其の二

『魚住由香の本は同世代にしてはとても分厚い。天真爛漫な彼女にも苦労はあるのだ。』


 電車に限らずだが、人が多い場所と言うのは、さながら本屋や図書室めいた光景になる。人の数だけ、人生の数だけ本が存在し、各々の人生が頭の上に飛んでいる。

 さすがに人の本を無差別に読み歩くことは中学生頃にやめていたのだが、やはり他人の人生という作品はとても魅力的ではあるし、人の心を読み解くという行為自体に安心感もある。そんな風に相手の知りたくもない情報を手札に入れておきたいと、考えてしまってる自分が心底、嫌になるのだが。

 つい先日、自分の両親の本を読んで痛い目を見たことについては、まだまだ傷が癒えていない。制服から私服に着替えたように、心も着替えられたらな……いや、そんなことしたらそもそも人間として定義できるのかも怪しいか。

 そんな傷心真っ最中の今、目の前では男の子が電車内でひどく興奮し、元気いっぱいに叫んでいる。私はイヤホンで一昔前の音楽を聞いているため、そもそも叫び声が緩和されているうえに、男の子の甲高い声にイラつくほどの元気はないの。だが、世間と言うのはそうもいかず、とにかく周りの人間の視線が酷い。隣では母親らしき女性がおろおろしながら、宥めようとしているみたいだが、かなり苦戦をしているようだ。


「…………チッ」


 そんな舌打ちがイヤホンを貫通して聞こえてくる。おそらく、これ見よがしに、母親の耳に届くように舌打ちをしたのだろう。……このままだと、電車の空気が最悪なことになりかねない。私は小さく小さく息を吐き、自身のハンドバッグから手帳を取り出す。表向きはただのスケジュール帳、中身も書いていないわけでもない。だが、これはあくまでもカモフラージュである。スケジュール帳を数秒間ほど確認したあと、電車の揺れに合わせてよろめくフリをして、親子の本をキャッチし、手帳の上で二冊を広げる。こうすることによって、他人から空中を読んでいる不審者と見られづらい。私のこの能力生活において、身についた技法の一つだ。我ながら、マジシャン……いや、スリの常習犯みたいな気分になる。

 さて、悪いけど、二人の人生を覗かせてもらうか。

 私は手帳の上にある本に目を落とす。母親らしき女性の本は、絵本のようにしっかりとした本。男の子の本は、縦書きで古風な本。私はまず男の子の本をめくり目を通す。色んな言葉が筆文字で飛び交っているが、要するに。


『じっとしたくない。騒ぎたい』


 だそうだ。この年頃だ、暴れたくても仕方ないだろう。続いて、母親の本を開いてみる。ポップなフォントで書かれていた母親の本音は……。


『なんとかして、この子を静かにさせなきゃ、私が怒られちゃう……!』


 うわぁお……あまり、見たくない本音が見えた。が、対処方法は変わらないようで助かった。私は本が元に戻ってしまわないようにしっかりと手で押さえつけながら、男の子と話しやすいよういに、少しだけ腰を落とす。


「ねぇ、キミ」


 私が声を掛けると男の子はビクッと身体を震わせる、手元の本には『背景だと思い込んでいた他人からのまさかの接触』に対する恐怖を知らせる文字が駆け巡る。いや、ごめんて。


「お姉さんたち、みんな疲れてるんだー。キミが元気すぎて、とっても羨ましいと思っちゃうのよ。だからさ、もう少しだけ……ちょこっとだけ、声をちっちゃくしてくれないかな? 本当にごめん」


