第2話 エルージュティアの悲劇 破

 クオトラは自身の体を見回す。もうどうともならないと思われていた手足は、多少血色が悪いものの、その形を保っている。体は重いものの、耐え難いのは一部だけ。雨が当たり、脳から右目まで繋がった一本の線に走る痛みだけであった。


「どうして……いや、そんなことより。母さん、父さん、ルーシュさん……フローリア……」


 クオトラの瞼の裏には、死んで欲しくないと願う人々の顔が浮かんでくる。そして考えれば考えるほど、体を動かさずには居られなくなっていた。


 クオトラはまだ死にかけの体で地を這いずり、家の外へと出る。クオトラも分かってはいたはずなのだが、嫌な臭い、地獄のような光景が嫌でも目に入りどうしようも無い感情が溢れていた。


 耐えきれない……。ギリギリまで耐えようとした感情だったが、喉元まで迫ったものを、その場に吐き出した。体が震え、零れる涙が視界を覆う。


「行かなきゃ」


 それでも進まきゃいけないと自分を鼓舞し、体をなんとか起こす。足はまだ自由に動かないものの、クオトラはきっとあの場所に皆がいると、淡い希望を抱き道を進む。


 空には身を溶かしながら泳ぐ異形。死竜と呼ばれる人間の成れの果てが飛んでいた。


「嫌だ、僕はあぁなりたくない」


 知識としては持っている。竜の血に抗える適性がある人間が、自分のキャパシティを超えた竜の情報を刻まれると、あぁなってしまうと。死竜は建物を壊し、地上を覆うゼリーを貪っていた。


 きっとあれが無ければ建物の中の人間は……。


 目を逸らしたい光景。クオトラの精神は、悲しみより怒りに支配されようとしていた。


 はぁはぁと、荒くなる息を何とか整え、目を背ける。逃げるためではなく、目的を果たすために。


「会いたい……誰でもいい。誰かに」


 クオトラの心は、いつ崩壊してもおかしくない状態にあった。誰でもいい……そんな訳がない。それなのに自分一人ではないと、ただひたすらに証明が欲しかった。


「あの角を曲がれば……きっと」


 そこはさっきまで皆が居た場所。クオトラはふらふらと、覚束無い足へ鞭を打ち、壁伝いに歩く。息が荒くなる。最後の希望……だからこそ、見ることが怖い。希望が打ち砕かれる瞬間が怖い。


 あと一歩踏み出して、その先を見るだけでいい……。クオトラは不安を飲みこんで、覚悟を決める。


 閉じようとする瞼を黙らせ、クオトラは曲がった先の広場を直視した。広がる光景は紛れもない地獄。だが、そんなことは分かりきっている。


 限界を迎え、横隔膜が破裂しそうになるがそれでも必死に人影を探す。胸に手を当て、荒ぶる心臓に頼み込む。視界にはいくつもの異形が映り込んでくるが、祈りは届いていた。


「フレーリア! 」


 青く塗られた木材で出来た屋根の下、金色の髪の少女がそこにいた。綺麗な青色は一部を残してほとんどが変色してしまっているが、それでも分かる。さっきまでいたあの場所であると。


 フレーリアは決して無事では無いだろう。遠目からでも分かる。身体を壁に預け、なんとか起こしているだけの状態であることが。それでも身体がある。生きているのが分かる。全てを投げ出したくなる様な地獄の中、クオトラは希望を見つけた。


 未だ得体の分からない、痛みが残留する瞳からは涙が零れ落ちていた。クオトラは笑顔を浮かべ、走り出す。途中いくつもの異形の姿があったものの、クオトラへと興味を持っていないようで、すぐ横を通り過ぎて行く。


 ちらりと目をやれば、異形はゼリーへと向かっているようだったが、クオトラは見ぬ振りをしてフレーリアへと駆け寄った。


「フレーリア! 」


 すぐ手が届く距離。クオトラはフレーリアを抱き寄せた。


「クオトラ……」


 掠れ、絞り出されたような声。クオトラ以外では、目を瞑っていれば誰の声なのか分からないだろう。


「良かった、本当に良かった。見に行きたかった……けど、体が動かなかったの。ありがとう生きていてくれて」


「僕もうダメだと思った。何も残ってないと思った。良かった。本当に良かった」


 絶望の淵であることに変わりはない。ここから生きてどうこう出来る確証もない。辺りには異形の竜だらけ。それでも、クオトラはどんなことでも出来そうな気がしていた。


「誰か他に生きてる人はいた? 」


 誰とは言えなかった。クオトラにはまだ、聞くのが怖いと言う感情が残っていた。彼女が生きているのなら他にもと、希望を持った。


「大人たちは皆祭壇へと向かってったわ。わたしたちが、伝説って呼んでたアレを本気で信じていたの。ここに来るまでに覗いてきたけど……クオトラにはあんな景色見せられない」


