第4話 回り出した運命の輪

 季節は初秋に入った。冷たい秋の風がアンナの心に寄り添うように、アンナは淋しさを感じるようになってきた。

 レオンとはライブではよく一緒になったが、個人的な話は殆どすることはなかった。レオンはライブが終わると、あっと言う間に1〜2杯バーボンを飲み干し「お疲れ様」と言って帰ってしまう。 アンナはいつも、そのレオンの後ろ姿を淋しい気持ちで見送った。 旅の仕事でのあの夜の会話や、一度だけ一緒に飲みに行ったことなど、何もなかったかのようだった。

いいえ、当たり前のことだわ・・・私が勝手に妄想を抱いただけ、ただ、話をしただけなのだから・・・。もし私が独身だったら、もっと積極的に話をしたのかもしれない。でも夫がいる今の自分にはそれは許されないことの様に思えた。 それに、レオンと親しくなることで、自分の人生はどこへ向かおうとしているのと自分に問いかけた。

しかし、自分の気持ちを押さえつければ押さえつけるほど、レオンに対する思いが深くなっていくことに恐れを抱いた。

 久しぶりに家でゆったりと過ごした休日は、素晴らしいお天気だった。

アンナは庭に出て、最近はあまり手入れをしなくなった庭の花を眺めた。自然に咲き乱れる花々はそれはそれで力強くて美しかった。しかし薔薇の花だけは、やはり丹精こめて育てなければ荒れ果ててしまう。アンナはその姿に心が痛んだ。

 アンナの家は、なだらかな山腹の途中に建っており、その景色に繋がるように広い庭がある。結婚した当初は、色とりどりの花々や苗木を買ってきて好みの庭を造るのが楽しみだった。毎日花に水をやり、雑草を刈り取り、肥料を蒔いて花を育てた。アンナは特にバラが好きだった。バラは少しでも手を抜くと花を咲かせなくなってしまう。すぐに虫も付いてしまうので、毎日細かく花の様子を観察する必要があった。しかし、最近では、庭の手入れはお座なりになってしまった。

 以前夫に「お花綺麗でしょ。あなたに見てもらいたくて育てているのだから、たまにはお庭に出て花を見てやってね。バラが素晴らしいのよ。」

「こんなに金をかけていれば綺麗なのは当たり前だな。」

その言葉にアンナはとても傷ついたのをはっきり覚えている。その頃から、夫婦の関係は少しずつ冷めていたのかもしれない。

 アンナの住む家はレンガ造りの大きな洋館だった。広々とした居間には大きな暖炉があり、幾つもの寝室とバスルームがある。住み心地はとても良い。自分の部屋にはグランドピアノが置いてある。部屋の窓からは、なだらかな高原が広がり南斜面には葡萄畑が見える。これも夫のおかげだわね。今のままでも、さほど悪い生活でもないのだから。口をきかないことくらい、我慢すればいいのよ。何より、好きな歌を自由に歌っていられるじゃないの。それに、夫に対して全くの情がないわけでもなかった。以前のように気持ちを通い合わせたいと思っているところもあった。しばらくはこのままの状態を続けるしかないかな・・・。ここ数年間は、結局はいつもそんなところへ落ち着いてきたのである。

 ふと、旅の夜のレオンとの会話を思い出した。彼のことをもっと深く知りたいと思った。会う度に彼に心が惹かれていく。

 レオンは何を好んで食べ、どんな本を読み、どういう家に暮らしているのだろう。好きなミュージシャンやヴォーカリストは? どんな音楽が好きなのだろう。それに、どんな素敵な女性が彼の周りにはいて、そして、どんな恋をして、真剣に愛を語る時には、どんな瞳をするのだろう。私はどんなふうに彼に接したら、私を好ましく思ってくれるのだろう。今頃はどこにいて、誰といるのかしら・・・? 

 時々何気なく目が合って、しばらくお互いに見つめ合っているのは、何か意味があるのかしら?それとも、私の錯覚? 少しは、レオンは私に興味を持ってくれているのかしら? 出るはずも無い答えを探して、アンナの心は彷徨い、押し潰されんばかりだった。

 レオンは親しくなったかと思うと、次の瞬間には遠くへ行ってしまう。まるで、音も立てずに静かに扉を閉め、部屋から消えて、どこか孤高の城に閉じこもってしまうかのように。私はあわてて扉を開け、急いで彼の姿を追いかける。彼の姿は見えなくなる。彼の奏でる繊細な音楽は、聴く人の心を魅了する。でも、彼の生活や思いは他人にはおよそ窺い知ることは出来ないのだ。アンナは次第に深くなっていくレオンへの思いを、いつか口に出してしまうのではないかと予感していた。夫がいることで、自分の気持ちを封じ込め鍵をかけ、理性で抑えこまなければいけないと思ってきた。しかし、その抑制も今ではほとんど効かなくなっていた。溢れる思いは、やがてはアンナの心を支配するようになった。溢れ出した思いは、もう自分ではどうすることも出来ないのだ。

                

