音符のミファと鼻歌の日々

ぽてゆき

全音符と植木鉢

 あの時、あのオジさんに出会ったことで、私の人生は大きく変わることになった。

 



 ──それは、25歳の冬。

 普段あまり酒を飲まない俺にしては珍しく、すれ違う人を避けるのに苦労するほどフラフラの足取りで、地元の駅からアパートまでの道を歩いていた。

 溜まりに溜まった仕事のストレスをぶつけるべく、学生時代から付き合いのある友人を誘って居酒屋をはしごした帰り道。

 アパート近く、人気の無い道で最初に“ソレ”を見かけた時、完全にアルコールが生み出した幻に違いないと、無視して素通りしようとした……のだが。


「ほら、お兄さん。音符はいらんかね? 色とりどりの音符だよ」


 と声をかけられ立ち止まる。

 振り向くと、そこには『音符屋』という旗を掲げた屋台、そしてニコニコ笑ったオジさんの姿があった。


「やばいやばい。こりゃ完全に飲み過ぎだ。幻覚がこんなにハッキリ見えるなんて。さっさと家に帰って寝よう」


 幻を振り払うようにあえて独り言を漏らしながら、顔をアパート方向に戻して歩き始め……ようとすると、また背後から声が飛んで来た。


「ほら、お兄さん。音符はいらんかね? 色とりどりの音符だよ。癒やされるよ。癒やし効果抜群だよ」


 それが仮に現実だとしてもあまりに胡散臭く、逆にシラフだったら完全スルーで足早にこの場から去っていたに違いない。

 いや、泥酔してるからこそ幻覚を見てるわけであって、シラフだったらそもそもこんなの見ることもくて……なんて頭の中がごちゃごちゃと収拾が付かなくなった結果、とりあえず話だけ聞いてみるかという結論にたどり着いた。


「おや、買ってくれる気になったのかね?」


 オジさんは嬉しそうな顔で俺を見た。

 正面に立ってみると、怪しさとは縁遠い清潔感のある身なりをしていて、あごに生えた白い髭も綺麗に整えられている。

 でも、詐欺師とは得てして好感度の高いルックスをしているものだ、という誰かの言葉を思い出し、まだ警戒心を解くことは無かった。 


「いや、買うとかそういうんじゃなくて、ちょっと気になったから……」

「おお、そうかそうか。それじゃあ、ドレが良い? ベーシックな黒から、爽やかな緑やオレンジ、クールな青や紫などカラバリの豊富さには定評があるんだよ」

「いや、だから買うつもりは……」

「うんうん。こっちも売るつもりじゃないから大丈夫だよ」

「えっ? それはどういう……」

「まあ簡単に言うと、音符が沢山余ってるからおすそ分けしてる……ってとこかな?」


 オジさんは優しくニコッと笑った。

 ……酒のせいか何なのか、見知らぬオジさんの笑顔にも関わらず、なんだかホッとしてしまい、不覚にも警戒心が少しだけ薄らいだ。

 もちろん、お金を取るつもりは無いという言葉に現実的な安心感を覚えたというのもあり、俺は屋台に並ぶ色とりどりの“玉”に目を落とした。

 それは、鶏の卵より一回り大きいほどのサイズ感で、形も似たような楕円形。

 表面にこれまた楕円形の白い模様が描かれている。

 もしかして、これは……。

 

「どうだい、このたち。見てるだけで癒やされるだろう?」

「あっ、そうだ、全音符! って、全音符の形をしたボールってこと⁇」

「いやいや、ボールじゃないよ。全音符だよ。ほら、試しに指で弾いてごらん」


 オジさんは、顔の前で親指と人差し指の輪っかを作ると、俺の方に向かってピンッと指を弾いて見せた。


「えっ、良いの? これ売り物……じゃないのか。それじゃお言葉に甘えて」


 俺は右手の親指と人差し指で輪っかを作りながら、所狭しと置かれた全音符を物色した。

 そして、その中でも一番綺麗に見えたオレンジ色のやつに指を当て、デコピンするみたいにピンッと弾く。


 リーン──。

 

 静かな夜の住宅街に、綺麗な音色が響き渡った。

 それは、風鈴のような高音だけど不思議な丸みを帯びていて、心にジワッと染みるようなとても美しい音だった。


「どうだい、ソレに決めたのかい?」

「あっ、は、はい。じゃあこれで……」


 まるで最初から決まってたかのように、俺はそのオレンジ色の全音符を手に取った。

 すべすべで手に吸い付くような不思議な感触。

 思ったより重みがあるなぁ……って、こんなの見るの初めてなのに、思ったよりも何もないじゃないかと苦笑い。


「で、育て方は知ってるかね?」

「えっ? 育て方……?」

「ああ、その様子じゃ知らないようだね。まあ、植物を育てるのとほとんど変わらないから大丈夫だよ。植木鉢でも良いし、バケツでも良いし。とにかく全音符が入る大きさの器に土を入れて、その中に埋める。あとは水……じゃなくて鼻歌をあげる。いいかい、水の代わりに鼻歌だよ。これ、一番大切なことだから絶対に忘れないように」


 ずっと穏やかだったオジさんの顔が、キッと引き締まった。

 言ってる意味はよくわからないが、そこまで言われると本当に大切なことのような気がして、頭の中の重要なフォルダにその教えをしまい込む。


「それじゃ、その子をよろしくね」


 オジさんはまたニコッと表情を崩し、こっちに向かって手を振った。


「は、はぁ……それじゃ」


 俺は、絵に描いたような“キツネにつままれ顔”で軽く会釈をしながら、屋台を後にしてアパートへと歩き出した。

 角を曲がる直前でふと後ろを振り向くと、屋台とオジさんの姿はどこかに消えてしまっていた……。



 