 私が男の子に目線を合わせながらそう言うと、男の子はしばらく唖然としていたが、すぐにこくんと首を縦に振った。


「本当に、ごめん」


 そう言って私は再び、微笑む。手元の本には、反省の文字と頑張って静かにする。と言った文言が駆け巡る。

 よかった。文字を追う限り、再起不能なほどには怖がらせなかったようだ。周りを軽く見渡すと、舌打ちをしていた人だろうか、何だかバツが悪そうな顔をしている人もいた。

 これで一件落着落着。軽く息を吐いて、母親の本を覗く。


『余計なことしやがって、私の体裁はどうなるのよこのクソガキ』


 …………これは、見なかったことにしよう。

 私は大人ではないが、騒ぎ立てるほどの子供にもなり切れない。本の内容を覗いた範囲でも、この母親の苦労は数知れない。子供の世話や夫の世話など、それはもうたくさんたくさん、悩み事がつらつらと書き連なっている。絵本のような見た目をしているが、中身はかなりアダルティな内容である。

 私はなんもできないけど、頑張ってくださいな。

 親子の本を真下に落とし、私は素知らぬふりをした。


 電車の外では見知った風景が流れていく。何回も、何回も聴いたアルバムを再生しているせいもあってか、何だかこの光景に既視感まで感じてしまう。流れる景色の中では、小学校のグランドや、小さな保育園などが見える。

 かつて、母親とよろしくやっている伯父からこんな小言をいただいたことがある。


『お前、なーんか達観しすぎて、子供らしくねぇな』


 達観し過ぎて、子供らしくない。

 私は、人生を達観していると言われてしまっても仕方がないと思う。小学生、中学生と、数々の人生を読んでしまったせいで、色々と心が擦れてしまったのかもしれない。おかげ様で感情を抑制できるようになってからは、余計なトラブルに巻き込まれることが極端に少なくなったのだが。

 それは大変喜ばしいことではあるものの、やはり同世代との差を感じてしまうことも非常に多く、みんなが熱く、熱く、青春全開な喧嘩を繰り広げられていたとしても、


『感情と感情で喧嘩するから平行線になるんだよ』


 と心の中で唾を吐いてしまうくらいだ。

 冷静……と言えばすごくすごく格好が良くてかつ、良い響きではあるものの、実情は、怒る元気がないだけ。とも言う。

 そんな後ろ向きな思考を繰り返した後、私は車内の電光掲示板で、目的の駅に到着したことに気が付く。

 男の子に小さく「ごめんね? ありがと」と言いながら手を振り、電車から降りると、改札口を通り、外へと出る。外にはくたびれたサラリーマンや、暇そうにスマートフォンをいじっている女子高生など様々な人間が広場でたむろしている。そんな中、私はある場所へと歩き始める。

 途中途中で男の人が私に向かって声を掛けてくるが、全部無視する。過去に声を掛けてきた男の人の本をかすめ取って、中身を確認したこともあるが、女子高生というブランドをフル活用した何ともいかがわしいバイトのことしか書いてなかった。社会と言うのは末恐ろしい。

 そんな闇社会の魔の手を避けつつ、繁華街をずんずんと進んでいき、私はとある飲食店に行きつく。引き戸が設置されており、表の札には『準備中』と書かれている。そんな札を無視して、引き戸を引き中へと入る、そこには……。


「お、よう」

「お疲れ様」


 短い髪の毛の上にちょこんと帽子を乗せ、エプロンを身に着けて料理をしている、私の友達、それにいつぞやの乙女のピンチを救ってくれた魚住由香の姿があった。

 ここは食堂『魚住』、その名の通り、魚住家が経営している飲食店だ。店の内部はそこまで広いわけではなく、十人も入ってしまえば、すぐに満杯になってしまうくらいだ。


「今日は、多分だけど、広のおじさんと薫のねーちゃんが来ると思うから、ちょっち忙しい」

「ん、わかった」


 由香にそう言われながら、店内奥の従業員専用のドアを開く。その中にはロッカーが複数あり、その一つの扉を開く。その中に入っている洗濯されたエプロンを着て、頭にはバンダナをつける。そこまで髪の毛が長いわけではないのだが、今更気にすることでもない。

