第1話

 誰もいない部屋に「行ってきます」を投げかけてから玄関の鍵を閉めた。

 外に出ると日陰だというのに春の陽気が伝わってくる。あと一週間も過ぎれば衣替えだ。

 春はいつも慌ただしく気づけば終わっていく。

 中学生のくせに奇妙なセンチメンタルさをいだきながら、私は鞄の中の定位置に鍵を仕舞い、エレベーターで一階まで降りるために足を一歩踏み出した。

 いつもと変わらない一日だった。その瞬間まで私は何の気配も感じていなかった。だが、空室になっていたはずの隣の部屋の扉が私の足を遮るように勢いよく急に開いた。

 どうやら思いもよらないことが起きると人は動けなくなるらしい。

 足を一歩踏み出した状態のままカチンと私の身体は動きを止めた。ホラー映画のような衝撃に扉から目が離せない。

 私の認識でだけスローモーションのように扉の向こうから人が現れる。

 チェーンソーを持った白い仮面の男でも、髪の長いワンピースの女でもなく、見たことのない制服を着てはいるが足のある人間が隣の家から出てきた。

 この辺りにある中学はどこも男は学ランで女子はセーラー服なのだが、目の前に見えるのはブレザーを着た人がいた。ブレザーが制服の学校は一番近くて電車で一時間の距離にはある。しかし、数回だけ見たことのあるその制服とも違うようだった。

 遠くの学区から最近になって引っ越してきたのだろうか?

 私と似たような背格好の――彼の方が少しばかり背が高いようではあるけれど――男の子。

 これから転入してくるのであればきって私と同じ中学だろう。けれど転入生の話なんてここ数日中に聞いた記憶はない。もしかしたら今日が初めての登校日なのだろうか。

 制服に気を取られて私がぼうっとしているうちに、彼も私の存在に気づいたようだ。

 黙ったままでいる私をいぶかしんだのか、怪訝そうにこちらを見てきた。

 お隣さんに初対面から変な印象を持たれるわけにはいかない。遅ればせながら慌てて挨拶をしようとして、彼の顔をやっとまともに視界に入れる。

 彼の顔を直視した私は、挨拶をすることが出来なかった。

 口からこぼれたのはとても小さな声だったが、どうやら届いていたようで一瞬にして彼の表情はしかめられた。

「何?」

 剣のある声だった。

「あ、いや、その、……ごめんなさい」

 勢いに押されるままに謝ると、彼はまるで当てつけるようにため息を吐いた。

「たまに言われるけどさあ、そのドールとかってモデルと僕は何の関係もないから」

 不機嫌そうに言いながら、ほら。と、彼は自分の目を見せてきた。

「そのドールってモデルは目が青いんだろう。見なよ僕のこの日本人らしい目の色を」

 目の色が違うのだから別人だと言いたいのだろう。それにしては似すぎていると思うけれど、まじまじと彼の顔を確認出来るような空気ではなかった。

「あの、……ごめんなさい」

「――まあ、いいよ。誤解がとけたのなら」

 何度も言われているのだろう、煩わしさを磨り潰すような声だった。そして不快さを隠しもしない剣呑な表情もしていたが、ふと私の着ている制服に彼が目をとめると雰囲気がパッと変わった。

「君さあ、もしかして桜台中の生徒?」

 桜台中というのは、ここら辺の学区の中学生が通う公立の中学校のことだ。そして勿論、私も桜台中の生徒だった。

「そう、ですけど……」

 および腰になりながら答えると、彼は私たちの間にある距離を一歩詰めて勢いよく言葉を発しはじめた。

「学校までの道を教えてほしいんだ。地図寄越されたんだけどさあ、これが簡易に作られすぎて全然分かんなくて。アプリ使ってもいいけど土地勘ないと時間かかっちゃうじゃん? 初日から遅刻したくはないんだよね」

 口を挟む余地もなく続く言葉に圧倒される。私がモゴモゴと曖昧な態度をとっていると、彼はその様子に少し苛立ったようで「聞いてる?」と眉間に皺を寄せた。

「えと……、学校まではここから徒歩で二十分くらい、なんですけど」

「え! そんなに遠いの?」

「知らなかったんですか?」

 彼はぶつぶつと、「あいつ」だの「絶対わざとだ」だの、頭を抱えながら誰かに対する不満を並べ立てた。

 そして突如「ああ、もう!」と癇癪をおこしたように叫ぶと、彼はすぱっと感情を切り換えるように思いきりよくこちらに振り向いた。

「知らないやつと歩くの嫌だとは思うんだけどさあ、今日だけ学校まで僕のことを連れていってくれない? 一度行けば覚えられると思うから、今日だけでいいんだけど」

 頼むよ。と手を合わせる彼の瞳は黒々とした色をしていた。

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