第4話 逃走

 祐治が瞳を開けると暗闇の中に天井が映った。自分の体も感じられてしまう。紛れもなく、自分の意志で動かせる自分の体だ。手を握ろうとしても、肘を曲げようとしても体はしっかりと動く。眠りにつく前と何ら変わりはない。それどころかより確かなものとなっている。

 そして壁に立てかけられた鏡には目を見張るような美青年。


「……現実だったのか」


 祐治はそう呟いて体を起こす。今度は倒れなかった。命の炎が消える直前の幻とも思っていたのだがその可能性も煙が風に吹かれるように溶け消えた。

 もう一度眠る気にもならず裕司は恐る恐るベッドから脚を降ろした。それから慎重に、凍った泉に立つかのようにゆっくりと体重を乗せる。2本の脚は見事にそれを耐えてみせた。

 部屋の中に光源はないが部屋の隅、穴が空いたドアから微かに光が漏れてきていた。祐治は光に誘われる虫のように足を進める。


 ドアノブに手をかけると冷たいザラザラした感触が走った。錆びている。それでいて少し力をかければもげてしまいそうなくらい脆そうだ。祐治は恐る恐るノブを回し、ドアを開けた。

 ホールには一切灯りは灯っていなかったが反対側からは光が漏れてきている。綺麗に四角く切り取られた光を見るからに、ドアが開けっ放しなのかそもそも付いていないのだろう。裕治は足元を気にしながらゆっくりとそこへ向かう。


 部屋の中を覗くとそこは小さな書斎になっているようだった。左右の壁を埋め尽くすように本棚が設置されいるため小さそうな部屋が余計小さくなり、圧迫感すら感じる。両腕を広げるのが精一杯といったところだろう。

 正面では小さな背中が丸まっていた。リルリーシャが椅子に座ったまま机に突っ伏して寝ているようで、机の上には何冊かの本が見える。勉強に疲れた子供のようだと思いながら、祐治は視線を上にずらした。

 机が接している壁には火の灯ったランプが壁のフックに吊られていた。あまり馴染みのない代物だが、この書斎での火の不始末が良いはずはない。

 裕治はリルリーシャに近づくと彼女を起こそうと腕を伸ばす。


「なあ、リルリー……」


 その瞬間だった。伸ばした右腕は振り返ったリルリーシャに払われ、左肩に鋭い衝撃が走った。剣だった。いつの間にかリルリーシャが手にしている水晶のような剣が左肩に伸びている。


「はぁ?」


 痛みに悶える前に思わず間抜けな声が出た。だが、状況を理解する前にリルリーシャは更に剣を押し込むと同時に、祐治を押し倒してくる。その瞬間、祐治には確かに見えた。何も持っていないはずだったリルリーシャの右手に空気が結晶化したかのようにナイフが収まったのを。


「ぐうえあああ!」


 訳のわからないまま倒され、そのまま馬乗りになったリルリーシャに腹を押しつぶされて濁った悲鳴が出る。肩が燃えるように熱い。あの時の死の感触が蘇ってくる。だが、裕治は痛みに悶え、叫ぶのではなく、歯が削れるくらい、じっと口を固く閉じて悲鳴を飲み込む。

 リルリーシャは抱きつくように上から祐治に覆い被さってくる。驚くくらい軽かった。寝息のように安らかな呼吸を感じ、まつ毛の数も数えられそうな程に顔は近い。彼女を感じる特等席と言ってもいいだろう。首筋に突きつけているナイフを除けば。

 可憐な少女に抱かれて喜ぶ余裕なんてものは祐治には無い。目の前の少女がたまらなく怖かった。眠るように穏やかな表情で刃を突きつけるのも。魔法のように無から現れた刃も。友人になれるかと聞いて人を突き刺す、彼女の考えが全くわからないことも。

 声をあげたら静かにさせられるかもしれない。暴れたら大人しくさせられるかもしれない。彼女の考えがわからない以上、ありとあらゆる選択肢が2度目の死につながっていようだった。一度は経験したとはいえ、望んだ生ではないとはいえ、突きつけられた死の恐怖と苦痛は耐えられるようなものではない。祐治はじっと歯を鳴らしながらリルリーシャの動きを待つ。

 彼女が動くまではそうはかからなかった。少なくとも肩を貫く激痛に慣れるほどの時間ではない。

 寝ぼけたような彼女の瞳に意志が宿り、そして驚くように見開いた。


「ちっ、違っ、私、こんなつもり……」


 リルリーシャはナイフを投げ捨て、それはどこかに当たるより先に砕け、空気に溶けるように光の塵となった。それから祐治の肩に刺さった剣も煙のように消え去る。

 祐治はその光景を呆然と見ていた。急に現れたのなら消えもするのだろう。それでも理解できなかった。


「うあっ……痛……!」


 リルリーシャの小さな手が祐治の肩を抑える。流れ出てくる何かを止めるかのように。しかし、そこから溢れ出るはずの赤い血は見えない。


「……痛くない。こんなもの、痛くないのじゃ」


 本気で心配し、元気づけてくれているような声だった。人を刺して、自分で原因を作っておいてなんて身勝手だと憤りながらも、祐治は本当に痛みが引いてくるのを感じた。麻酔をかけられたように感覚が無くなってきて、体の自然な働きだとは思えない。死ぬ寸前は確かに痛みも引いたが、あの時に感じた死の気配は微塵も無い。


「本当にすまんな。つい……侵入者かと思ってな……」

「……どいてくれ」


 祐治は冷たく言い放った。傷みはもう殆ど感じない。


「まだ傷は……」

「いいからどけ!」


 叫びとともに祐治はリルリーシャを無事な左腕で突き飛ばした。恐怖心は既に怒りに変わっていた。

 彼女の体は突き飛ばした祐治自身が驚くくらい吹き飛び、背中から椅子に突っ込んだ。祐治は思わず自分の手を見るが、何の変哲もない普通の手だった。だが、馬乗りになった相手を片手でここまで突き飛ばせるものだろうか。

 祐治は体を起こしてリルリーシャを見る。倒れた椅子に頭を預けながらこちらを見上げていた。


「ふふ、ふふふっ、お主、やっぱり魔力の巡りが良いようじゃな……それとも私のやり方が良かったのか?」


 突き飛ばされた彼女は笑っていた。何かの成功を誇るかのような笑みだ。それを見た瞬間、祐治の中で何かが溢れた。


「何意味わかんねえこと言ってんだよ!いきなり剣出して、人を刺して、狂ってるのかよ!化物かよ! だいたいいきなり魂を呼び寄せたとか頭おかしいんじゃねえの!? 瞳を移しただの気持ち悪いこと言って、挙げ句の果てには友達だ!? 死ねよ!」


 祐治は溢れ出てくる暗い感情全てを怒りに変えて必死にぶつけた。そうでなくては怖くなってしまいそうだった。持て余した感情が恐怖と不安に変わり、自分を飲み尽くしてしまいそうで。

 祐治はひとしきり思いつく限りの言葉でリルリーシャを罵ると彼女に背を向けた。


「ど、どこへ行くのじゃ?」

「さあ? ここじゃなければどこでもいい」

「ま、待ってくれ。私が悪かった。考え直してくれんか? い、いや、せめて夜が明けるまでは待たんか? 夜の森は……」

「黙ってろ!」


 吐き捨てるようにそう言って祐治は駆け出すように館を出ていった。

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