第10話 ビル・エヴァンスのレコード
アーニャはいつものように、学校の帰り道に買い物をして自宅へ戻った。
学校の実習で、耳の不自由な患者さんにシャンプーをしに病室へ行くと、ボディーアクションでとても強い拒否反応をされた。その患者さんは耳が聞こえないことを知らなかったアーニャは、訳がわからずにいた。
患者さんのご主人が病室に入ってくると、強く手を振るように手話で話しを初めた。アーニャはその様子をただ呆然と見ていた。
「どうしても怖いようです。すみません。やっていただくように言ったのですが・・・。」
言葉のないご夫婦の愛情の深さは、どれほどのものだろう。
音楽や言葉のニュアンスがなくても、愛情があれば、アーニャには分からないが手の使い方などで感情の細かなところも伝わるのだろう。
アーニャは自分がひどく子どもに思えて、気分は沈み込んでしまった。
アーニャは、学校から家に帰ること以外特に用事もありはしない。
友人が誘ってくれることもあったが、あまり皆でわいわい騒ぐのは好きではなかった。部屋に篭って読書をしたり、好きなレコードをぼんやり聴いているのが好き。
いつかレオンが貸してくれたレコードのことを思い出した。そういえば、これを返さなくちゃいけなかったわ。
そのレコードのジャケットには、ビル・エバァンスと書いてある。レコードの針を置いた途端、じりじりというノイズが聞こえて、その後ピアノの音が部屋の様子を一変させるように流れ出した。切ないような音楽だと思った。でも、その音は繊細な音にも関わらずエネルギーに溢れていた。部屋に置いてあった萎れかけたバラの花さへ、少しだけ息を吹き返したように思った。
アーニャは、久しぶりに彼のマンションを訪れた。今日は花もアップルパイも持ってはいなかった。使い古したバッグの中にはレコードが入っていた。これを返してしまったら、もう彼に会う口実が無くなってしまうかもしれないな。
いつものように、坂道にさしかかった。微かにピアノの音が聴こえる。アーニャの歩調は自然に速くなった。早く彼に会いたくてたまらなかった。あの曲はなんていうのだっけ。激しくも狂おしい曲。確かシューマンのクライスレリアーナ。シューマンがクララへの想いを綴った名曲。彼の家に近づくにつれて、その激しさが強く伝わってきた。少しピアノの弾き方が変わったのかしら?
足音を立てないように静かに階段を昇った。
部屋に着いたが、ドアの前に立って、曲が終わるのを待っていた。その時は、曲を中断させることに躊躇いがあった。ドラマチックな演奏が終わった。
すると、小さな拍手の音が聞こえた。
え?誰か居るの? 少しだけ耳をドアに近づけた。
「素晴らしかったわ。」
「そうか。ありがとう。」
ふたつの優しい声が聞こえた。アーニャの体は一瞬ビクンと痙攣したようになった。しばらく動くことが出来ずにその場に佇んでいた。一瞬、バッグの中のレコードをそっと触った。そして、音も立てずにそっと階段を降りた。
アーニャの足は、坂道を歩き出しても、いつまでも階段を下っているように不安定だった。
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