人間の街、悪い魔女

有馬 礼

前編

 横になっている状態というのは案外負担が大きいのです、と医者は言っていた。特に、自分の意志で身体を動かせない場合には。

 それはわかる。しかしこれではまるで、囚われた人魚姫のようだ。毎日見ているのにその考えが消せない。水槽の中を揺蕩う彼女。その身体はピッタリとした灰色のボディスーツに覆われていて、腰椎の辺りから太いケーブルが出ている。さながら臍の緒が逆についているよう。話によると、筋力が衰えないように適度な運動もできるらしい。目を閉じたままの彼女が水槽の中で一人踊っているところは見たくない。

 早く目を覚ましてくれ人魚姫。100年眠り続けるのは別の話だったはずだろう。それに、水槽の中に入っていられちゃ、真実の愛のキスもできやしない。


 水槽の中にはわずかに水流があるのか、伸びた彼女の髪が静かに広がり、揺れている。海藻のように。

 今日も彼女に変化はない。俺は立ち上がった。きみはふらりとどこに行ってしまったんだ。この世界のことが、嫌になってしまったのか? それとも俺のことが? この小さな海の底に引きこもることがきみの望みだったのか? きみはこんな小さな海で満足している女性ではなかったはずだ。それは俺の思い違いだったのか? 答えてくれ。


 ……いや。彼女が、萌黄がどこに消えてしまったか、本当は俺は知っている。見つけ出せないだけで。


 萌黄、また来るよ。


 俺は心の中で彼女に告げると、切り取られた小さな海の底の前を立ち去った。


「泉 萌黄さんのお連れあいの方ですね?」


 廊下に出たところで回診の医師に出くわす。顔を見てもわからなかったが、下げているIDカードの名前を見て思い出す。彼は萌黄の主治医だった。


 どうも、と俺は曖昧に頭を下げる。

 話すべきことなど何もない。囚われの人魚姫は今日も目を覚まさない。


「よろしくお願いします」


 俺の言葉に医師も曖昧に頭を下げた。彼もまた、話すべき言葉など持っていなかった。

 彼はこの変わり映えのしない毎日に心折れたりはしないのだろうか。それともとうに彼の心は摩耗しきっていて、あの貼り付けられた穏やかな微笑みは、彼という人格の残骸がそうさせているにすぎないものなのか。そして俺も。

 きみはもう、この世界のどこにもいないのかもしれない。きみを探すのは、俺の自己満足にすぎないのかもしれない。全ては徒労にすぎないのかもしれない。それでもやめられないのは、弱さなのかもしれない。

 でも、どうして諦めることができるだろう。きみという人格がこの世界のどこにも存在しなくなっているのだとしても、きみはまだ生きているのに。たとえ、囚われの人魚姫だったとしても。


 要塞のような巨大なサナトリウムを出て、駐車場の四輪バギーに乗りこむ。鉄道という社会インフラがまだ生きていた頃には駅として利用されていたらしい建物は、今や萌黄のように「人格喪失症」を患った者や、最早回復の見込みのない病に冒された者たちの療養所として使用されている。口の悪い「人権派」はここを「人間水族館」などと揶揄しているが、何が正しいのか、当事者である俺には却ってわからない。確かに、彼女にせめて触れられたら、と思わないことはない。しかしいつ終わるかわからないこの療養生活においては、彼女が意識を取り戻した時のために、身体の負担をできるだけ小さくしなおかつ衰弱を防いでくれる方法があるのなら、それに越したことはない。「正しさ」は実益に比べれば遥かに下位の価値でしかない。


 人間が極限まで痛めつけたはずの自然は強かだった。メンテナンスする者のなくなったアスファルトのひびからは草が自由自在に伸びていて、夏の盛りともなれば草は道路と路肩の区別を曖昧にしてしまう。しかし秋の気配が濃厚になってきた今は、雑草もかつての図々しさを失い始めていた。

 大通りを西へ、草の轍を辿る。

 コンクリート製の建物群は、風雨にさらされ、地震に揺さぶられて崩壊しつつあった。ビルの壁面には植物の蔓が絡みつき、窓からは木の枝が張り出している。割れたガラスはその一部分ごとに青空を映していた。世界の所有権は自然に返還されつつあった。


