キャッチ・オフ・コースト

前編

 どんなプロフェッショナルにも想定外の事態は起こりうる。青天の霹靂、というものだ。意図しない客から意図しない頼みを受けた時、まずは脳内を整理する必要がある。キツネがジュージ・ヨルムンガンドの前で数秒沈黙したのは、そんな理由である。


「……もう一回聞くよ。オイラは、何を調べればいいの?』

「この辺りで最高級のオイスターが獲れる穴場ですよ。何度言わせるんです?」

「……いや、なんで?」


 イサキ・パディランドの使用人にして、暗殺組織“大蜈蚣”の元暗殺者。長髪を結った姿が特徴的な痩身の蜥蜴めいたマチェット使い。ハーブ・サブシスト神父の天敵……。彼を示す無数の情報はキツネの脳内に叩き込まれている。さらに言えば、キツネの手で連れ出されたイサキ嬢の存在によって彼は『主の岬』の教会へ滞在することになっているのだ。本来なら、恨まれても仕方ない立ち位置である。

 だからこそ、キツネは無意識的にジュージと顔を合わせないようにしていたのだ。いつ携帯しているマチェットで刺されるかわからない。そう思っていたキツネが驚くのも無理はないのだ。


「お嬢様が……イサキお嬢様が、私に食事を振る舞うと仰るのです。幼い頃に父君と食べたオイスターのフリット、いわゆる“カキフライ”をお作りになられると。ですので、極秘で美味しい素材を提供したいのです!」

「カキフライ? あぁ、名前だけは聞いたことあるけど……。そういう事なら、オイラじゃなくて眼鏡のシスターにでも聞けばいいじゃん。あの人料理も上手いし、店売りで美味しいオイスターの見分け方もわかるよ」


 ジュージは静かに首を振り、逡巡の後に重い口を開く。


「日々の生活のお世話はすべて私がやっていまして……お嬢様自身は料理経験がほとんどないのです。ですのでシスター・チヒロが付きっきりで料理を教えているのですが、お嬢様は少々個性的な感性をお持ちで……。一度こちらの屋敷でキッチンを任せたところ、洗剤がついたままの食材が……」

「あー、それはカキの選び方とか聞いてる場合じゃないな。あのシスターのことだから、眼鏡と料理に関する話題には火器が出るかもしれないしね。この前もサニーフィールド神父の食生活に胃を痛めてたし……」

「はい、ですので貴方に尋ねているのです。報酬は払います。漁場を教えていただくだけでいいんです!」

「いやいや、流石に漁師の方とかの許可がないと勝手に獲るのは良くないんじゃない? 手癖が悪いオイラが言うのもアレかもしれないけどさぁ、海産資源を育ててる漁師の苦労も想像できるわけだし……」


 情報を出し渋るキツネに、ジュージは毅然とした表情で薄笑いを浮かべる。


「『密漁』をします」

「だからダメだよ」


    *    *    *


 数時間後、アレキサンドライト・コーストにて。

 東地区で流通する海産物のほとんどが水揚げされているその海岸の名の由来は、金緑石めいたグリーンに染まる海だ。それだけでは他の場所と変わらないが、この海岸の特異さは“早朝”にあった。水平線から昇る朝陽が一時的に波を赤く染め、雄大な自然が別の表情を見せるのだ。さながら照明によって色を変える“皇帝の宝石”めいた景色を前に、キツネは静かに溜め息を吐く。


「……マジでやるの?」

「これもお嬢様のためです。最高級のものを仕入れなければ……」

「買えばよくない!? そこまで望んでないと思うよ!?」


 潜水用のスーツに身を包んだジュージは、酸素補給管の様子を確かめている。いざという時に止めるためにキツネも同行したのだが、その決意は妙に固いようだ。小柄な情報屋は頭を抱える。

