第4話 真相

 コト、と食器を置く音が、私を夢から呼び戻した。


 重いまぶたを精一杯に持ち上げると、ぼんやりと霞んだ世界の中に、人影が映り込んだ。


「あらまあ」

 たおやかな女性の声が、耳に心地よく響く。

「目が覚めたのね」

 ふっさりとした白髪の、にこやかな表情にピントが合った。


 私はやおら起き上がった。

「ここは……?」

 生まれたての雛よろしく左右を見渡す私に、その老婆は微笑みかけた。

「赤沼の近くよ。私はここで、土産物屋をしているの」


 赤沼——ということは、泉門池からは少し離れている。私は気を失うまでの記憶を、少しずつより戻していた。


 あの後、自分の身に何があったのだろうか。そして、あの女の子は。

「あの……かなり距離があったと思うんですが。泉門池からここまで、あなたが運んでくださったのですか?」


 私の言葉に、女性は目を見張った。

「あなた、何も覚えていないというの?」

「……はあ」

 何のことか分からず、私は口をぽかんと開けていた。老婆は床からボロ切れのようなものを持ち上げ、私に見せてきた。

 上半身が裸であることに今更ながら気付く私に、彼女は言った。


「熊が出て大変だったのよ、それはもう」


 稲妻が走るような衝撃が襲った。

 それはボロ切れなどではなかった。


 私の上着だったのだ。


 上着は背中のあたりが噛みちぎられ、それ以外の箇所も、見る影もなく引き裂かれていた。私は目の前の物証と、老婆の口から飛び出した事実を、必死に紐付けようとしていた。


「それはつまり……私が、襲われた。……ということでしょうか」

 途切れ途切れでそう言いつつ、私は背筋が板のように硬直するのが分かった。肩越しに振り返ろうとするも、その動作は油の切れたロボットのようにぎこちない。

「けっ、怪我は……? 私は生きているのでしょうか?」


「怪我をしていたら、私だってこんなに落ち着いてはいないわよ」

 老婆は深いため息をついた。

 私はひとまず、胸を撫で下ろした。酷い疲労感を除けば、体のどこにも痛みはなかった。それでも、無残にも大穴が開いた上着は、私の身に起こったことを如実に表している。


 何があったのかと問うと、彼女は顎に手のひらをのせた。

「あなたが熊に襲われそうになっているところを、他の登山者が見つけたのよ。あなたはすでに気絶していて……彼は救助隊を呼んだのだけれど、熊が興奮していたせいで中々近づけなかった。結局、けが人を二人も出して、ようやくあなたの身柄を引き取ったのよ。死者が一人も出なかったのが物怪の幸いね」


 彼女の言葉をゆっくりと反芻する。私が最初に襲われた時点から救助されるまで、聞いた話が正しければかなりのタイムラグがあったはずだ。いくらヒグマではないとはいえ、その間に傷一つ負わなかったというのは不自然だ。

「場所はどこですか? 私はどこで——」

「泉門池よ。景勝地のあそこで良かったと思いなさい。人気のない山道で襲われていたら、命はなかったわよ」


「泉門池!」

 私は思わず立ち上がった。あの小柄な女の子を連れて、最終的にたどり着いた場所だ。気を失ったのはその地点。であるならば、そこで熊に遭遇したという話は納得がいく。


 でも、だとすればあの女の子は?


 私が助け出されたのはいいとして、彼女はどうなった?


 心臓が倍の速さで脈打つ。

 今ここにいないならば、一体どこへ行った? 怪我をして病院に搬送された? いや、その割に、目の前の老婆はやけに落ち着いている。まるで、私に怪我がなくて一件落着、といった面持ちだ。


 殺された。


 その可能性が、黒いタールのように広がる。


 私を守ろうとして、盾になったのかもしれない。しかし、それでは『死者が一人も出ていない』という証言に矛盾する。もしくは、私が発見された時にはすでに殺されていて、暗い森の中へ引きずり込まれてしまったのかもしれない。だが、そうと仮定すれば、その熊は彼女の死体を移動させたのち、再び私の元へ戻ってきたということになる。それはそれで不可思議だ。


 意を決して、私は尋ねてみることにした。

「あの……その現場に、女の子はいませんでしたか? 中学生ぐらいの、黒い服を着た」


 予想に反し、老婆はきょとんとした表情で首を傾げた。

「女の子ですって……? はて、そんなこと言ってたかしら」

 しばらく俯いたあと、彼女はもう一度口を開いた。

「私は聞いてないわね。もしそんなことがあれば、救助隊の方も、私に知らせないはずはないのだけれど」


 つきん、と鋭い痛みが胸をさした。

 彼女の混じり気のない笑顔が、心の裏側に張り付いて離れなかった。


「それにしても、どうして女の子? 知りたいことが多いのは分かるけど、話をしなければならないのは、むしろあなたの方よ」

 老婆の指摘は正鵠を射ていた。私は頷くと、自分の身に何があったのか、覚えていることを全て打ち明けた。

 竜頭の滝から続く獣道を、心細い気持ちで歩いたこと。戦場ヶ原に足を踏み入れようとしたこと。そして、件の女の子に出会ったこと。




「戦場ヶ原は立ち入り禁止よ。あなた、ラムサール条約をなんだと心得ているおつもり?」

 私が口を閉じ、老婆が最初に発した言葉はそれだった。


 思わず、あっ、と声に出してしまった。不覚にも、そんな基本的なことを失念していた。

 彼女は腰に手を当て、表情を緩めた。

「でもね……あなたが足を踏み入れようとしたのは、戦場ヶ原じゃないわ。きっと」


 訳が分からずにいる私の目をじっと見つめ、彼女は言った。

「あなた、黄泉の淵まで旅をしかけたのよ」


 なんともいえない沈黙が、部屋の中を漂った。

 私はその言葉が、しばらくの間受け入れられなかった。死にかけたというのだ、無理もない。


「救助の人が言っていたこと、ようやく腑に落ちたわ」

 彼女は独り言のように、ぽつりと言った。


 その真意をただすと、彼女は首を横にふった。

「その熊、一度たりとも、あなたを襲うそぶりを見せなかったんですって。あなたの周りをぐるぐる回ったり、時折匂いを嗅いだり……。でも、食べようとはしなかった。爪すら立てなかったそうよ。この意味、お分かりになって?」


 彼女の言わんとしていることを察し、頭が真っ白になった。

「そんな……そんな馬鹿なことが……」

「ええ、こんなこと、世界中のどこを見渡しても前例がないわよ。でもあなたの上着。背中だけが、噛まれたような穴が開いていたわ。その他の傷は爪や牙というよりも、むしろ地面を引きずられた跡のようにも見える」


 私は震えながら話を聞いていた。自分の背中には、何の傷もついていないことを思い出す。つまり熊は、私の背中の服だけを噛み、人通りの多い泉門池まで引っ張ってきたのだ。


 女の子に背中を引っ張られた時の感触が、まざまざと蘇る。私はあの時、死の世界に入りかけていたのだ。


 老婆は険しい顔で言った。

「この辺りに、遭難するような山道はないはずよ。それでも……準備不足だったり、正常な判断ができない人間にとって、山はどこまでも恐ろしい存在になりうる。平坦な戦場ヶ原であっても、それは例外ではないのよ」


 私は恥じいるように、深く頷いた。

 熊鈴の一件といい、私はあまりにも愚かだ。


 あまりに荒唐無稽な事実を前に狼狽する私に、老婆はとどめをさすかのように言った。

「あなたの話、聞いておいて正解だったわね。救助隊の証言と、何もかも辻褄が合っているもの。その熊、だったそうよ」

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