最終話 海


 荷造りを終えた部屋は、普段より音がよく響く。

 佳波多くんがその響きの良さを気に入り、さっきから適当な歌を作っては楽しそうに歌っている。歌ってばかりの彼に遥ちゃんは呆れながら、それでも楽しげにその歌に聴き入り、時々彼女も小さな声で口ずさんでは二人で顔を見合わせて笑っていた。私はそんな二人の穏やかなやりとりを楽しみながら、ビールを片手にすっきりした部屋でのんびり寛いでいる。


「引越し屋さん、何時だったっけ」

「十二時くらいじゃなかったかな。遥ちゃんはまだ大丈夫?」

「うん、二時くらいに電車に乗れば間に合うから」

「遥ちゃんと会いにくくなるの、残念だな」


 名残惜しそうにしていると、遥ちゃんが私に歩み寄り、後ろからそっと私を抱き締める。柔らかで温かくて、私は胸がむず痒くなる。遥ちゃんはそのままぎゅっと私を後ろから抱き続けている。


「大丈夫、また会えるから」肩に寄りかかる彼女の頭を撫でながら私は優しく諭すように言った。「なんだったら泊まりに来ればいいよ。女子会でもしよう。佳波多くんが何か悪さしてないかの確認も兼ねてね」

「俺を理由に使うのはいいけど、もっと良い理由で来てほしいかな」


 不満げな彼を見て私たちはくすくすと笑い合った。

 元々の予定通り、遥ちゃんは実家に戻る。学校もそのほうが通いやすいそうだ。初めからそうなることは聞いていたし、いつかこの日が来ると分かっていた。

 これからはもう、朝になって彼らがやってくることも、バターの甘い香りで起きることもない。それが分かっていたとしても、今はどうしても寂しさを感じてします。


「降秋さん、どこに行っちゃったんだろうね」


 私たちは頭上を見上げる。三階には今もまだ降秋さんの気配が残っている。

 朝起きて、彼の部屋に行ったら何事もなかったかのように機嫌よくお菓子を作っているのではないか、そんな都合の良い想像を浮かべて時々覗いてみたが、結局その期待と想像が叶うことはなかった。

 降秋さんが消えた後、双子たちの両親がこのビルを引き継ぐこととなったが、そのうち手放すつもりでいるそうだ。遥ちゃんや佳波多くんもそれでいいと考えているらしい。

 私も、同意見だった。


「奥さん、見つけたのかな」

「多分ね」

「本当にそう思う?」


 遥ちゃんの言葉を受けて私は佳波多くんに尋ねる。彼は深く頷いた。


「根拠はないけどね」


 私も同意見だった。


「ねえ、あの絵、本当に未発表のままにするの?」


 遥ちゃんに尋ねられて、私は作業場に置かれた絵を脳裏に浮かべる。降秋さんの夢をかたちにした一枚の絵画。人の痕跡を感じる海岸の風景を切り取った一枚だった。

 こんな出来で、降秋さんは良かったのだろうか。彼がいなくなってから時々私は考える。特別なことなんて何もしていない。私以外でも描けたかもしれない。でも、彼は私の絵をきっかけに消えていった。

 この絵を幸江に見せた時、「もう大丈夫だね」と彼女は言った。羽美はもう大丈夫、と落ち着いた眼差しでこの目を眺めた後、やがて式の準備へ話題は移っていった。それからこの絵の話は一度もしなかった。


「そういえば、佳波多くん、ありがとうね。余興引き受けてくれて」

「気にしないでよ。羽美ちゃんだってウェルカムボード引き受けてるんでしょ」

「結婚か。私がする時も羽美ちゃんにお願いしようかな」


 想像を膨らませる遥ちゃんに、佳波多くんは呆れ顔で「その前に相手だな」と言った。彼女は冷ややかな目で彼を睨み、それから私を見て不安げな顔を浮かべる。


「羽美ちゃん、佳波多をよろしくね」

「うん、ちゃんと見張っておくよ」

「見張るってどういうこと?」


 不満げな佳波多くんを見て、私たちはくすくす笑った。


「嫌になったらすぐに手放していいから」


 遥ちゃんの冗談に私は困ったように首を傾げてみせた。


「そういえば羽美ちゃんの新居は、どんなとこなの?」

「うーん、ここよりは狭いよね、やっぱり。ここの家賃が破格過ぎて感覚が麻痺してるんだろうな」


 先日、とあるデザイン会社の契約社員として採用が決まった。それを機にヨルベさんの仲介を経て新居を探し、絞った条件になんとか該当した物件を見つけると、契約を決めた。2DKのシンプルな部屋だ。片方を作業場にしたいという無理な依頼にヨルベさんもよく協力してくれたと思う。彼女にお礼を伝えると「前払いしてもらってるから」と言うだけでそれ以上は何も語らなかった。相も変わらず色々な物事を曖昧にしたがる人だ。