 ジュージが払った報酬額は高く、それを受け取った以上責任は負わなければならない。それが情報屋の矜持だった。


「……ちなみに聞くけど、スキューバ・ダイビングの経験は?」

「娯楽としてではなく、戦闘訓練なら。水責めの拷問にも耐えうるように、数分間の無呼吸潜水は可能です。あの時は鎖で体を縛られ、深いプールの水底に……」

「OK、もういい。アンタがそういうタイプの人間だってのは十分理解した。命の危険方面の説得は無理ってことね!」

「何か止める理由が?」

「倫理だよ倫理!!」

「既にこの手は汚れきっています。イサキお嬢様が望むなら、私は……!」

「今回に関しては勇み足なんだよ!!」


 ここに来るまでに何度もこんな説得をしたが、無駄だったのかもしれない。キツネは何度目かの溜め息を吐き、何気なく周囲の様子を伺う。

 人通りの少ない場所を選んだためか、海岸線には彼ら以外の人影はない。遠くにいくつかのコンテナ群となんらかの取り引きをしている集団が見え、キツネは反射的に身を屈める。


「あのさ、一応マチェット預かっとくよ。流石に海水に濡れたらマズイでしょ?」

「……売っても高くならないですよ?」

「盗まないよ!! どこまで手癖悪いと思われてんの!?」


 ホルスターごと投げ渡されるマチェットを受け取り、キツネはその刃をしげしげと眺める。

 刻印された蜈蚣の意匠は、ジュージ・ヨルムンガンドという男の過去を意味する。その名が本名であるかは定かでなく、『大蜈蚣』以前の素性も謎に包まれている。キツネの情報網を持ってしても、彼の過去を紐解くことはできなかったのだ。


(今のところは例の御令嬢がいれば裏切ることはないだろうけど、逆に言えばそれだけ信頼関係が希薄ってことだ。いつか、全部を暴くときが来るかも……)


 キツネは蜈蚣のデザインを脳に焼き付け、情報を整理する。暗殺集団〈大蜈蚣〉の名代であるファーザー・ハガチは、いくつかのフロント企業の経営も行なっていた。確か、低予算映画の配給会社と……水産物の加工会社。


「…………ッ!?」


 キツネは恐る恐るコンテナを注視する。厭な予感は当たるものだ。ペイントされた壁面には、戯画化された蜈蚣があしらわれている。間違いなく、大蜈蚣の関係者だと確信する。


(……ジュージって、たしか身内殺して組織抜けてるんだよね? だとするとマズくない!?)


 ジュージは既に潜水を始めている。キツネは数秒の逡巡の後、声を張り上げる。


「バレる前に、逃げた方がいいよ!!」


 その声が届いたか、キツネにはわからない。ジュージはアレキサンドライトめいた緑色の海の中にいるからだ。しかしながら、悪目立ちしたのも確かだ。不審に思ったのか、数人の男がキツネのいる場所へにじり寄る。


「……何しに来た、ガキ?」

「いや、ちょっと海を見に……。ご迷惑でしたらすぐ帰りますので……」


 屈強な男たちの剣呑な視線に背を向け、キツネは黙ってその場を抜けようとした。とにかくこの場を立ち去らねば。ジュージはきっと一人でどうにかできるだろう。彼はそう考え、反射的に持っていたマチェットを後ろ手に隠す。その動作が、怪しまれた。


「…….お前、“蛇”か?」

「えっ……?」


 弁明の隙は無かった。男たちが各々携帯している武器を抜くのを視認し、キツネは脱兎の如くその場から逃走しようとする。


「……待てやァ!!」

「やっと見つけたぞォ!!」


(……まったく、なんでこうなるかね!?)


 周囲を取り囲む武装集団の数は増え、既にキツネを悠々と取り囲むほどだ。彼が慣れているのは市街地の路地や高低差を活かした逃走であり、遮蔽物の少ない野外では実力を発揮しきれない!

 遠くで銃声が響き、キツネはジュージの安否を心配する。凄腕の暗殺者とはいえ、丸腰だ。ただの密猟者だと思われて見逃されればまだいいが、その正体がバレるのは避けなければいけない。マチェットを持っているのは“蛇”とは別人だ、とは今更言えない雰囲気だ。

 キツネが次の一手を決めあぐねたその隙に、背後から無慈悲な一撃が振り下ろされる!

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