7.まだ彼女に恋をしているらしかった。


 脩平が吉見さんと別れてから、およそ二週間が経ったある日。


 大事件が起きた。


 その大事件のせいで、僕の心は暗く沈んで、これ以上ないくらいに淀んでいた。もう二度と立ち直れないんじゃないかってくらいに、メンタルがバキバキに折れていた。世界なんて、滅びてしまえばいいと思っていた。


 ちょっと言い過ぎかもしれないけど、僕はそれくらい酷くショックを受けていたのだ。


「どうした柾人まさと


 二時間目と三時間目の休み時間。脩平が上半身だけひねって僕を見ている。


「ん? 何が?」


「なんかすげー禍々しいオーラが出てる。どこかの国の社会から完全に隔絶された部族が住む秘境とかで呪いでも習得したのか?」


「してないよ」


 その異様に細かい設定はどこから持ってきたんだ。そうツッコむ気力もない。


「そっか。でも雰囲気が暗いのはマジだぞ。なんかあったか?」


 吉見さんとの破局からはすっかり立ち直っているようで、この前と立場が逆転していた。


「暗いのはいつもだよ」


「ああ、たしかに」


「そこはもうちょっと否定する方向でお願いしたかった」


 しかも即答って……。まあ、そうなんだけどさ。


「え、めんどい」


 薄情なやつめ。


 脩平の言う通り、僕はかなり、いや、とても落ち込んでいた。


 なぜかというと、僕の片想いの相手、七里さんの頭上に数字が現れたからだ。


 七里さんの頭の上に数字がないことを確認し、胸をなで下ろす。それが、僕の日課だった。我ながらかなり気持ち悪いと思う。


 今日も、朝のショートホームルームのときに、担任からの連絡事項を聞き流しながら、僕は自然な動作で七里さんの方を見る。頭上に数字がないことを確認しようとして――椅子から転げ落ちそうになった。


 姿勢よく座って教壇に視線を向けている七里さんの頭の上に、数字が浮かんでいたからだ。


 頭の上に数字が見えているということは、彼女に恋人がいることを意味している。


 いったい、いつ……。先週の金曜日の昼までは、数字はなかったはずだ。つまり、金曜日の昼から今日の朝までのどこかで、七里さんに恋人ができたということになる。


 いや、恋人ができたタイミングなどはどうでもいい。


 七里さんに恋人ができたことが問題なのだ。


 今まではまったく理解できなかった、芸能人の熱愛報道に本気でショックを受ける人たちのことが、その瞬間に完璧に理解できてしまった。


 どうせ手の届かない場所にいる人間に、何を期待しているのだろう。身の程を知れ。そんなことすら思っていたのだけれど、そういう問題ではなかったのだ。


 どうせ自分の手が届かないのなら、他の誰の手も届かない場所に――硬く透明なガラスの内側に、ずっと一人でいてほしかった。


 それは、とても身勝手で醜い感情だと、自分でもわかっている。


 わかっているけれど、そう思わずにはいられないのだ。


 朝から衝撃的な体験をしてしまった僕は、魂が抜けたみたいに、ぼんやりと授業を受けた。何も頭に入ってこなかった。あとで復習しておかなくては。あとでっていつだ? いつになったら勉強に集中できるだろうか……。一生無理かもしれない。


 そんなことをグダグダと考えていて、気づくと二時間目の授業も終わっていた。そして今、脩平に心配されているというわけだ。


「おい、柾人。移動教室だぞ」


 脩平に言われて、次の授業が選択科目だったことに思い至る。美術室へ移動しなくてはならない。あれ、化学の実験だったっけか?


「ああ、うん」


 脩平がスケッチブックを持っているので、美術で合っていたようだ。


「マジで大丈夫か? 話くらいならいつでも聞くからな」


 僕たちは授業に必要な道具などを準備しながら会話を交わす。


「ありがと。大丈夫じゃないけど大丈夫」


「どっちだよ」


「あと脩平に話すくらいならレモンに話す」


「レモンのお悩み相談室の開業も近いな」


 脩平は笑って立ち上がる。


「相談料は全額僕がもらうからね」


 せめてものジョークを飛ばして、僕も同じように席を立った。




 七里さんに特別な人ができた。


 つまるところ、僕は失恋したも同然だった。


 付き合ってもいないし、告白すらしていない。そもそも、するつもりもなかった。


 見ているだけの僕だったけれど、七里さんに恋をしていたことはたしかで。


 これ以上ないくらいに僕にお似合いな、情けない失恋だった。


 七里さんは、ちょっと変わっているけれど、それも含めて素敵な女の子だ。きっと僕以外にも、彼女のことを好きになる人はたくさんいる。そんなことくらい、わかっていたはずだ。


 なんの取り柄もない僕なんかじゃ、七里さんと釣り合うわけがない。


 だから、僕の恋が叶わないことなど、最初から決まりきっていたことだったのに――。


 それでも、まるで世界が暗闇に包まれたかのような、未来が閉ざされてしまったかのような感覚だった。


 あまりにも突然で、ショックで、自分がこんなに打ちのめされていること自体がさらにショックだった。


 何も行動しない僕の恋が、絶対に叶わないことはわかりきっていた。それなのに、失恋する覚悟が全然できていなかったのだ。


 不幸中の幸いとも言うべきか、彼女の頭上に出ている数字は、決して大きいものではなかった。


 59。


 今から約二ヶ月後、七月の半ばごろに、七里さんは恋人と別れることになる。


 七里さんが別れて、僕が嬉しいかどうかと言われると、それはとても微妙なところだ。


 七里さんに恋人ができたということに対して、喪失感みたいなものは抱いているけれど、彼女には幸せになってもらいたいとも思っている。


 恋人といて幸せなのであれば、別れることで悲しんでほしくはない。


 それに、七里さんが恋人と別れたとしても、その代わりに僕が彼女の特別になれるわけでもない。引き続き、片想いの日々を送ることにしかならないと思う。それならば、七里さんに恋人がいてもいなくても変わらないのではないだろうか。


 ぐるぐると考えていて、一つ気づいたことがある。


 僕は、一番情けない方法で失恋したにもかかわらず、まだ彼女に恋をしているらしかった。どうしようもなく、自分勝手でみっともない恋を。




 昼休み。七里さんは今も、友人たちとの会話に花を咲かせて、楽しそうに笑っていた。彼女の発言に、周りが一斉にツッコミを入れる。いつもと何も変わらない光景。


 七里さんは、少しずれている女の子だった。


 天然と表現するのもちょっと違う。不思議ちゃんというほど電波でもない。


 物事を見る視点が、角度が、常人とはほんの少しだけ異なっているのだ。この、ほんの少しだけというのが絶妙で、見ていて飽きることがない。


 何気なく呟いた一言が、周囲に笑いをもたらす。本人は周りがどうして笑っているのかよくわかっていない。そんなシーンを何度か目撃したことがある。


 ほんの少しだけ空気を読まない一面も持っていて、場の雰囲気を悪くしかけてしまうこともたまにあるけれど、それを補って余りある人懐っこさと優しさがあった。それに、ふわふわしているようで、芯をしっかり持っている人でもあった。


 そんな彼女の存在は、クラスメイトに、おおむね好意的に受け入れられていた。


 基本的には友人に囲まれている七里さんだけれど、一人でいるときは、どこか遠いところを見るような、儚げな表情を浮かべることがあった。いつもの穏やかな、楽しそうな表情と比べると、まるで別人のようだ。


 そのときの七里さんは、まるで一枚の絵のように美しかった。

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