだろうか……」

「わかりました」


 レヴィンが安心できるよう、にこやかに請け負いながら、慣れない場所に少女を一人残してまで彼が厨房に来たのは、これが伝えたかったためなのだろうと思った。


 会話しながらも手際よく淹れたお茶を、渋くならないよう茶葉を濾したうえで別のティーポットに移す。隣では、レヴィンがすでにカップやソーサーを乗せたトレイを準備していた。


「お部屋の用意が整いましたらゼルマと一緒に伺いますから、お客様にきちんとご挨拶させてくださいね」


 ポットをトレイに乗せてエルマが言うと、レヴィンはそれを静かに持ち上げながら「わかった」と微笑んだ。

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