 準備を整えた私は、調理場に入る。そこには、由香の義理の母が忙しく動き回っていた。


「受験シーズンなのに悪いねぇ……相変わらず主人が帰ってこないもんで」

「大丈夫ですよ。これでも、成績は優秀ですし」

「……本当にありがとうねぇ」


 そう言って、柔らかく微笑んでくれた。由香の義母も大変な思いをしている……真っ最中だ。困っている人間を無下にしづらい。

 随分前に、限界まで追い詰められていた由香に、義母の本を読んでくれと頼まれ、渋々ながらも中身を読んだ時はもう社会の闇というか、人間の闇というかもはや深淵を覗き込んでしまって、三日間くらい食事を受けつかなくなったのは今では懐かしい思い出だ。

 今は、そんな大変な思いをしている由香の義母のために、不定期でバイトのシフトを入れている。これについては、親にも事情を説明し、受験に響かない範囲であれば問題ないと、了承を得ている。


「由香。仕込みは?」

「今日はばっちり終わってる。今日来そうな人数はいつも通りホワイトボードに書いてあるから、その分だけいんげんの胡麻和えを小鉢にお願い」

「ん、わかった」


 由香の指示を受けて、私はマスクと透明の使い捨て手袋を装着する。今日もバイト頑張るぞ。




 バイトは滞りなく終わり、私はエプロンを畳み、ロッカーの中に入れる。大きく背伸びをすると、身体がバキバキと音を立てる。ずっと元気よく動いていたはずの由香は全然元気で、これが運動部パワーか……と変なことを考える。

 すると、由香がこちらの視線に気が付いたのか、ひらひらと手を振る。


「どーかしたか? もしかして惚れた?」

「うんうんめっちゃ惚れた、惚れまくりよ」

「……『本』がなくても嘘つきだとわかるぞこのやろ」


 そう言って、私の鎖骨にこつんと拳を入れてくる。いや、普通に痛いが。


「全く……そんなんだから恋人の一人や二人や三人できないんだぞ?」

「そんなに居てたまるか」


 今度は私が由香に向かって拳を軽く突き出すが、かわされてしまう。このやろ。


「まァ冗談だけど」


 そう言って、由香はキッチンの方から、皿を持ち出してくる。……これは。


「お義母さんから許可もらったからたんと食え。賄いもんの、だし巻き卵」

「……ありがと」


 私はそうお礼を言って、一口頬張る。……うん、とても美味しい。


「それにしてもよかったよ。ちょっとは気が晴れているみたいで」

「…………そう?」

「何が起こったかは知らないけど、確かにお前は元気になったよ。ほんの少しだけだけど」

「そうかな」


 だし巻き卵を口に含めながら、私は考え込む。

 ここ最近で起きた変化と言えば……。


「小夜くらいかな」

「……あぁ、あの不思議な小学生?」

「そうそう」


 ここ最近、毎日のように私は小夜と会話を交わしている。その日あった出来事であったり、私が過去に経験した小学生の話だったり話の内容は様々だ。

 話を聞く限り、私と小夜では、八つほど年が離れているはずなのに、何故かジェネレーションギャップというものを感じないほど楽しい会話を繰り広げている。……と言うか小夜が延々とボケてくれる。

 最初でこそ、ただの天然かと思っていたのだが、あの子は相当頭が良い……と思う。まだ断定はできないし、何となくだけれど。


「そーいえば、あんまし詳しいこと聞いてなかったがよ。どうやって待ち合わせてしてんだ? 相手小学生だろ? まさか、スマートフォン持ってるのか?」

「ううん? 小夜はスマートフォンもガラケーもポケベルもない」

「ポケベルってなんだよ……ともかく、なんとなくの感覚で会ってるってことか?」

「ん? まあ、そうなる、かな」


 その時、なんか嫌な予感を覚えた。小夜と話してから数日は経つが……。私がバイトをしているって話をしたっけ……?