 目を開けてくれ、萌黄。こんな風だけど、これはこれで世界は結構美しいと、俺は思うよ。でもその美しさも、きみがいなければどこか虚しく、物足りないんだ。

 この前まで通れていた高架の道路が、一部崩壊したとかで通行止めになっている。高架下の道も、崩壊に巻き込まれる恐れがあるとのことで封鎖されていた。仕方なく迂回路に入る。

 鉄骨とコンクリートとガラスの破片が混ざった瓦礫の間から、何台かの廃自動車が見えた。この辺りを通ったのは初めてだ。もしかしたら、状態のいい内燃機関がまだ残されているかもしれない。できればディーゼルの。優しく上品で危険な、水素なんかではないやつ。この辺は開拓し甲斐がありそうだ。


 目指す場所は瓦礫の山の向こうに聳えているので、迷う心配はない。天に突き刺さるような巨大建造物。突き出した特徴的な2本の柱は、見間違えようがなかった。


 建造物の正面は半円形に地面が崩落していて、地下構造物が剥き出しになっている。そこに澄んだ水が溜まって、奇妙で静謐な水中神殿の様相を呈していた。建造物へ続く橋をバギーで渡る。崩壊しかけた建物に入っていく物好きは俺くらいなので、バギーを放置していても問題はない。が、一応、ショットガンは装備する。バギーも防犯モードに。俺以外にアクセスを試みる者がいたら、容赦なく「反撃」する。


 かつてはオフィスとして使われていたというこの建物に残された仮想世界に、萌黄は興味を持っていた。俺が内燃機関を掘り出しているように、萌黄は人工知性体を掘り出していた。そして、まだ生きている仮想世界に行き着いた。


 気づかず通り過ぎてしまいそうな(そしてこれまでも何度も通り過ぎてしまった)何の変哲もないドアを開ける。小部屋に窓はなく、正面の壁に向かう形で事務机が置かれ、その上にはデスクトップ型のコンピュータが乗っていた。コンピュータのロックを解除したのは萌黄だ。彼女が最後に送ってきたアクセスコードを入力する。


――霜月、お願いなんだけどさ、もし私がふっといなくなっちゃったら、ここに探しにきて。


 彼女が送ってきた座標とアクセスコード。彼女の身体はここで見つけた。しかしまだ彼女の心は見つからない。彼女は求めている。俺に見つけ出されることを。そのはずだ。

 電気ショックを与えて強制的に覚醒させる装置を手首につけてタイマーをセットし、仮想世界へダイブするためのヘッドセットを装着する。

 間もなく、くるくる回る光の輪が目の前に現れた。


「接続しました」


 涼やかな女の声がそう告げる。

 目の前は煌びやかな繁華街だった。まだ文明が生きていた頃の街そのままに。しかし、行き交う人の姿はない。街だけが、参加者もいないままに奇妙な祝祭を続けていた。見る者のない電子看板は虚空に向け効果のない宣伝を流し続け、設置されたオブジェクトは楽しげな空気を演出していた。仰々しい台座の上に乗った犬の銅像が「ようこそ! 楽しんでね!」と可愛らしい声で繰り返している。大型スクリーンでは5人の仮想少女たちが完璧なフォーメーションで踊り、歌っている。この世界はいつも、この交差点から始まる。


「来たのね、ノヴェンバー・サウス。まだスプリンググリーンを探してるの?」


 傍に現れたのは、魔女だった。魔女、という言葉から連想され期待されるそのままの格好をしている若い女、というのが正確な表現か。

 全身黒づくめで、つばの広いとんがり帽子、黒いワンピース。その胸元は大きく開いていて、胸の下で絞られたデザインと相まってさりげなく身体のラインが強調されている。真っ直ぐな長い黒髪、光を吸い込むような黒い目。


「俺は南 霜月ミナミ シモツキだし、彼女は泉 萌黄イズミ モエギだ」


「だから、ここでは本名を名乗ってる奴なんか、いないのよ?」


 魔女は楽しそうに言う。

 関係ないので黙っておく。


「どうしてスプリンググリーンを探すの? 彼女は探してほしくないんじゃない? 見つけてもらいたいならば、もう、とっくに自分から出てきていると思わない? 出てこないのは、見つけてほしくないからじゃない? だって、今日で、ちょうど彼女が『いなく』なって1年が経つのよ?」


