25.どれだけ彼女を想ってみても。


 河本くんに殴られてから三日後。僕は謝罪を受けていた。


「この前は殴って悪かった。橘田が言ってたこと、本当だったみたいだ。というか、嘘だったとしても殴るのは良くなかったよな。本当に済まなかった」


「ああ、いや。僕の方こそ、余計なお世話だった。ごめん」


 僕はとてもみじめな気持ちになっていた。


 河本くんのためを思って教えたわけではない。数字が増減するのかを確かめるために利用していただけだ。


 だからそんなに謝らないでほしい。むしろ僕のことを憎んだままでいてほしかったくらいだ。


「で、一つ頼みがあるんだが、このことは、他の人には黙っててほしいんだ」


「ああ、うん。そのつもりだよ」


 佐久間さんのことを案じているのだろう。生徒に手を出した教師のことは不快に思うが、僕も大きな問題にするつもりはなかった。


「サンキューな。彼女も、あいつとはちゃんと別れたって泣きながら謝ってくれたし、これからは俺だけだって、ずっと一緒だって言ってくれた」


 河本くんが嬉しそうな顔をする。


「そう。よかったね」


 前半は正しくて、後半は間違ってる。佐久間さんは長嶋と別れたけれど、河本くんとも176日後に別れる。




 どうすれば、七里さんともっと一緒にいれるだろうか。


 僕はそればっかりを考えていた。


 そして、あらゆる作戦を試していった。


 手始めに、見た目を変えてみた。


 いつもの千円カットではなく、今までだったら近づくことすら躊躇していた美容院で髪を切った。話しかけるなオーラを全身から出していた僕の散髪は、さぞかしやりにくかったことだろう。


「あ、髪切ったんだね」


 翌日のデートで、七里さんが僕を見て言った。


「うん。どう……かな」


「似合ってるよ。私は前より今の方が好き」


 好き、という言葉に心臓が跳ねる。髪型のことだとわかっていても。


「ありがと」


「さて。実は私もどこかが変わってます。どこでしょうか?」


 出題されてしまった。彼女の変化に気づけなければ彼氏失格だ。


「ん~」


「そんなにジロジロ見られると恥ずかしいんだけど……」


「あ、ごめん……」


 顔が思ったより近くて、慌てて身を引く。


「で、わかった?」


「もうちょい考えさせて」


「ダメ。タイムアップで~す」


「全然わからない……」


 僕はうなだれる。


「正解は、歯磨き粉を変えた、でした~」


「見た目じゃなかった!」


 そんなんわかるか!


「橘田くん、まだまだですね」


「まだまだでいいよ」


 七里さんが楽しければ、それで。


 他にも、色々なことを試した。


 筋トレも始めた。まだ始めたばかりで成果は出ていない。腹筋が割れるまでは続けたいと思う。何かをコツコツ継続することは苦手ではない。


 背筋も伸ばすように意識して生活するようにした。夕食のとき、有華ゆうかに「あれ。まさにい、身長伸びた?」なんて言われた。残念ながら縦への成長はほとんど止まってしまっている。


 ネットで、恋愛関係のトピックも見るようになった。『女子がキュンとする男性の言動10選』とか『モテる男のデート術』とか、僕には一生無縁だと思っていた特集を読み漁った。


 読みながら、恥ずかしさがこみあげてきて死にたくなった。誰に見られているでもないのに、首から上が熱を帯びてくる。台詞や行動のほとんどが、ただしイケメンに限るやつばかりで、僕にも実用性がありそうなものを探すのが大変だった。