「もしかして、今日も待っていたりしてな」


 由香がにやにやと笑いながら、そんなことを言い始める。その言葉に私は弾けるように顔を上げる。思考がスパークし、目の前に火花が迸る。私はだし巻き卵が乗っていた皿と使っていた箸をカウンターの上に置き、自分の荷物を持つ。


「…………おいおいおいおいマジかよ」

「ごめんっ!! 私帰る!!」

「おー、気をつけろよなー。小夜ちゃん? とやらもそうだけど、お前も華の女子高生なんだかんなー」

「気を付ける!!」


 由香のそんな忠告を耳に入れ、私は繁華街を走り出す。すぐに息が上がってしまい、喉の奥からさ何となく鉄の味がしてきたが、そんなこと些末な問題にすぎない。

 キャッチの横をすり抜け、時折信号を無視し、駅へとひた走る。タクシーを捕まえようかとも一瞬考えたが、私の財力では全く足りない……!! 急いで駅の改札口から駅へと入場し、電車を待つ。幸い、電車はすぐにホームに訪れたので、スカスカの電車に急いで乗り、私は閉まったドアに背中を預ける。

 息があがり、ひゅぅひゅぅと喉からそんな声が漏れる。しかし、私の心は一向に落ち着く気配がなかった。




 運動部に入っておくべきだった。

 こんなことを思ったのは、人生で初めてのことだった。途中からは走ることもままならず、何回も躓き転びそうになりながら、身体を引きずり、例の公園へと歩を進める。秋もいいところなのに、私は全身が汗だくになっていた。それでも、足を止めるわけにはいかない。

 やっとの思いで到着した公園は相変わらず薄暗く、今日は月も隠れてしまっているため、街灯の光だけが、公園を照らす光源となっていた。私はチカチカする視界で辺りを見渡す。

 願わくば、ここに居てほしくない、女の子を。

 すると、ベンチの上で何やら黒い塊が乗っかっている。かつて私が体育座りで泣いていた、そして、小夜と話すきっかけとなった、あのベンチ……。もしかしたら、不審者かもしれない。もしかしたら、別のお子さんかもしれない。それでも、私はふらふらと足取りでベンチへと向かう。


「あ、お姉さん」


 その言葉に私は膝から崩れ落ちそうになった。罪悪感と絶望感と虚無感がごちゃ混ぜになって、私の心をかき乱す。


「ご……めん」


 私は息も絶え絶えにそう言う。いや、それだけじゃ足りなかった。


「ごめんね、本当にごめんね……っ」


 私はベンチの上で立っていた小夜を抱き寄せる。ずっとじっと待っていたのだろうか。身体はとてつもなく冷たかった。

 後悔、後悔、後悔。私は咄嗟に自分が来ていた上着を小夜に被せ、さらに抱き締める。小夜は目を回している。


「お姉さん? とても熱いけれど、大丈夫? 高熱とかだったりしない?」

「私は大丈夫、だからっ」


 小夜はきょとんとした表情を浮かべ、同時に首を傾げていた。その様子からだと、なんでこんなに私が小夜に向かって謝っているのか、わかっていないみたいだった。


「寒かったでしょ」

「寒かった」

「怖かった……よね?」

「ううん。お姉さん来るのわかってたし、怖くはなかった」

「ずっと、待ってて寂しくなかった……?」

「お姉さんが来るのわかっていたし、寂しくもなかった」


 小夜はブイサインを作りながら、無表情で言う。私はそんな小夜を見ていられなくて、また強く抱き締める。


「本当に、本当にごめん……」

「何故お姉さんが謝る? 私のところにキチンと来てくれたのに。怒る理由もない」


 その言葉に私は顔を上げる。本当に小夜は何も気にしていないのか……真意がわからない。


「本当に怒ってないよ? 私の本を読んでくれても構わない。私の心を読んで」


 そう言って、小夜は自身の頭の上を何回か触る。そこには……確かに小夜の本、大学ノートが浮いている。わかっていたことだったが、小夜は私が本を読んで心を読むことを把握しているらしい。把握してもなお、私と接し、あまつさえ中身を読んで欲しいとも言う。