 真正面のフレーリアは、クオトラに目を合わせようとしない。それでも、その声色からは全てが伝わっていた。クオトラには見せられないという言葉から。


 期待していた訳では無い。それでもクオトラは生きていて欲しいと願った。だが、両親はもう既にこの世に居ない可能性が高いのだろう。


「泣かない。僕は泣かない」


 必死の強がりだった。それでも今悲しみに暮れてしまったら、今持てる少ないものすらも全て失ってしまいそうで、暴れだしそうな感情を力づくで押さえつける。そして瞳が潤み、今にも叫び出してしまいそうな喉を閉める。


 抜けたばかりの奥歯を噛み締め、口内に残るドロドロとしている黒ずんだ赤色であろうものを飲み下す。


「偉いわ。クオトラ。貴方は偉い。わたしは泣いちゃったもの。耐えられなかったの……ここに来るまでの間、あの生き物に襲われたわ。でもルーシュが助けてくれて、身代わりになってくれて。どうしようも無いわたしは、逃げるようにしてここに辿り着いたの。きっとこれはわたしの傷になる。今も苦しくてしょうが無い……なのに貴方に会えたことが嬉しい。わたし、貴方みたいに強くないのかもしれない」


 フレーリアは笑顔のまま涙を流す。いつもの笑顔のはずなのに、クオトラにとってそれは見たことの無い表情だった。彼女の感情の吐露を受け止めるだけのキャパシティが無いクオトラは、胸を緩く締め付けられるような感覚に胸を抑えて膝をつく。


 いつ事態が急変するかは分からない。それでも、耐え、受け止め切るには時間が必要だった。


 すすり泣く声と、荒い息だけの空間。整えようと試みても、成功しない。分かっていても、焦りは感情の収束を遅らせてしまうだけで。


 そして、想像していた悪夢は……。


「あっ……」


 一匹の異形が、体勢を崩し二人のもとへと飛んでくる。視界の端に捉え、一瞬先に気づいたクオトラが声を上げるものの、既にどう出来る状況でもなかった。


 直接的な敵意は見えないものの、横幅だけでも四メイル、クオトラの背丈の倍は優にあるであろう異形に潰されてしまえば、きっと無事では済まない。そしてその後に起こりうる悲劇を考えるとクオトラの喉は硬直し、それ以上の声をあげられなくなっていた。


 終わりを悟り、せめてフレーリアだけはと手を伸ばすが明らかに間に合わない。どうしてこんな時ばかり……と、クオトラがスローモーションに見える世界を恨んだーーー



ーーー直後、眼前まで迫っていた異形が、爆風に押され吹き飛んでいく。二人の目の前を通り過ぎた爆風の出処は分からないが、クオトラは驚くと同時に身構えていた。


「無事かい」


 場違いな程に穏やかな、落ち着いた声。歳の割に老けてるんじゃないと、ついつい言ってしまいたくなるその声にクオトラは安堵していた。


「ルーシュ……さん」


「うん、無事そうだね、良かった」


 フレーリアが泣き腫らした目へ、更に涙を貯めている。絞り出した声を聞いたルーシュは、いつものように柔らかく微笑んだ。


 いつもの姿を期待して、クオトラが声の方へ目を向ける……と、左目があった位置が真っ赤な血溜まりへ変化し、女性を思わせる細くしなやかな手指が赤黒く、まるで獣の様なものになっていた。無事には見えないその姿に、クオトラが息を飲む。


 よく見れば血だらけの体は、何とか原型を留めていると言ったカタチで、ぼろぼろの体は触れれば崩れ落ちてしまいそうだった。


「ルーシュさん……」


「フレーリアは無事では無さそうかな。でも、当たり所が良かったんだろうね、その様子ならもう少し休めば回復するだろうさ」


 ルーシュが笑顔を崩すことは無い。きっと彼のことだ、自分の置かれている状況は最も深く理解しているだろう。それなのに……。


 クオトラは、己の無力さを感じ、歯が砕け散ってしまいそうな程に強く奥歯を噛んだ。


「落ち着いたら、皆でここを抜け出そう」


 どうしてだかは分からないが、分かってしまう。ルーシュの表情がいつもと少し違うことに。嬉しいはずの言葉なのに、クオトラは上手く笑って返すことが出来なかった。


「二人は隠れて。体力が回復し次第、移動するから全力で休むんだ」


 クオトラの頬に、ルーシュは既にルーシュでは無くなった手で触れる。傷つくことがないように柔らかく、優しく。そして二人の目の前にその身を投げ出した瞬間、空から血の色に染まった異形が、滑るように襲いかかる。


