第9話 はじまり





 はっとして顔を上げると、自宅に向かう道にいた。周囲を見るまでもなく陽は落ちていて夜になっている。ついさっきまで倉田さんの……いや、彼女は救急車で運ばれることは無かった。今もあの部屋に残されたままだ。


 駆けつけた救急隊員は、倉田さんが死んでいると判断した。確か……いくつか質問をされて私が受け答えをしている間で、すでに亡くなった時間まで割り出されていたんだ確か。死後二時間は経っていると言われ、倉田さんと私を放置して彼らは外へ出て行ってしまった。


 それからは……あまりよく思い出せない。警察の人が来た気がする。救急隊員と同じような質問をして来て……そのうちに所長が誰かと来た。何か色々言われた気がする。でも分からない。どう返事をしたのかも。


 着替えているし、バッグもある。

 つまり事務所に一度戻ったのだ。報告書を作成しないといけないから、所長にどこかの段階で帰されて……普段よりだいぶ遅い時間だがこうして家路に着いている。仕事も今日やる分は済ませた。きっとそういうことだ。


 理子に電話をしようとしたが、携帯を持っていないことに気付く。バッグは肩に掛けているから、職場のロッカーに忘れたらしい。いつもの自分では考えられないことだ。大変なことが起こり過ぎたし、無理もない。まあ家はもう目と鼻の先だから、何か買って食べるにしても荷物を降ろしてからの方がいいか。


 理子は夕飯を外で済ませただろうか?

 見れば二階の電気だけ付いている。理子は部屋や玄関のライトは大体点けっぱなしで出てしまうから、それだけじゃ判別がつかない。こんな時間に帰るのは久しぶりだ。中学高校の時でも門限は一度も破ってなかったのにな。……もう私たち姉妹の決まりをあれこれ作った家族はいないけど。


「ただいま……」

「おかえり」


 予想していなかった返事にどきりとする。ちょうど理子もどこかから帰ってきて、靴を脱いでる所だった。ほぼ部屋着な服装だしコンビニにでも行っていたらしい。


「遅くなるって連絡できなくて、ごめん。携帯忘れて来ちゃって」

「知ってた。職場から電話かかって来てたし」

「え? 誰?」

「坂本って人」


 坂本所長か。気を利かせて自宅に連絡を? いや、何か伝えるにしてもメールで済むことだ。そして私がロッカーに携帯を忘れてるなんて、知る由もない。え、なんだ? 報告書の記入ミスとかじゃない。もっと重大な……倉田さん宅での不手際があったってこと? もしそうだったらどうしよう。


「な、何て言ってた?」

「別に。帰るとき机に色々忘れているけど気にしないでって。あんた明日から2連休なんでしょ? 次の出勤日に、朝一で電話だけ欲しいみたいだったけど」

「朝に電話ね。そう……」


 事務所のカギ開け早番じゃないのに電話連絡をしろってことは、つまり勤務して訪問介護ができる精神状態にあるか事前に聞きたいって線かな? 無理そうならしばらく休むか、復帰するまでの短い間介護ローテーションから外れて事務仕事に専念する……たぶんその辺みたい。

 うーん……携帯さえ忘れてなければ、その辺りはメールで詳細を送ってくれる人だし、確実だったのにな。


 理子の口ぶりから携帯かどうかまでは分からないけど、色々忘れている……いつもならありえない。筆記用具とかや資料の片付け忘れをしたことなかったのに。携帯は事務室の机の上に置いたままになってた? 普段事務室に携帯を持ちだすことはない……ああ、救急に電話した時間を書くときに見たのか。着信履歴には残ってるし。 


「ありがとう。理子」

「いいから早くご飯作ってよ」

「え? ……うん。すぐ用意する」


 理子はそのままリビングのソファーに寝転がって携帯を操作しいじり始めた。さっきまで出かけていたのは外食やその買い物では無かったみたい。じゃあお腹空いてるなきっと。私は思わず苦笑して、パパっと作れる献立と冷蔵内の食材を頭に浮かべてエプロンをつける。


 思えばこの時。


 料理を作るという行動が重く沈んだ気分を晴らし、日常を取り戻すきっかけになっていた。そしてその普段の行動が、だんだんと変質していく違和感に……さらには私の命運を分けることになるなんて、私自身の最期を選ぶまで気付かなかった。












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