 朝の日射しに急かされるように目を覚ます。

 ちゃんとベッドの中で寝ていて安心した。

 あれだけ酒を飲みまくったのは人生でも初めてで、実際アパートに入ってからの記憶はほとんど無くなっていたのだが、しっかり部屋着に着替えているし、髪もサラサラ。

 ベッド脇のテーブルには、ちゃんとオレンジ色の玉も置いてある……。


「って、ええっ⁉ 夢じゃなかったのアレ⁇」

 

 忍び寄る二度寝の気配が一気に吹き飛ぶ。

 俺は、勢いよくシーツを振り払いながらベッドから降りると、テーブルの上にポツンと置かれた“全音符”を凝視した。

 それは確かに……実在している!

 手で触れると、すべすべしていて吸い付くような感触がある。

 完全にアレは夢の中の出来事だと思っていた。

 あの屋台もオジさんも……。


「コレも……」


 と呟きながら、オレンジ色した楕円形の玉を人差し指で弾く。


 リーン──。


 昨日と全く同じ綺麗な音色が部屋の中に響き、壁や天井に反射して心の中にじんわり染みてくる。

 

「植木鉢と土……だっけ」


 俺は全音符の隣に置いてあるスマホを手に取るとってメモ帳アプリを開き、『買うものリスト』にその2つを追加した。

 たしか、1つ手前の駅で降りた辺りにホームセンターがあったよな……なんて事を考えながら、出社の準備を始めた。




「ただいまー」


 アパートのドアを開けて中に入るなり、誰も居ないまっ暗な部屋に向かって声をかける。

 大学を卒業するまでずっと実家通いで体に染みついたこのクセは、我ながら虚しさを感じずにはいられない。

 このアパート自体は築年数のわりにとても綺麗で、この部屋もワンルームの割りに広々としているところはとても気に入っている。

 でも、カチッと電気のスイッチを押し、明るくなった誰も居ない空っぽの部屋を見る度に、心の中は逆にモヤがかかって薄暗くなるような気がした。

 そして頭に思い浮かべるのは、また今日も何一つ進歩が無かったな……という後悔。

 社会人になって今年で3年目。

 会社の同期は皆、着実にそれなりのポジションを任されはじめている中で、俺だけ1人ポツンと取り残された状態。

 同い年の友達から充実した仕事の話を聞く度に、嬉しさよりも悔しいという思いが先に立つ。

 何かと酒の席が多い大学時代だってほとんど飲まなかったのに、今じゃ会社帰りにコンビニ寄って缶チューハイを買うのがお決まりのコースになっちゃってんだもんな……と、テーブルの上に買い物袋を2つ置く。

 1つはコンビニの、そしてもう1つの袋にはホームセンターのロゴマーク。


「ほら、買ってきてやったぞ」


 オレンジ色の玉に向かって声をかけながら、袋の中から小さな植木鉢とパッケージに包まれた土を取り出す。

 器は何でも良いってオジさんは言ってたし、土だって適当に近所の公園から貰ってくれば良かったのかも知れない。

 けど、なんとなくあの綺麗な音色にそれは似合わないような気がして、少ない給料から捻出して購入。

 そんな植木鉢の中に土を半分入れ、その上にオレンジ色の玉を置き、さらにその上から玉が全て覆われるぐらい土を加えた。


「こんな姿、誰かに見られたらヤバいなぁ……」


 なんて呟きながら、音符屋のオジさんの言葉を思い出す。


「水じゃなくて鼻歌をあげる……だっけか……」


 それはもう、謎の玉を植木鉢の土に植える行為よりもさらにレベル高すぎる!

 思わずそこでリタイアしたくなったものの、恥ずかしさをグッと飲み込み、缶チューハイを開けて中身をグッと飲み干して、歌う準備を整えた。

 

「よし、じゃあ……俺の歌を聴け!! ふふふふふーん♪ ふふふんふーん♪」


 高校生の頃に大好きだったアーティストの曲。

 そういえば、あの頃はしょっちゅう友達とカラオケボックスに行ってたよなぁ……それに比べて、最近はめっきり行かなくなったなぁ……なんて事を考えながら、全音符を植えた植木鉢に向かって鼻歌を歌いきる。

 すると、土の中からニョキニョキと芽が出てきて……なんてことは起きなかった。


「まっ、そりゃそうか」


 俺はひとりぼっちの部屋でフッと小さく笑った。

 でもそれは、別に騙された自分への嘲笑……なんてものじゃなく、どちらかと言うと清々しさというか楽しさというか、とにかく良い意味での微笑みだった。

 思い返せば、学生時代だって当然それなりのストレスやら悩みやらはあった。

 けど、スポーツで体を動かしたり、それこそカラオケで熱唱しまくることで意外と上手く吹き飛ばすことが出来てたんだよな。

 だから、たとえ鼻歌とは言え1曲歌いきったことで、少しは心の中のモヤモヤが体の外に吐き出せた気がした。

 それができたのもコイツのおかげだし、そもそも普通の植物だって1日や2日、水をあげただけですぐ芽が出るなんてことは希なんだから……。

 と、こうして俺の日課が1つ増えた。



 

 次の日も、その次の日も、会社から帰ってきては、お酒を飲みながら植木鉢に向かって鼻歌を歌い続けた。

 


 

 週末、友達を誘ってカラオケに行った。めちゃくちゃ楽しかった。

 家に帰ってきてからも、静かな観客のために鼻歌を披露した。


 

 

 そして週明け。驚くべき事が起きた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る