 答える筋合いはなかった。


「あなたは前、彼女は見つけてほしがっているはずだと言った。そう言えるのはなぜなの? それがあなたの独りよがりでないという保証はどこにあるの?」


 聞きたがり屋の魔女の質問は、時々俺の弱い部分をピンポイントで突いてくる。見つけてほしくないのであれば、俺にこの場所を教えるはずがない。彼女は承知していた。この、仮想世界に取り込まれる可能性を。

 魔女を無視して、誰もいない大通りのど真ん中をどんどん進む。建物は、実際に入れるものと書割が混在している。入れるかどうかは、試してみるしかない。気の遠くなるような作業だ。今日の探索箇所と決めていた細い階段を登る。両側の店もくまなく探していく。萌黄の姿はない。


「見つけてほしくないのよ、彼女は」


 俺の後をずっとついてきている魔女が言う。

 なんでも知っているこの街のナビゲーターだという彼女は、観光案内の仕事が楽しいのだろう。だから、俺が訪れる度にこうしてついて回る……。

 ふと、足を止めて魔女を振り返る。


「どうしたの?」


 ただでさえ身長差があるのに、俺の方が上の段に立っているせいで真下を見るように見下ろす形になる。


「きみは彼女に会ったのか?」


「スプリンググリーンに? もちろん。この街に来た人間に最初に話しかけるのが私の役目だもん」


 魔女もほぼ真上の俺の顔を見上げて言う。


「なぜそれを今まで言わなかったんだ」


 口調に責めるようなニュアンスが滲んでしまうのは仕方ない、と自分に言い訳する。


「だって訊かれなかったから」


「……」


 無言で睨みつける。普段あれほどくだらないことばかり話しかけておいて、言うに事欠いて「訊かれなかったから」だと? 憎しみに近い怒りが膨らむ。いや、落ち着け。冷静に考えれば、ナビゲーターだという彼女にまず尋ねるべきだったのだ。「泉 萌黄を知らないか?」と。それだけで良かったのに、それをしなかったのは俺の選択だ。この怒りは迂闊な自分に向けるべきだ。


「じゃあ、訊くよ。萌黄の居場所を知ってるか?」


「知ってるよ。でも、多分あなたは彼女と意思疎通することはできない」


「どういうことだ?」


「……来て」


 魔女は俺の手を取ると、ただの書割だったはずの店のドアを潜った。その先は店の中ではなく、別の通りだった。魔女は俺の手を引いて、更に入り組んだ路地へ入っていき、一軒の店の前に来た。


「……」


 魔女は俺の手を離すと、店のドアを指差す。木製のドアの一部はガラスになっていて、オレンジ色の柔らかな光が漏れている。引き寄せられるようにドアを開けると、中は植物が溢れていた。ほとんどは観葉植物だが、ひとつだけ、黄色い小さな花をこぼれるほどたくさんつけている鉢植えがある。


「……萌黄」


 この店は彼女を連想させた。彼女は観葉植物をたくさん育てていた。引き継いだ俺の世話が気に入らなかったらしく全て枯れてしまったが。知ったら怒るだろうな。あんなに大切にしていたのに。


「これは、スプリンググリーンが望んだ姿。この空間が、ここでの彼女」


「……馬鹿な」


「最初はみんな、人の形をして、人として振る舞ってる。だけど、だんだん人としての振る舞い方を忘れていく。だって、意識や人格なんて、幻想だから。人格とは知覚がもたらす経験と、それによって作られた選好の傾向にすぎないんだもの。幻想なの。ハードウェアとしての肉体を離れてなお残るものなんてない。人の中にいれば人に、長く街の中にいれば街になる。簡単に変わってしまうの」


 魔女が真っ直ぐに俺を見上げる。

 くら、と目の前が暗くなって、思わず壁に寄りかかって座りこむ。

 魔女は俺の傍に膝をついて肩に手をかけると顔を寄せ、この暖かな空間にはおよそ似つかわしくない、光を吸いこむような真っ黒の眼で俺をじっと見た。


「ねえ、霜月。あなたは萌黄の何を愛しているの? この萌黄もあなたの愛する者には違いないわ。こうなってもなお彼女を愛し続ける? それともここを去って、二度と来ない?」


