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ジント

プロローグ

プロローグ

 初冬を迎えた深夜の東京都。 日をまたぐ直前の都営大江戸線の都庁前駅で、長年被り慣れた帽子の位置を直しながら、村上晴光むらかみはるみつは東京メトロの駅員になって本当に良かったと思っていた。

 その理由が、何をおいてもこの独特な地下鉄特有の臭いだ。 晴光にとっては香りと表現してもいいだろう。 電車が走行する際の生ぬるい風に運ばれてくる香りなど、心身を癒す最上のアロマと言っていい。 自宅で牛革のソファーに寄り掛かりながら吸う煙草などとは比べものにもならない。 そんな物を遙かに凌駕する恍惚感を与えてくれる。

 正直に言えば、晴光はその香りを嗅ぐ為だけに駅員になったと言っても過言ではない。

 とんだフェティズムだと自身でも思っている。 故に、東京メトロの駅員になってから五年、誰にもこの性癖を話したことはない。 

 もしかしたら同志とも呼べる人間が同じ職場に居るかもしれないが、十中八九変人扱いされる未来が見えている。 秘密を明かしたその日の内に、酒の席では恰好の肴にされ、残りのメトロライフは居心地の悪いものとなるだろう。

 晴光にとって、これは天職なのだ。 電車の運転手でもなく、改札隣の相談窓口でもない。

 ホームでの安全確認手が一番いいのだ。 これ以上は何も望まない。 出来る事なら帰りたくないし、ここに永住権が取れるのならば今すぐにでも書類片手に役所へと駆け込むだろう。

 しかし、常識的にそんな事は許されない。


「間もなく、一番線ホームに、光が丘行き、最終電車が参ります」


 本日最後の電車がやってくる。

 お決まりのアナウンス、お決まりの安全確認。

 毎日繰り返し、晴光自身これまでにも何千何万回と繰り返しているテンプレート業務。

 少し離れた所では、女子高生が横並びの椅子に座りながら、携帯電話を片手に声を弾ませて楽しそうに話をしている。 手元で揺れるピンク色のストラップを摘まむように弄りながら、明日の予定を向こう側の人間と打ち合わせしているようだ。

 他にも、柱に寄り掛かりながらゲーム機にイヤホンを繋げて、まるで親の敵に挑むかのような形相で指を果敢に動かしているサラリーマン等々。

 それでも、終電の都庁前駅は殆ど無人に近く、他には視界に入るだけでもあと二、三人位しか見えない。


「……ふぅ」


 晴光は人間観察を早々に切り上げ、本来の業務に戻る。 今日はこの電車が最後だ。 そして、それが過ぎ去った時、多くの人々が待ちに待った週末が始まるのだ。

 今日も大江戸線の香りは素晴らしかった。 この香りを次に嗅ぐのは来週。 そう思うと少しさみしい気分が晴光の胸の中を電車の如く走り抜ける。

 しかし、何事も程々がいいのだ。 それが長続きの秘訣でもあるだろう。

 この電車を見送れば、晴光はホームのチェックをして同僚と共に朝から約束していた居酒屋に行くことになっている。

 明日休日である晴光の頭の中では、既に御通しまでテーブルに並んでいる居酒屋の青写真が描かれていた。





 今日最後の電車がレールに導かれながら走り去っていった。

 下車した乗客も、乗り込んでいった乗客も、すでにホームには一人もいない。

 今日はこれ以上、電車が都庁前駅を走り抜けることはない。 無事役割を終えた自分とこの駅に、晴光は一抹の寂しさを残し、その足は踵を返す。


「……?」 


 後ろを振り返った時、ほんの少し、静けさの中に混じる僅かな違和感を感じた。 晴光はそれに引っ張られるように顔をその違和感を捉えた方へ向ける。 

 そこで感じ取ったのは、毎日のように来たり去ったりを監視する視覚からではなく、至高の香りを感じる為の嗅覚でもなく、普段は仕事上それほど重宝しない聴覚からだった。


 ――耳を澄ませば、日々メトロの喧騒を聞き取る晴光の耳に、草原を吹き抜けるような笛の音が届いた。


 音響設備など対して整っていない地下鉄のホームだというのに、その音色はやけに聞き取りやすく、雪解けのように体へと浸透していく。

 その微かに聞こえてくる音に導かれ、無意識のまま晴光が歩を進めると――。


「これは……」


 そこには、先ほどから変わらずスピーカーを通して自分の存在を主張し続けるスマートフォンが落ちていた。

 晴光が近づくと、まるで鈴虫が人の気配を察して声を潜めるように、駅のホームに響いていたスマートフォンの演奏は停止した。


「落とし物か……?」


 晴光は独奏を披露していたそれを拾い上げる。

 紐の先にピンク色のフクロウを象った、可愛らしいストラップのついたスマートフォンだった。

 そこでふと、頭の中にフラッシュバックする数分前の光景。


「間違いない」


 やはり、そうだ。

 何となく印象に残っている。 つい先ほど見かけた女子高生が持っていたスマートフォン。

 それにさり気なくぶら下がっていたストラップにそっくりだった。

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