神の子供たちはそれでも生きる

きんちゃん

第1話 橋本

「おはようございます」

 東京都心の馬鹿デカいオフィスビルの地下2階にある清掃控え室の扉を開けると、橋本和郎は挨拶をした。その挨拶は中にいた数人の同僚に対してのものというよりは、単に儀礼的に……控え室そのものに対してしたかのようだった。

「おはよう」「おはようございます」 

 それでも中に居た中年の男女たちは橋本に対して挨拶を返してくれた。

 午前5時45分。年末が差し迫ったこの時期外はまだ暗い。特に今日は一段と寒く、身体が縮こまりそうだった。

「おう橋本君、今日は寒いな」 

 狭い控え室の一番奥、唯一のデスクに腰掛けていた男が橋本に声をかけた。

 責任者の水田だった。浅黒い顔とでっぷりとした腹は30歳の橋本よりもかなり年上に見える。だが橋本に向けた笑顔にはどこか憎めない無邪気さがあった。

「おはようございます。寒いですね」 

 狭い控え室ですれ違う誰とも目を合わせなかった橋本が、初めて目を見て言葉を返した。

「よし、じゃあ早く着替えて!橋本君待ちだぞ」

 6時ちょうどになり朝礼が始まり、一日の仕事が始まった。

 いつもと同じように形だけの朝礼だ。

 すぐに各自が自分の持ち場に向かい作業を始める。 


 橋本和郎がこのオフィスビルの清掃の仕事を始めたのは2年ほど前のことだった。 

 大学を卒業して入った小さなメーカーの営業職はあまりのブラックさに耐えきれず一年で辞め、同業他社に移った。そこは最初の会社に比べれば労働環境もまともで四年ほど勤めていたのだが、社長の代替わりに伴った人間関係のゴタゴタに巻き込まれ、ここも結局辞めた。

 次の職が見つからず、とりあえずの繋ぎとして入った清掃のアルバイトがずるずると続いているというのが現状だった。橋本のように三十歳前後の年齢の人間がビルの日常清掃のアルバイトを続けていることは珍しい。まれに若い人間が入ってくることはあるが、ほとんどは五十代、六十代の人間だ。

 仕事っぷりも橋本は悪くない。ビル清掃の誰でも出来る単純な仕事に見えるが、鍵の開閉やテナントの人間とのコミュニケーションなど意外と気を使う場面も多い。そうした場面で橋本は大きな失敗をしたこともないし、テナントの人間からの評判も良かった。

 だから水田は橋本を「正社員にならないか?」と誘ってみたこともある。入ってきてから一年近く経った頃のことだ。彼の境遇については聞かされていたから、本人のためにもそれが良いのではないか?と考えたのだ。だが返ってきた答えは「いつまで東京にいるか分かんないですから……」という断りの返事だった。確かに入ってきた当初は積極的に行っていた就職活動も最近ではほとんどしていない様子だったし、家庭的な事情も有り地元に帰ることを考えているのかもしれないと思い、水田もそれ以上強くは勧めなかった。

 それから一年以上経った今も橋本は同様にアルバイトとして働いている。その意図を水田は知る由もないが、職場の戦力として若い橋本は貴重であることは間違いないのでなにかと気を遣っている。




(はー、眠い。仕事めんどくせえな。早く家帰って動画見ながら飯食いてえな。…なんとか意識を早送りでも出来ないもんだろうか?)

 橋本は既に10時間後の帰宅してからのことを考えていた。

 だが帰宅してからもさして充実した楽しみがあるわけでもない。ネットの無料動画サイトでアニメやバラエティの動画を漁っているが、それとて寝食を忘れてのめり込むというほどではない。ただ、今の時代ネットさえ繋がれば時間は潰せるから、橋本のような貧乏人には生きやすい時代とも言えるかもしれない。

 もちろん橋本とてずっとこうした無気力な生活を送ってきた訳でない。自身の人生を好転させるべく彼なりには努力してきたつもりだった。

  会社員時代には先輩に誘われれば必ず呑みに付いていったし、合コンに積極的に参加し彼女を作ろうとした時期もあった。金がある時にはキャバクラや風俗に通ったこともある。清掃のバイトになってからは金はないが時間はあるので本をよく読んだ。何冊も読んでいるうちに自分にも書けそうな気がして小説を投稿してみたこともある。ただこれは費やす時間と労力があまりに膨大でもうやらないと固く決心した。

 自分は何の為に生きているのだろう?とふと空しくなることはあるが、そんなのは別に誰にでも起こりうる疑問であり、燻っている現状が憂鬱の理由ではないのだ、と最近では自分に言い聞かせることにしている。



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