「……」


 萌黄、本当にきみはもう、どこにもいないのか? 魔女の眼は意外なほど真摯に俺を見つめていた。


「ここにやってきた『人格』たちのことは、ひとり残らず学習した。そうしてできたのが、私。だから私は、この街の誰でもあるし、誰でもない」


 俺は息を詰めて仮想人格の言葉を聞く。嫌な予感がする。この後の言葉は、聞きたくない。


「ねえ、ノヴェンバー。霜月。私、あなたを知覚したい。萌黄がそうしていたように。大丈夫。私は萌黄でもある。彼女を裏切ったことにはならない」


「何を……」


 俺は声にならない声で言う。光を吸いこむ魔女の眼から視線を逸らすことができない。


「方法は知ってるわ。あなたはただ目を瞑って、私に身を任せてくれればいい。なんなら私のことを『萌黄』って呼んでもいい。あなたにはなんの責任もない。全部、悪い魔女のせい。だから……」


「やめろ」


 目の前の女に俺は恐れおののく。


「私、純粋にあなたに興味があるの。萌黄は言ってた。あなたは必ず来てくれるって。たとえ人格が仮想だったとしても、あなたと萌黄の『関係』は仮想じゃないって。この仮想世界に唯一持ち込むことができるものがあるとすれば、それは『関係』だって。彼女にそう言わせるあなたは何者なの? あなたを知覚すれば、私にもそれがわかるの?」


 魔女は俺の胸の真ん中に手のひらを置いた。


「何が目的だ」


「言ったでしょう? あなたを知覚したい。私はあらゆる人格を学習した。知覚がどんなものか知りたい。それが学習できれば、萌黄が言っていた言葉の意味がわかる気がする。これじゃだめだと言うなら……」


 魔女の姿がぼやける。まるでそこだけピントが合っていないような、不思議な感覚。


「これならどう?」


 像を結んだ魔女の姿は、俺が探し求めている者に変わっている。


「……萌黄」


 これはまやかしだとわかっているにもかかわらず、鼓動が強く、速くなる。どれほどきみを探し求め、恋焦がれていただろう。


「そうよ。私が萌黄。だから……ね?」


 彼女の声だ。落ち着いたハスキーな声。あれほど好きだった彼女のを声を今の今まで忘れていたことに気づく。まやかしの萌黄が温かく柔らかな身体を寄せてくる。萌黄がつけていた香水の匂いがする。彼女の体温で温められて甘く匂いたつその香りは、俺を抗いがたく揺さぶる。しかしそんなはずはない。ここは仮想の世界だ。だがわかっているのに、まやかしをまやかしと片づけることができない。俺はこんなに弱い人間だったのか。


「……やめてくれ」


 俺は顔を背けて弱々しく言う。本当なら彼女の身体を突き飛ばして「やめろ」と言うべきだ。しかし、目の前の圧倒的な現実はそれを難しくする。仮想の世界にありながら「現実」とは。とんだお笑い種だ。だが、何ができる。これほど恋焦がれているのに。


「なぜ?」


 まやかしの萌黄がその黒目がちな目で俺を見つめる。吸い込まれそうだ。ずっと見ていたい。どれほど願ってきたか。


「ここでは、真実らしく見えるものが真実なの。だから私は萌黄だし、あなたは私のパートナー。どこかおかしいところがある?」


「俺はそれを真実だとは認めない。きみは仮想の世界の魔女だ」


 まやかしの萌黄は不満そうな顔で俺から身体を離すと、元の魔女に戻った。


「あーあ。なんだかしらけちゃった。スプリンググリーンの言うとおりじゃない。パーティは終わり。もう帰って、あなたたち」


 魔女は立ちあがると俺を見下ろして言い放った。



「……」


 ヘッドセットをつけたまま机に突っ伏している自分に気づく。電話が鳴っている。相手は萌黄が入院しているサナトリウムだ。

 ヘッドセットをむしりとる。


「南です……」


『泉さんが意識を取り戻しました。来ていただけますか、今すぐ』


「わかりました。これから向かいます」


 コンピュータのディスプレイには「接続が強制的に遮断されました」の文字が浮かんでいた。

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