紅顔翁記

津田薪太郎

第一回 李宝燈

 さて、第一回という事ですから、先ずはこの物語の描く題材や、人物について詳らかにしておかねばなりますまい。

 この物語について、作者ーつまり、これのもとの文章を写し取った隣国の人ーは、この様に書いています。

「私が幸いにも機会に恵まれて、自らの書にこの物語を写し取った時、これには数多の欠落があった。特にいついつの話であるとか、何々と云う王朝の時代であるとか、そうした事は悉く抜けてしまっていて、分からないのである。思うに、余りに長い間世に出なかったが故に、散逸して顧みられる事が無かったのだろう」

 つまり、この物語に描かれた事柄について、いつの時代であるとか、何王朝の時代であるとかは全く分からず、従って虚実も分からないと言うのです。

 作者は続けて、

「然しながら、この物語を世に出さずに埋めてしまうというのは、余りにも惜しい事の様に思われる。であるから、私は一先ず仮の元号を空所に付し、王朝の名前は天子の姓をそのまま用いる事にして、読み易い様に舞台を整えた。そして、分かりにくい古語を今風に書き改め、人名などは皆そのままにして、ここに著す事にしたのである」

 この様な訳ですから、この物語を本朝わがくにに紹介するにあたり、私も及ばずながら、難解極まる物語の背景を出来うる限り簡単に噛み砕き、分かり易く読者の皆様にお伝えしようと思うのです。


 李姓の高祖が国を開き、凡そ百五十年が過ぎた、六代目の天子明皇の時代。

 その勢威は、文字通り日が登り沈むまで全ての土地に広がっていました。天子は内に六つの人々を統べ、外には蛮夷が入朝し、他方人々は永遠に続くかと思われる太平と繁栄の春を謳歌していていたのです。

 時に開元二十九年。建国以来の世襲王家である、江夏王の家に女の子が生まれました。

 父親は第六代王の李真永、母親は楊星環。夫妻にとっては最初で、そして最後の子供でした。

 父王真永の祖先、初代江夏王は李朝建国の際に大功を建てた元勲達の筆頭格。その末裔たる王家は代々臣下の最高位たる従一品郡王位の世襲を許された、権門貴顕の最たる家柄です。

 真栄もまた英邁の誉高く、祖先より受け継いだ広大な封地と、そこに住まう百万人以上の民を見事に治め、「武漢の賢王」と世間の人々は大いに徳を慕っていました。

 母である楊夫人は、「楊羞花」と渾名される程の美しい女性でした。無論王の寵愛も大変に厚く、他に側室を持つ事も無く、その誠実さといったら、苦笑混じりに天子からお褒めの言葉を頂戴したくらいです。

 そんな訳でしたから、懐妊がわかった時の喜びは上下を問わず大変に深く、生まれてくる子は後継となる男の子だと信じて疑いませんでした。二人は宝燈という諱と、伯明という字まで用意して、臣下達は王府をあげて祝いの支度を整え、まだ見ぬ王子が生まれてくる日を心待ちにしていたのです。

 とはいっても、先に述べた通り生まれて来た子は女の子です。本来ならば、王女としての称号を賜る筈でした。

 …母である楊夫人が、難産の末に亡くなってしまわなければ。


 それだけ楊夫人を寵愛し、その子を絶対に後継にしたかったという事なのでしょうか。夫人が亡くなった後、父王はその忘れ形見である彼女をーこれからは、彼と呼ぶべきでしょうーを溺愛し、同時に王に相応しくなる様に厳しく育て、実に様々な事を教え込んだのです。

 彼は教えられるまま、或いは自分が欲しがるままに物事を学び、習い、身につけていきました。

 剣や詩文といった基本的な技能はあまり実に成りませんでしたが、その代わり学問や弓馬、管弦といった物事は瞬く間に上達していき、その速さたるや、父王や士大夫達も舌を巻くほどでした。

 その一方で、彼は利発で社交的に育ち、友達になった少年を振り回す様な無茶な振る舞いも多く、王家に仕える者達は手を焼きました。

 王府の屋根に登ろうとしたり、庭園の池の鯉を捕まえようとしたり、厩の馬で逃げ出そうとした事なども、数え上げればキリがありません。

 父王や傅役が何度叱っても改まる事は無く、容姿は如何に似ていても、母親とは別の人間だという事を思い知らされるだけでした。


 兎に角、宝燈は時に自分の身体や心で悩みながらも、愛情深い父親や友人に恵まれて、幸福に育っていたのです。

 元号が改まって少し、天宝十二年。十三歳になった彼が、江夏王の位を継ぐことになるまでは。


 長々と申し訳ありませんでした。いよいよ、物語の始まりです。

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