 七里さんのことをたくさん知った。七里さんの好きな漫画を読んで、七里さんの好きな音楽を聴いて、世界を共有した。七里さんが行きたいと言っていた場所へ行った。




 休日のデート。県内にあるテーマパーク。


 数字は23。


「最近思ってたんだけど、橘田くん、雰囲気変わった?」


 七里さんが目を細めて僕の方を凝視する。僕は数日前に買った少し高めの服を身に着けていた。


「そう?」


「うん。ってかこの前みっちゃん達もそう言ってたし。間違いない。垢抜けたというか、その……格好良くなったというか……」


「七里さん、ちょっと怒ってない?」


 言葉では褒めているのに、口調はむくれているようだった。


「だって、他の人が橘田くんの良さに気づいちゃうから」


 七里さんが右手をギュッと握って、それが僕の左手に伝わる。僕たちは、自然に手をつなぐようになっていた。


「そうかな」


 さりげない口調を意識しながら言ったけど、このときの僕は、全速力で走り出したいくらいに嬉しかった。


「そうだよ。浮気しちゃダメだからね」


「するわけないでしょ。こんなに素敵な彼女がいるのに」


 そんな台詞も、淀みなく口にすることができるようになっていた。心臓は爆発しそうだけど。


「……何それ」


 僕の素敵な彼女は、顔を背けて早歩きになる。それが照れているときの癖だということも、もうわかっていた。




 隣の県にある、国内最大級のショッピングモール。


 数字は16。


 七里さんは、時折、寂しそうな表情をすることがあった。


 ファミレスで、僕がドリンクバーを持ってきたとき、七里さんは外を眺めていた。


 少し前の僕だったら、ボーっとしているな、くらいにしか思わなかったかもしれない。けれど今の僕は、たくさんの時間を七里さんの近くで過ごした。そうすることで、ほんの少しだけ彼女を知ることができた。


 僕にはそのときの彼女が、無力感をかみしめているようにも見えたし、悲しみをこらえているようにも見えた。


 七里さんが気づくように、わざと彼女の目の前にオレンジジュースの入ったグラスを置く。


「あ、ありがと」


 さっきまでの寂しげな表情はもうなく、パッと、元来の明るさを取り戻した。


「どうしたの? 外で何かあった?」


 僕は自分のグラスを置きながら着席する。


「ちょっとね……。学校が爆発して明日の小テストが中止になる未来に思いを馳せてただけ」


 いつもどおり、にかっと笑ってそんなことを言われてしまえば、それ以上、深く追及することはできなかった。


「ずいぶん物騒な想像だね」


「え? しない? そういう想像」


「しないよ」


「教室で、テロリストがいきなり窓ガラスを割って入ってきて、クラスメイトがパニックになる中、自分の中の隠された力が覚醒して撃退する想像とか」


「男子中学生じゃないんだから」


 まあ、僕も男子中学生のときはしてたけど。


 それからも、七里さんは何度か、同じような表情をしていた。


 もしかすると、前の恋人に関することかもしれない。実はまだ未練があるのではないか。僕との別れは、元カレとのヨリを戻すためなのではないか。そんなことを考えて、僕は勝手に落ち込んだりもした。




 放課後の帰り道。


 数字は12。


「橘田くんは、どこか行きたいところないの?」


「どうして?」


「いつも私の行きたいところに連れてってもらってばっかりだから」


「気にしないで。楽しんでる七里さんを見るの、好きだから」


「そっか」


 また、あの少し困ったような、切ない表情だった。


 僕は必死に気づいていないふりをして、笑顔を作った。


 どれだけアイデアをひねり出してみても、どれだけ彼女を想ってみても。


 七里さんの頭上の数字は動いてくれなかった。




 十二月の日曜日。翌日から始まる期末テストに向けて、僕たちは図書室で勉強していた。


 数字は9。


「これ、絶対テストに出る」


「どれ?」


「これこれ! この、部分分数分解を用いて求めなさいってやつ」


「どこからくるの、その自信。ってか、部分分数分解って言いたいだけでしょ」


「違うし! 部分分数分解って言いたいだけじゃないもん!」


「言いたいだけじゃん。じゃあ、もし出なかったらどうする?」


「ん~。ケーキおごらせてあげる」


「待って。僕がおごるの?」


「じゃあ焼き肉でもいいよ」


「どっちにしろおごるのは僕なの?」


 一つだけ、不安なことがある。


 僕はずっと、七里さんのことが好きで、これからも好きであり続けると、自信を持って言える。


 けれど、絶対なんてない。人間の気持ちというものは、とても不確かだと思う。


 小学生のとき、あれだけ熱中していたカードゲームは、流行が終わってしばらくすると、家のどこにあるかもわからなくなっていた。


 中学生のとき、毎日のように聴いていたお気に入りの曲も、久しく聴いていない。今聴けば懐かしさを感じるだろう。


 それなら、僕が七里さんのことを、ずっと好きでいる保証なんてどこにもないのではないか。


 七里さんの頭の上にある数字は、彼女が僕に別れを告げるまでの日数だと思っていた。


 僕が自ら七里さんに別れを告げることなんて、あり得ないと、そう思っていた。


 その可能性から、僕は目を背け続けてきたのだ。


 今の僕は、七里さんのことが好きだ。


 全人類の前で、永遠の愛だって誓うことができるくらいに。


 けれど、変わらないものなんてこの世界にはなくて。


 流行も、季節も、時代も。


 人の気持ちも――移り変わっていく。


 だからこそ、ほんの少し先の未来が、とても恐ろしかった。

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