カンボジア脱出大作戦

1997年3月14日現地時間午後10時頃、カンボジアの首都プノンペンにて、現地の警官が僕の宿泊先の部屋に踏み込んできました。かなり切迫した状況でした。


学生時代格好つけて一人で東南アジアを旅行しているときでした。いろいろ計画を立てたところでどうせ予定通りには行動しきれないし、何でもそのときそのときに決めようと考えて、行き帰りの飛行機のチケットと最初の一泊のホテル以外は何も決めていませんでした。


プノンペンでたまたま見つけた宿は、バングラディシュ人が経営していて、バングラディシュ人ばっかり宿泊していました。ホテルという表現からはほど遠く、旅館でも民宿でもなく、安宿という単語がしっくりいくような感じで、バングラディシュ人はそこに宿泊というよりも、雑魚寝して住み込んでそこを拠点に出稼ぎをしているようで、そのような宿の四階の個室に案内されました。宿の前には警察の詰所があり、警察詰所の前には屋台があり、そこにはおばちゃんと子供三人がいました。バングラディシュ人は見飽きていて日本人が珍しかったらしく、屋台でご飯を食べたとき子供になつかれ、また、昼食をとっていた警官たちにも話しかけられて、その人たちと知り合いになり何日かたちました。


会話はお互いつたない英単語の羅列でした。


プノンペンを出発する前日に、警官のうちの一人が晩にご飯を食べにいこうと誘ってきました。あまり海外旅行のときに現地で知り合った人を信用するものではないとはいいますが、職場も仲間もはっきりしていて、何人もいて、しかも警官だし、現地では夜あんまり一人で出歩くものではないと思っておとなしくしていたのですが、これは夜の街を見られるいい機会だと思い一緒に出掛けることにしました。


その警官は二十五歳ぐらいで身長は普通ですががっちりとした体格の青年でした。 ご飯を食べて、ビールを飲みました。夜の街は昼とは違った雰囲気があり、それを体験できてうれしかったのを覚えています。


そのあと、さらに少し離れたところの歓楽街を見せてくれました。通るだけで入れ替わり立ち替わり呼び込みに手や肩を引っ張られてびっくりしました。その警官はどこかお店に入ってもいいよと言ったのですが入りませんでした。


宿の前でお礼を言って、部屋に戻りました。疲れたし寝ようと思ったとき、ドアをノックする音がしました。さっきの警官の声がしました。ちょっと話があると言われ、思わずドアを開けてしまいました。なんだか思い詰めた感じのする表情でした。部屋に入ってこようとしました。もう寝ようと思っていたので入ってこられるのがいやで、そういうこちらの態度や動きは見えたとは思うのですが、それでもやや強引に奥に入ってきました。たまたま僕が部屋の入口側、彼が奥でベッドを挟んで向かい合うような感じになりました。突然、


「ユー、ラブ、ミー?」


と訊かれました。言葉と表情と状況で一瞬にして彼が男性の僕が好きなんだということが分かりました。僕と趣味が全く異なる!そして、部屋に押し入るような感じで来たということはかなり強引に迫ってくるかもしれない、非番とはいえ警官はひょっとして武器を持っているかもしれないし、そうでなくて素手でも多分かなわないなと思い、ぞっとしました。歓楽街で興味を示して店の一軒でも入って飲んだりするとか、そういうところを見せなかったのが彼に変な信号を送ってしまったんだと思いました。


刺激しないようにして帰ってもらわなくてはと思い、少し考えたうえ、


「ユア、イングリッシュ、イズ、ウロング。アイ、ライク、ユー。バット、アイ、ドント、 ラブ、ユー。」


と言って相手のあからさまな好意を反らしてみたのですが効果なく、


「アイ、ラブ、ユー。スリープ、ウィズ、ミー。」


と言ってベッドの反対側の僕の方に歩み寄ってきました。ベッドの上を這って反対側に逃げました。逃げる僕に気付いたとたん彼が凶暴になり、ズボンの腰を掴まれ引き戻されそうになり、さらに足首を掴まれそうになり必死で振りほどきました。これで相手の好意を知りながら嫌がっているということが彼に丸分かりになり刺激してしまったうえ、逆に彼がベッドを挟んで入口側、僕が奥という配置になり、逃げ場のない追い詰められた状況になりました。


ここは丁重に断るしかないと思い、両手の平を相手に向けて拒否の動作をして、


「プリーズ、アンダースタンド。アイ、キャント、ラブ、メン。」


状況的には『マン』の複数形とかを忠実に使っている余裕はないのですが、そのときはたまたま正しい単語が口から出たようでした。


相当長い時間僕は英単語の羅列でその気がないことを相手に丁重に伝えようと努力しました。彼もそれに対して僕を好きだ一緒に寝ようと言い続けるばっかりで、堂々巡りがずっと続いていたのですが、彼がついに折れたようで、


「オーケー、トゥナイト、アイ、ゴー、バック、ホーム。」


と言ってくれたので、あきらめてくれたと思ってホッとしたのですが、


「バット、プリーズ、キス、ミー、ナウ。」


と、言われ、それをやってしまったら意味が全くないと思い、


「ノーノー、キス、ノー。」


と慌てて断ると、今度は、


「アイ、ウォント、ホールド、ユー、ショート、タイム、オーケー?」


などと言ってきたので、それこそ少しだけとか言って抱きついた勢いで押し倒す気だと思い、


「ノーノー。」


と必死で断りました。そうしたら今度は、


「プリーズ、タッチ、ミー。」


と言われました。意味が分からず、


「タッチ?ホァット?」


と訊くと、彼はズボンを下ろして下半身を丸出しにしました。なんてことを求めるんだと思いました。困っていると、


「タッチ、タッチ。」


と揺すりながらせかしてきました。途中から相手をどうやってなだめるかをずっと考えていましたが、やっぱり逃げなくてはと思いました。そのとき、相手は今ズボンを下ろしているから逃げるなら今しかないとひらめきました。逃げようとしているとばれたら大変なので出口をちらちら見ないように細心の注意を払って、


「アイ、タッチ、ディス?オー、リアリー?」


とか言って彼の下半身を指さしながらとぼけた顔で相手の方に近寄る振りをして出口の方に近寄っていきました。一瞬の隙を見て部屋の出口へダッシュしてドアノブを握りました。気付いた彼がズボンを下ろしたまま僕に掴みかかろうとしてきました。ノブをひねってもドアが開きません。慌ててノブを反対側にひねったら開いたのですが、開かなかったその一瞬の恐怖は相当なものでした。間一髪で掴みかかる彼をかわし、廊下に出てドアをたたきつけるように閉めてから階段を一目散に駆け下りていきました。


フロントでは主人とバングラディシュ人数人が談笑していました。そこに入り込んで、彼もみんなの前でまで迫ってこないだろう、これで助かったとホッとしました。すこしたってから、あきらめて彼がおとなしくフロントの前を通って帰っていくのが見えました。ズボンはちゃんとはいてました。


宿屋の主人に事情を話したところ(話すと言っても『ヒー、ゲイ、ゲイ。』ぐらいですが)、別の部屋を用意して一晩かくまってくれました。


次の日、僕がプノンペンを出発するのをみんなが見送ってくれましたが、彼はやや後ろの方から僕のことを悲しそうに見ていました。

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