 冬の凍てつく様なその夜は、金色の雫が滴り落ちるような満月が夜空を照らしていた。アンナは街を歩きながら夜空を見上げ、その美しくも妖しい光を楽しんでいた。

「アンナ・・・。」

アンナはその微かな声のする方へ振り向いた。

「今晩は。」

彼は私の顔を見ると立ち止まり、いつもの子どもの様な笑顔を浮かべて軽く会釈しながらそう言った。私は何処からともなく現れた彼の姿を見ながら、ぼんやりとした意識の中で答えた。

「レオン。こんな所でお会いするなんて偶然ね。これからお仕事なの?」

「うん、今日はジャズのライブ。」

「どちらで?」

「あの角の先にある店だよ。」

「あんなに近くの・・・。私、今日は仕事も無いし、演奏を聴きに行こうかしら?」

「ああ、よかったら・・・。」

 彼はアンナの先を歩き出した。アンナは彼に追いつこうと小走りに近づいた。その時、ふぅと微かなため息が聞こえたように思った。アンナは、ほんの一瞬自分の胸の鼓動を感じた。

「そのお店には、よく出演なさるの?」

「一月に二回位かな。」

「そう。」

「今日のライブは、歌も入るの?」

「いや、ピアノ、ベース、ドラムのトリオだけだよ。」

「そう・・。楽しみだわ。」

レオンは微かに微笑んだ。

 アンナはこの素敵な偶然を喜んだが、その時、ふと、何か運命の歯車が音を立ててある方向へと向かうのではないかという思いが頭を過った。でもそれも一瞬のことだった。この出会いを喜び、そして、これから数時間だけでも、彼の傍にいられることが何よりも嬉しかった。

 

 店に入ると、すでに50人以上のお客でごった返し、私の席は店の隅のほうへ作られた。他の3人組の客と同席だった。すでに、ビールを何杯か飲んでいる様子で、楽しそうに大きな声で話をしていた。

「ああ、レオンのピアノ楽しみだわ。」

「僕も今日は仕事がさっさと片付いたよ。真面目に仕事するとこんなに早く帰れるものなんだな。」

わぁーと他の二人が笑った。お客達は皆興奮して、どの顔も期待に輝いていた。こんなにレオンの演奏を楽しみにしているのね。

 ステージの方を見ると、レオンがベースやドラムの人と話をしている。レオンのきらきらと光る瞳は一層輝きを増し、体中からエネルギーを発散させている。何かレオンが冗談を言ったらしく、ミュージシャン達は顔を崩して笑っている。レオン、楽しそう・・・。あんなに生き生きとして!アンナは、自分のことのように嬉しくなった。

 程なくして、客席の照明が落とされた。レオンはピアノの前に座った。

その途端、客席は水を打ったように静まり返った。

 レオンは最初、いつものように右手で幾つかの鍵盤をたたいた。そして、優しくメロディーを奏で始めた。その音は、どんな人の心も溶かす優しい響きだった。音色が絡みつくように体中を取り巻く。優しく艶のある音色。レオンの奏でる音楽は、その上に体が浮いてしまいそうな感覚を持たせる。自由に心が羽ばたいて、一番自分の好きな場所へ連れていってくれる・・・。アンナは目を閉じた。レオンの音楽を少しでも多く感じたかった。

 ベースとドラムもレオンのピアノに合わせて、優しい音を奏でた。なんて素敵な演奏だろう。優しいけれど、その中に深みと悲しさもある。 その晩のライブは、それから数年間、アンナの記憶の中で何度も思い起こされる、心に深く刻まれた演奏となった。

 どうしたらこんな音楽が演奏できるのかしら?ますます彼のことを知りたいと思った。もっと彼のピアノで歌いたいと思った。馬鹿げた事ではあるが、一緒に演奏しているミュージシャン達に、少し嫉妬すら感じた。

 最初のステージが終わると、レオンはそのままアンナの方へ歩いてきた。少し首を傾げながら彼は言った。

「楽しんでる?」

彼の目はきらきらして、頬は少し赤みを帯びていた。

「ええ!素晴らしかった。本当に。」

「ははは。それは良かった。」

そう言って、アンナのそばに椅子を引っ張ってくると腰掛けた。私はその彼の行動が意外だった。他の3人の客は、これ幸いとばかりにレオンに話しかけた。

「レオン、私、あなたのファンなんです。大好き!」

レオンは少しはにかみながら答えた。

「ありがとうございます。」

「本当に良いなー。もう興奮しちゃいましたよ。」

「それはどうもありがとう。また来月も出演しますから良かったらいらしてください。」

「ええ、ぜひ伺うわ。ねっ!」

他の二人も大きく頷いて、笑った。そして、3人の客はレオンと話をすることに一通り気も済んだ様子で、自分たちだけの会話をしだした。

 

 レオンは私の方へ向き直ると小声でこう言った。

「今日はいつまでいるの?」

「え、別に決めていなかったけれど、最後まで聴いていくわ。次のステージも楽しみだわ。」

「そうか・・・。それじゃ、終わってもすぐに帰らないで待っていてね。どこかで一杯飲もう。いい?」

「ええ。是非。」

 予想外の彼の誘いに、私は顔が赤くなるのを感じた。演奏して、興奮しているのね。だから、私のことなんか誘ってくれたのだわ。そう思うだけの自制心はありはしたものの、胸の鼓動は早くも音を立てて打ち出した。私を誘ってくれたのね・・・。暖かい感触が体を包み込んだ。

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