 大きく開かれた口に見える地獄の入口。乱雑に配置された無数の歯が、ルーシュを引き裂くべく襲いかかる。


 最悪の光景を意識して、クオトラは叫ぼうとするが痙攣しているのか、喉が意思通りに動かない。手を伸ばし、抗おうとするがその地獄が現実になることは無かった。


 異形のすぐ真下で小さな火球が生成され、腐りかけの頭部をを焼き払ったからだ。


 一瞬の出来事。クオトラには、ルーシュがただ腕を振るっただけのように見えた。


「いいかい、クオトラ。よく見てるんだ。そして、絶対に君はそこから動くな」


 ルーシュは振り向くことなくそう告げる。クオトラの震える足は飛び出したいのか、逃げ出したいのか、そんなことが自身にも分からなくなっていた。


 ルーシュが、手を振るう度、吸い寄せられるように異形が襲いかかる。ルーシュはそれを平然と受け流し、屠っていく。人間とは思えない爪、謎の火球、謎の爆風。それら全てが、普通の人間だと思っていたルーシュの行動により発生していた。


「ねぇ、夢じゃないよね」


「夢だったら良かったのに……。僕は二人と話しているだけで楽しかったのに」


 異形と戦うルーシュは格好良かった。まるでフィクションで見るキャラクターのように現実味が無いその姿に、どこか心が踊らされる。だと言うのに不安が消えない。彼が消えてしまうのではないかという、なんとも言えない嫌な予感が、クオトラの内蔵を圧迫していた。


 それでもおぞましい血の匂い、肌を撫でる熱気は決して夢では有り得ない。あの姿が夢ではないと、無理やり現実を突きつけられている気分に、クオトラは目を背けたくなっていた。


 ルーシュは間違いなく強い。そこにいる沢山の異形が束になっても相手にならないだろう。だが倒しても倒しても、異形の姿が減っているようには見えなかった。晴天の空を覆う計測不可能な数の雲が、夜になって全て異形に変化してしまったようだ。


「心配しなくても、俺は負けないよ。これは決まってることだから」


「ルーシュさんの言うことは分からないよ……」


 フレーリアがぽつりと、ルーシュには聞こえてないのではないかと思われるほどに小さく呟いていた。クオトラにもその言葉の意味は分からない……が、それでもルーシュが負ける様子は考えられなかった。


「フレーリア」


 ふと、クオトラが彼女を見ると右肩の破けた服の隙間から、大きな斑点が見えていた。


「わたし、肩にあの雨が当たっちゃって。そしたら真っ赤な斑点が……なんなんだろうねこれ」


 フレーリアは破れた服を寄せて、斑点を隠す。それでもどくどくと脈を打っていた斑点は、クオトラの目に焼き付いて離れようとしなかった。


 クオトラも、自身の眼を隠すように前髪を寄せる。


「ルーシュさんは戦ってる。きっと僕たちの為に……悲しいけど、僕ももうただの人ではないみたいだ。足が固まった感じがする。今なら走れそうだから。フローリアが動けそうになったら一緒にこの街を逃げ出そう」


 クオトラは震える声で、精一杯フレーリアに強がってみせる。


「悲しいけど、わたしも。もう少しすれば動けるようになりそう。あんなに力の入らなくて、人の物のように思えた足が、少しずつ自分の足のように思えてきたから」


 フレーリアは笑っていた。まだ少し表情がぎこちないが、やっと笑っていた。クオトラの体を強ばらせていた何かが、少し解けていた。


「そろそろか」


 クオトラは足を踏み鳴らす。自分のものとは思えないほど、力強い足に驚きつつも問題なく動けそうな感覚に安堵する。


「ルーシュさん、もう大丈夫」


「よし、なら行こうか。彼らに見つからないうちに」


 ルーシュは身を翻し、フレーリアを抱きかかえる。


「え……」


「フレーリアはまだもう少し、休息が必要なんじゃないかい? クオトラ、俺に着いてくるんだ」


 ルーシュは駆け出した。散々狩っていたせいか、ルーシュが走る先に異形の姿は見当たらない。


「ルーシュさん……」


 何も不安はないはずだった。だがクオトラは気づいてしまった。目の前を走るルーシュの表皮が、剥がれ落ち空気へと溶けていくことに。走った後に、薄赤色の軌跡が残ってる幻想的な光景。しかし、それがただ綺麗なものでは無いということが分かってしまう。


「ははは。心配しないでくれよな」


 心做しか、そんな声も力なく聞こえるような。だが、それでも地を駆ける速度は緩まることがなく、街のメインストリートに糸を引く。


 知っているはずの広さの街が広くなったような錯覚。いつもなら気が付かない床の染み、壁のひび割れが鮮明に見えるようで、一秒一秒が長く中々街の外までたどり着かない。


 移動速度は普段より早いはず、なのに思ったように進まない感覚。本当に街が広くなったのか、全てがスローモーションに感じてしまう程に自分が研ぎ澄まされているのか。


「クオトラ、余所見をするな。立ち止まるな」


 クオトラの迷いを見抜いたのか、振り返ること無くルーシュの声が響く。


「分かってるよ」


 クオトラは雑に答えて落ちたギアを上げ直す。一瞬振り向いたルーシュは、更に速度を上げる。人を一人抱えていると言うのが信じられない程の速度。クオトラは着いていくのが精一杯だが、速度を上げるほどにルーシュが身を削っていることが分かってしまい、不安が色を濃くしていく。

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