 ……正直。心を読んで欲しいと言ってくる奇特な人間は、魚住由香以来の出来事である。

 私は小夜に促されるがまま、小夜の本を……ノートを手に取り、ページを広げる。初めて会った時に比べてだいぶ多くなったそのページの最後の方をめくる。そこには色んなことを考えていた小夜の言葉がたくさん羅列されており、今もなお黒がページの上を走っている。

 ページをを掴み、過去へと遡る。そこには。


『お姉さんとのお喋り』

『お姉さんとの会話』

『ちょっと寒い』

『お姉さんとのデート?』

『お姉さんとの談笑』

『寒い』

『お姉さん。お姉さん。お姉さん』


 と書かれている。途中からとても身体が冷えてしまったのか、『寒い』という単語が多くなってきていて、また大変申し訳ない気持ちになった。

 だが、小夜の言う通り、どうやら怒ってはいないらしい。……正直、こんな失態大声で喚かれても無理はないと思っているのだけれど。


「また、私。迷惑をかけてしまった?」


 小夜はそう言って、私の瞳を覗く。小夜の瞳は雲一つなく、何だか安心する濃いブラウンだった。私は大きく首を振って、小夜をまた抱き締める。


「ううん。全然迷惑じゃないよ。私こそごめん。今日、用事があるってこと、言ってなかった」

「なんと」


 小夜は心底驚いたような顔をしている。……本当に申し訳ない。


「お姉さんは用事もあるのか。流石大人」

「大人じゃ、ないよ……まだ、大人になりきれない」

「そうだろうか? お姉さんは私のパパとママに比べれば、遥かに大人だと思うが」


 え?

 小夜の言葉に思わず、開きっぱなしだった大学ノートに目を落としてしまう。私はそこに羅列された文字を読み、驚愕する。


「私が迷惑をかけているのは重々承知だが、それにしたって、パパもママも毎日叫ぶのは、どうかと私も思ってる」


 私はガチガチと歯を鳴らす。寒さからではない。まだ私の身体は先程まで走っていたことによりまだまだ火照っている。小夜のノートには高速で黒が走り続ける。


『昨日は、夜ご飯食べるのに、三十分を越えたから、三十一分から一分毎に殴られた』

『テストで百点満点だったけど、字が汚かったから、殴られた』

『お姉さんの真似をして、ほんの少しだけ制服を着崩した。先生には「ほどほどにしないさい」程度に怒られたくらいだったが、家に帰ったら金切り声を出して怒られた』

『学友が漫画というものを持ち込んでいたので、図書室から漫画……とは少し違うが、絵がふんだんに描かれた本を借りてきて、家で読んだ。お姉さんが読んでいる本がどんなものなのか。少し気になっている。そのあと、家に帰ってきたママにその本を取り上げられて、『小学校四年生にもなって、こんな絵だらけの本を読んで!!』と怒られた』


 まだ、まだ、まだまだまだまだ、まだまだまだまだまだまだまだまだ増えていくのだ。一体いくつまであるんだ? どこまで増えていくんだ。そんな恐怖に私はガチガチと歯を鳴らす。

