第28話 アンナの命

 レオンは、書き上げたアンナの詩を読んで、いつも嬉しそうにその曲を自分で歌ったりした。アンナはますます声が出なくなっていた。

レオンがアンナの書き溜めた詩を読んでいる時に、ふと目を上げてこう言った。

「アンナの詩は、愛の詩が多いね。愛おしさや切なさ・・・、でも哀しい詩はないんだね。」

アンナはそのレオンの言葉に自分でもはっとした。

「そうね。そうなのよ。私は、愛している、愛おしい、と詩を書きたいの。もちろん、私も苦しさは知っているのよ、だから、その詩も書いている。でも、そうね、レオンと逢えなかった時でも哀しみという感情とは違っていたのかもしれないわ。もちろん、苦しくて寂しかった。でもレオンはきっと私を忘れていない、愛してくれていると信じていたから、哀しい気持ちとは違っていたように思うのよ。それに、今は本当に幸せだわ・・・。」

レオンはアンナに近寄ると、じっとアンナを見つめて微笑んだ。



 

 二人の生活が始まって2回目の冬の終わり頃には、アンナの病状は奇跡を願うレオンの想いも虚しく、日々アンナの体を蝕み、ほとんど意識の無い日が続く様になっていった。

 ある日、アンナは痛みも感じずに涼やかな目をしてベッドに座っていた。そして、レオンに語り出した。

「レオン、私あなたをずっと待っていたのよ。毎日、あそこの窓から、坂道を見ていたの。あなたが突然ただいまって帰ってくるような気がして。私はとても寂しかったけど、あなたを待っていられて幸せだったわ。それにあなたはこうして私のもとへ帰ってきてくれた。そして、こうして一緒に暮らすことが出来たわ。私がどんなに幸せか、レオン、分かっているわよね。愛してくれてありがとう。私も命の限りにあなたを愛したと思うわ。だから、何も後悔することも思い残すこともないのよ。生まれ変わったら、私、また歌いたいわ。レオンもきっとピアノを弾いてね。レオンのピアノで歌いたい。ふたりの音楽を皆に聴いて欲しいのよ。あんなに美しい曲を生まれ変わってからも、私の為に書いてね。コンサートを開いた時、私は本当に幸せだったわ。でもなかなか上手くお礼も言ってなかった。レオンの気持ちが嬉しくて、魂が震える様に幸せだった。ありがとう・・・。」

アンナは一度深く息を吸い込んだ。レオンは、アンナをじっと見つめたまま固くアンナの手を握っていた。

アンナは、レオンの頬に手を触れた。

「もうすぐお別れだと思うのよ。あまり長く一緒にいられなかった。ごめんなさい。でも、私は本当に幸せなの。慰めで言っているのではないのよ。レオンの側にいることが出来て、本当に幸せだわ。だから、私が居なくなっても、ずっと素敵なピアノを弾き続けてね。あなたがピアノを弾く時、私たちは一緒なのよ。私はいつもそばに居てあなたの演奏を聴いているから・・・。レオン、愛おしいレオン・・・。」

「僕も心からアンナを愛おしく思っているよ。アンナは僕にたくさんのものを与えてくれた。かけがえのない人だよ。こうしてずっと一緒にいたいよ。」

 レオンはじっとアンナを見つめた。レオンは何も言わずにアンナを抱きしめた。レオンはアンナを抱きしめながら、その肩越しで涙を流した。いつまでも二人は抱き合ったままだった。

 その夜更け、アンナはレオンの腕の中で息を引き取った。アンナは苦痛の中にあってもレオンに抱かれて微笑んでいた。

 

 アンナの葬儀には、レオンの他にアンナの両親、幼友達、仲間の歌い手やピアニスト、アーニャとフェルナンド、それにフランク、レオンの妹サラも参列した。教会の鐘がこの時期にしては冷え切った大地に鳴り響いた。

 葬儀の後のお別れ会でも、皆一様に言葉少なかった。フランクと一瞬目が合ったが、レオンに対しては冷ややかな眼差しを向けただけだった。

 アンナの母親はアンナに生き写しで、一瞬アンナが生き返ったのかと錯覚を覚えるほどだった。母親はレオンの手を取り、何も言わなかったが、じっとレオンの手を取り握りしめた。じっとみつめる母親の目は、美しかったアンナの目が宿っている。レオンは思わず目を伏せた。

 自分の部屋へ戻り、ピアノの鍵盤を片手でぽんぽんと叩いた。アンナの残り香がまだ部屋に漂っていた。すぐそこにアンナがいるように思った。優しい笑い声が聞こえたような気がした。

 レオンが叩く鍵盤の一つ一つの音はやがて美しいメロディーへと変わっていった。

 レオンは夢中でピアノを引き続けた。ピアノを弾くとアンナがすぐそばにいるような気がした。いつもレオンのピアノを聴いてくれていたときのように、少しだけ微笑んで、目はきらきらとしていて。そのアンナの様子はなんと可憐で心が癒されたことだろう。すぐにも演奏をやめてアンナを抱きしめたい衝動にかられたものだった。

 レオンは、後から溢れ出る涙も構わずピアノを弾き続けた。

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