ともかく、彼らよりは後の引っ越しになるが、私もこの場所を去ることになる。

 この先どんな風に生きていくか分からないが、少なくとも、絵に関わる道を進もうと思えたのは、進歩なのかもしれない。あれから少しづつ絵を描く頻度も上がり、個展を見に来てくれた人たちとの繋がりも広がりつつある。それが絵で食べていく道に繋がっているかは分からない。ただ、行けるところまでいってみようという決意を固めるには十分だ。


「羽美ちゃん、また個展開く時は教えてね。必ず行くから」

「どうだろう、まずは飾れるものを増やさないといけないから、まだ少し先、かな」

「いつまでも待ってる。あの絵、これからも飾ってね」


 そう言ってはにかむ遥ちゃんに私は頷くと、抱き締めてくれているその腕にそっと手を置いた。いつか、また二人をモチーフにした絵を飾ってあげたい。

 しばらくして業者が到着し、二人の部屋の荷物はあっという間に引き取られていった。二台の車がそれぞれの引越し先へと走っていく。私はそれを見届け、遥ちゃんを駅の改札まで見送った。

 私たちは互いの別れを泣いて終えた。また会おうという言葉を残して、遥ちゃんは改札の奥へ消えた。その後姿を見送る時に、佳波多くんもこっそり鼻を啜っていた。私は気づかないふりをして、じゃあ行こうか、と彼を連れてタクシーに乗る。

 私の手には今、あの絵がある。降秋さんと共に海辺で描いた絵だ。タイトルは内容の通りの名前をつけた。「彼女が海にとけていく」というそのままのタイトルを。


「羽美ちゃんもこれから忙しくなるね」

「契約社員だからね。いつ切られるか分からない中で自分の絵も描かなくちゃいけないんだから、大変」

「俺も、頑張って勉強しないとな。合間を見つけてどこか遊びに行きたいね」

「デート?」


 些細なからかいのつもりだったが、彼は口を閉じて俯く。恥ずかしそうなその横顔に私は声を上げて笑うと、彼の頭を撫でた。


「いいよ。辛くなったりとか、スランプとか、そういう時の逃げ道にしてもいいから、いつでも連絡しておいで」

「うん、ありがとう」


 照れ臭そうな佳波多くんを見て、私は再びフロント越しに見える景色に目を向ける。どこまでも続く道のり。左右に流れて消えていく景色。やがて窓の外は町並みから海岸線へと変わる。これでここにやってくるのも三度目だ。

 恐らく今回が最後になる。



 タクシーを降りて私たちは海辺に出た。

 かつてイーゼルを置いた砂浜に足を踏み入れ、持ってきた絵画を広げる。額縁にも入っていないその絵が砂で汚れるのも構わず、広げた絵とともに彼の名前を呼んでみた。


「降秋さん」


 返事はなかった。分かっていたことだけど、寂しさは容赦なく私の心に滲んだ。


「羽美ちゃん、行こうか」

「うん」


 絵を丸めて、佳波多くんと更に奥の海岸へ向かう。

 海岸線の一番端の辺りまでたどり着いたところで持ってきたガラスボトルを取り出し、絵を筒状に丸めて中に入れると丁寧に蓋をする。佳波多くんに手伝ってもらい、水がけっして入らないようかなり頑丈に蓋を留めてもらった。

 端の海岸からは、私が絵を描いた砂浜がよく見えた。

 警察や親類の方々に何度も降秋さんの動向について尋ねられたが、私にも答えようがなく、海に捜索も入ったが、結局見つかることなく、彼は奥さんと同じ「行方不明」として扱われることとなった。恐らく二人はもう見つからないだろう。そんな確信があった。


「本当にいいの?」


 佳波多くんが名残惜しそうにボトルを見ている。私も少し悩んだが、「これでいいの」と答え、ボトルを思い切り海に投げ込んだ。

 ボトルは弧を描いて、やがて小さな飛沫と共に海に飲まれて見えなくなった。


「沈んじゃったね」

「きっと、二人のところにいったんだよ」


 ボトルを呑み込んだ海は、変わらず穏やかに波打っている。

 私は大きく伸びをすると、振り向いて佳波多くんに笑いかける。


「じゃあ、帰ろう」

「そうだね、なんだか今日は疲れたよ、どこか美味しいところで食べて帰ろうよ」

「そうやって私にたかるんだから。まあ、いいよ。今日は奢ってあげる」

「やった、じゃあこの辺りの店探してみるね」


 他愛もない話を続けながら私たちは海辺を離れ、乗ってきたタクシーへと向かう。

 帰り際に振り返って、私は誰もいない海を遠く眺めながら、なんとなく小さな声でもう一度私はその名を口にする。


「降秋さん」


 返事はなかった。

 聞こえてくるのは潮騒の音だけ。

 彼らはもう、私たちの知らないところへ行ってしまった。



   完

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