第9話 大晦日の奇跡

 年の瀬、紅白歌合戦を流しながら長いこと止まったままだった腕時計の電池を交換していた。他の腕時計はみんな質屋に入れてしまって手元に残った唯一のものだった。質屋は動いていない時計は引き取らない。この腕時計は動いていないが故に残されていた。これは喪服に合わせてもおかしくないデザインを選んだ。年内に終わらせたい仕事だった。


(最近はやりの歌もいいもんだな……)と感心しながらも、昭和の人間には年末くらいは演歌をじっくり聴きたいものだなとも思った。


「ワン、ワン、ワン」

「モグ? どうした?何吠えてるの?」

(ピンポ―ン)と1回なった。

「え?なに?こんな時間に……(あ!まさか)」

玄関のドアを開けた。やはり美里が立っていた。

「こんばんは。お久しぶり。モグおいで!」

モグは走って駆け寄り、嬉しくてたまらないといった様子で妻の顔をペロペロ舐めていた。

「食べ物持って来たの。餅、雑煮、冷凍ご飯、そば……あと、下着」

「ありがとう。こんなにたくさん」

「もし食べるものがなくなったらうちにおいでよ」

「あ~うん。わかった」

「下で美園(義妹)が待ってるからもう行くね」

「あ~うん。わかった。気をつけて」

「ありがとう」

下まで降りて美園さんにお礼を言って帰り際に美里に「僕は別れるつもりはないから……」とだけ伝えて、見送った。しばらくそのまま立っていた。外はきんきんに冷えていた。頭の整理がつかないまま寒さでとりあえず部屋に戻った。


「モグ、良かったね。美里に会えて」

「泣きそうよ」

「そうだね」

「なんでこんなバカなことしてるのよ」

「僕が全部悪いんだ……美里に苦労かけてる。申し訳なく思っている」


「美里はあなたなんかと結婚しなければよかったのよ!」


「……そうだね。モグ、ごめんね」


「ごめん。言い過ぎた……」


「ううん。でもね、モグ。……いや、何でもない」


 モグはそれ以上何も言わなかったし、尋ねなかったし、怒った態度も取らなかった。


「僕、おまえと別れるつもりはないから」って僕からのセリフではなかったな。ちょっと舞い上がってたのかな?まあいいか。バカを気にし生きるほど世間は狭くないだろう。

 仕事で有機溶剤を扱っているのでバッサバッサになっている手に動き出した腕時計を付けて、もうそんなに時間は残されていないのを感じさせる年の初まりとなった。








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