第7話

 彼女の目の中に光りが入り、まるでプレゼントを開ける様な子供の様にも見えた。ただ、僕はその言葉を聞いて何故話しかけて来るのかが少しだけ分かった様な気になった。


「やっぱり道井さんは、」

「ううん、人間……だと自分では思っているよ。だけど、本当は何かなんて分からないよね」

「…………」


「私ね、高校生になるまでの記憶が無いんだ。正確には、日常生活の記憶っていうのかな?」

「もしかして、それでこの学校に?」


 道井杏は、ゆっくりと頷く。事故なのか、病気なのかはわからない。だけど彼女はその事が原因で苦しんでいるのだと分かった。


「記憶が無いか。ごめん、僕にはよくわからない」

「そっか。でも君はまた私の記憶が無くなっても、変わらず接してくれると思うんだけどな」


 彼女の予想は当たっていると思う。もし、彼女が僕を忘れたとしても僕は何も変わらず──。


 そう思うと何故か涙が溢れそうになる。おかしいな、別に悲しいとか感動したりはしていないはずなのに。


「それで、宿題の答えは出たの?」

「うん。楽しいって言うのは、『その時には気づけない物』、きっと後になってから『思い出した時に楽しかったのだと気づく物』だと思う」


 僕の答えはやっぱり記憶が必要な物で、彼女の秘密を知った後では酷な話かもしれない。この言葉は道井杏を否定して居る事にもなりかねない。


「やっぱり、君に聞いてよかった。記憶の事気にして居るのかも知れないけど、君の答えは『夢中になる』って事なんだね」


 道井杏の一言で、考えていた事の全てが腑に落ちた様な気がした。確かに【楽しさ】イコール【夢中】と考えるなら武明達とゲームの時や、一人でフィギュアを作っている時、そして『その時には気づけない』という全てが納得できる。


「【夢中】が正解だったんだ……」

「ありがとう。これで私の失った感情の一つが取り戻せた様な気がするよ」

「もしかして、それでこんな宿題を?」

「そうだよ。私は記憶と一緒に、感情が理解できなくなっている。何が楽しいのか、悲しいのか、どうして怒ったり泣いたりしているのかもわからない。だから君が言う様に、【アンドロイド】みたいな物なんだよね」


 そこまで言うと道井杏は、優しく笑う。その笑顔は今まで見ていた表情とは違いどこか人間味のある可愛らしい笑顔だった。


「僕は、今の道井さんの笑顔好きだよ?」

「今の? どうしてだろう……もしかしたら君に、成峻くんに【夢中】だからかもしれない。きっと私は【楽しい】んだよ」


 そう言うと彼女は僕の手を取った。


「帰ろう? 遅くなっちゃってごめんね」


 無機質な彼女に興味を持っているだけだと思っていた。完璧なルックス、淡々と勉強やスポーツをこなすまるでアニメの中のキャラクターの様な彼女が気になっていただけだった。


 だけど今、僕の手を取り今にも走り出しそうな道井杏は少し不完全で隙がある様にも見える。僕の心はその数ミリだけ開いた様な隙間にざわついているのが分かった。


 彼女の事を好きなのかもしれない。



 道井杏は翌日にはいつも通りだった。

 あの日見せた自然な笑顔はなんだったのか。【楽しい】と言う感情を理解した事で、取り戻したのでは無かったのかとさえ思う。


 それでも僕はあの日、放課後に見せた笑顔を忘れられないでいた。ぼんやりとしていたせいか、休み時間にちょうど近くに来ていた武明に呟いた。


「武明はさぁ、旭の事好きだよね?」

「ちょっ。お前ちょっとこい!」


 慌てた様に教室から連れ出す彼。どう見ても動揺しているのが分かる。怒っていると言うよりは耳が赤くなっている所からも照れているのだと思う。


 いつにも無く無言の武明は、階段に差し掛かると足を止め振り返った。


「いきなりにも程があるだろ! そう言うのはさ二人で帰ってる時とかにする話じゃないのかよ?」

「やっぱりそうなんだ?」

「あー、もう隠しても仕方ないけどさ。それより、お前まさか旭の事──」


 すかさず僕は首を振る。


「そう言うわけじゃないんだけど。いや、旭はかわいいし、いい子だとは思ってるよ?」

「じゃあ、なんでそんな事聞くんだよ」


 何故と言われたら困る。武明が旭の事が好きだとしたら、どんな感じか聞きたかっただけなのだけどそれを上手く伝える自信が無かった。


「仲が良さそうだから。ただそれだけなんだけど」

「まぁ、幼馴染みたいな物だからなぁ」

「そうなの?」

「言っても小学校の時からだけどな」


 それまで武明達の過去を聞いたことが無かった事もあり、納得とともに少し羨ましくもあった。


「そういうのなんかいいよね」

「そうか? 思っているほどいい事なんかほとんどねぇぞ?」


 少し照れながら言う彼を見て、やっぱり羨ましく思えた。


「あのさ、武明。やっぱり記憶って大事だよね?」

「記憶? 思い出とかって事か?」

「うん。無くなったりしたら嫌だよね?」

「まぁ、本人もだけど周りも相当辛いだろうな」


 困った様な顔をする彼は、旭に忘れられた事を想像したのだろうと思う。確かに記憶があるそれまでの友達なんかは無くなった本人とは違う辛さが有るのだと気付かされた。


「でもなんでそんな事聞くんだよ?」

「なんでって……」

「何か悩んでんのか? 俺に言える事だったらきくぜ?」


 普段とは違う落ち着いた声で言う。道井杏が周りに知られたくない事だとしたら、言ってはいけない事なのだと思う。


「杏ちゃんの事か?」

「え、なんでそれを?」

「やっぱりな。というか俺に話したいけど話せない事ってそれくらいしかないだろ?」


 他にも色々有ると言い返したい所だったが、図星で有る以上何も言えない。それどころか、武明なら何かいいアドバイスをくれるのかも知れないと縋る様に口を開いた。


「道井さん、記憶喪失らしいんだ」

「は?」

「だから高校に慣れなくてうちに編入したんだって……」

「マジかよ」


 声が出ないのだろう。一瞬眉をひそめて間が開いた。だけど彼はすぐに優しい表情を見せると語りかけるように言う。


「辛かったんだな。杏ちゃんも、お前も……」

「……うん」


 どうして彼に人気があるのかがわかった。それと同時に、僕は何故道井杏にこの言葉をかけてあげられな無かったのかを悔やんだ。


「それで、お前はどうしたいんだよ?」


 だが彼はそこに留まらず、前を向いているのが分かった。

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