 何、これ。


『そう言えば、パパに足を蹴られたな。ちょいとばかし痛かったが、まぁなんとかなる』

『ママに顔を押された。確か夜ご飯に三角食べをせずに、味噌汁ばかり飲んでいたからだった』

『お前みたいな知恵遅れは世間様にとって迷惑な存在なんだから、もう問題を起こさないでくれと言われた。なるほど、私は』


『迷惑な存在なのか』


「そんなことない!!」


 私は思わず叫んだ。腕の中の小夜がビクンと身体を震わせる。しかし、そんなことを気にしていられるほど、私には余裕がなかった。


「迷惑なわけない……っ!! 迷惑なわけあるか……っ!!」


 自分のことではないはずなのに、自分が暴力に曝されたわけではない。でも、こんな。こんなのって。


「お、お姉さん? 急に叫ばないで……」


 胸の中の小夜は怯えている。きっと、私が大声を出してしまったから。

 恐怖を呼び起こしてしまった、から。


「ごめん……ごめんねっ……」


 目頭が熱くなり、視界が歪む。汗が目に入ったのか? ……いや、違う。

 何故、何故、私は泣いているのだ。何故私が泣く必要がある。泣きたいのは。本当に、泣きたいのは。


「小夜は迷惑な存在なんかじゃない。小夜は、小夜は……!!」


 会ってからまだ数日しか経っていないのに、こんな感情を抱くのはおかしいと思う。きっと、小さい子が虐げられている。そのことについて、偽善的になっているんだと思う。ただ、私はこの子にとっての『良い人』でありたいだけなんだと思う。

 そんなこと、自分の心を解析するまでもなくわかっている。わかっているけど。


 こんな、迷子になってる女の子を放っておくほど、私は大人じゃない。


 少し不思議で、少しだけ変わってて、そんな中でも年相応に無邪気で、年不相応に頭が良くて……。

 私はとめどなく溢れてる涙を袖で拭きとる。クリアになる視界、抱き締めている小夜の首元から、背中が見える。あざだらけの、背中が見える。

 瞬間、決意を固める。

 もう、躊躇えない。止まることなんて、できない。


「小夜は私にとって、大切な人だから」


 その言葉に小夜は小さく、小さく、震える。まだ、まだだ。


「私は、小夜が、必要だから」


 小夜の震えが大きくなる。怖がっている……わけではなさそうだ。

 私は、ひと呼吸おいて、小夜を包み込む。まだまだ小さい小夜の身体は私の身体に覆われるようにすっぽりと包み込まれる。


「だから、自分のことを迷惑だなんて言わないで、お願い……っ」


 そこから先は言葉にできなかった、涙が再び溢れてしまって。言葉を紡げなかった。

 涙で視界が歪んでいたが、辛うじて、小夜のノートを見ることができた。最悪、ドン引きされているかもしれない。怖い人だと思われているかもしれない。それでもかまわなかった。

 すると、黒が今まで見たこともないような速度でノートの上に走る。初めて小夜と出会った時のように、ノートが真っ黒に染まる。それと同時に。


「う……ううぅぅっ……ぁぁぁぁぁああぁぁぁっ!!」


 私の身体の内側から、そんな声が聞こえる。これは。


「おね゛ぇぇぇぢゃぁぁぁん……あ゛ぁぁぁぁぁあ゛あ゛ぁぁぁっ!!」


 ……小夜が、小夜が、泣いてる。


「あ゛ぁぁぁっ……ひっぐ……う゛ぅぅうぅぁぁぁっ!!」


 ノートの上には、黒が走り続け、ノートを真っ黒に真っ黒に染め続ける。ほとんど内容を識別できないほど黒く染まってしまっていたが、辛うじて、たった一文だけ、読み解くことができた。


『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■たすけて、えりいおねえちゃん■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』




「すっきりしました」

「……そっか」


 帰り道、手をつなぎながら、再び小夜の家まで小夜を連れていっていた。小夜は瞼を真っ赤に腫らしていたが、どこかすっきりとした表情だった。……いやま、こればっかりは私も人のことを言えないんだけれど。


「それで、その、平気なの? 家に帰っても」


 私がそう言うと、小夜はブイサインを作り。


「大丈夫。さっきのは感情の蓋がばこーんしただけだから」

「ばこーんしただけか」

「うん。たまにはばこーんしないと、ダメだって、さっきわかった」


 そう言った小夜は手をつないでいる私の手を自分の頬に当てる。


「危ないよ」

「大丈夫だよ、お姉さん」


 小夜はそのまま、頬に当て続ける。小さな小夜の頬は冷たく、私の体温が徐々に低くなるのを感じた。


「……うん。頑張るよ、お姉さん」


 再び、小夜はブイサインを作る私にそっと微笑む。

 その微笑みは、とても可愛らしいものだった。



つづく。

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