三三.無理!

 何か顔に違和感がある。右手で鼻の辺りを撫でると何か柔らかい感触があった。かと思ったらその柔らかい何かが急に動き出す。


「うわっ」


 反射的にそれを払いのける。一体なんだ? とあたりを見回すと、褐色の小さなトカゲが森の落ち葉の上をせこせこと走っていくのを見つけた。


「やあ、おはよう。……トカゲは嫌いかい?」


 どうやらその様子を見ていたらしいリタがそばでクスクスと笑った。


「見てたならどかしてくれよ……。それならもう少し穏やかに目覚められたのに」


「いやぁ、トカゲの乗った君の寝顔はなかなか愉快でね、つい」


「しかしリタの方が早起きなんて珍しいな」


「ここは昼間でもこの暗さだからね。……まあ君が寝ている間に済ませてしまいこともあったし」


「ん、そうなのか?」


「……まあいいや。準備ができ次第、出発しよう。フェルとラヴもすぐ戻ってくるだろう」


「ああ、わかった」


 薄い霧のかかった朝の森は清々しいとまでは言えないが、何か形容しがたい自然のエネルギーのようなものが溢れているように感じる。深呼吸するたびに土と草木の匂いが肺を満たし、寝ぼけた脳をゆるやかに覚醒させる。


 リタの言ったように五分ほどで二人とも戻って来たので、博士からもらった乾パンのような携帯食料を頬張りながら、また森の中を歩いてゆく。地図もコンパスもないこんな状況でも、先頭を行くフェルにはまったく迷うような素振りはない。事実、彼女にははっきりと進むべき方角がわかっているのだろう。しかし一時間ほど進んだ頃、急にフェルが立ち止まった。


「何か……匂うな」


「匂うって、それは……」


「あんたじゃないよ。色んな匂いが混じっててはっきりしないけど……恐らく、死臭だ」


「何か凶暴な魔物がいるかもしれない、ってことかい?」


「可能性は高い。……どうする?」


 自ずと視線はラヴに集まる。相変わらずの無表情だが、今はその瞳に確固たる意志が感じられる。


「時間は限られてる。僕はこのまま進むべきだと思う」


「そうだろうな。ま、今回はリタもいるんだし大丈夫だろ」


「やれやれ、私だよりかい? ……クロもそれでいいかな?」


「ああ、今は多少なら戦えるし、俺も時間が惜しい」


「それじゃ行ってみるか」


 鬼が出るか蛇が出るか。とはいえここは異世界だ、鬼や蛇なんかよりよっぽどおぞましい化け物がいてもおかしくはない。あらためて気を引き締めて、森の奥へと進んでいく。


 鬱蒼とした森は昼間でも暗く、霧も相まって昨日以上に視界が悪い。頼れるのはフェルの耳と鼻、そして各人の魔力感知だけだ。俺も周囲の気配に気を配りながらふと気になったことをラヴに聞く。


「そういえばこの辺にはどんな魔物がいるんだ?」


「肉食の魔物であれば雪狼や毒蛇が多い。後は……」


「きゃあっ!」


 不意に聞こえた悲鳴にとっさに身構える。見ればリタが顔を覆うようにして地面にしゃがみこんでいる。


「どうした!? 大丈夫か?」


「……っ」


「何があった? どこか怪我でも……」


「……クモ」


「え?」


「……クモがいた」


「まさか、毒蜘蛛……!?」


「ああ、そういうことか。驚かせんなよな、まったく」


 呆れた様子でそうつぶやいたフェルも無表情のラヴも、リタを心配するような素振りは特にない。冷静なリタがここまで取り乱しているというのに、なんだか異様な光景だ。


「リタはクモが苦手。……ちなみにここに毒蜘蛛はいない」


「牢にいる時も大変だったんだよ。ちっこいクモが出るたびにぎゃあぎゃあ騒いで、あれじゃうるさくて昼寝もできない」


「それも吸血鬼の特性みたいなことなのか?」


「さあ? 単に嫌いなだけなんじゃないのか?」


「……クモだけはダメなんだ。なんかこう、存在自体が無理……。気持ち悪い……」


「そ、そうか」


 確かにクモが嫌いだという人はそれなりにいるだろうし、それ自体は珍しいことだとは思わない。しかし普段とのギャップというか、結構普通の女の子っぽい一面もあるんだなと妙に感心してしまった。フェルやラヴならクモどころかゴキブリだって素手でつかめそうだが、これは言わない方が良いだろう。


「とにかくもう行くぞ……うわっ!?」


 すると今度は歩き始めたフェルが急に地面に倒れこむ。森を歩きなれているはずのフェルでもそういうことはあるらしい。


「大丈夫か? まさか嫌いな虫がいたとか……」


「あたしは狩人だぞ? 虫なんかにビビってたら……ってそんなことはいい、なんか足に絡まったみたいだ」


「え? なんかって、別に何も……」


 パッと見た感じ、フェルの足には何も絡まっているようには見えない。それに森とは言ってもここは寒冷地だ。ツタのある植物はどこにも生えていない。しかし、だとしたら一体何が……? フェルは必死に足を動かそうとしているが、見えない力でそこに縛り付けられているかのように動けないままでいる。


「……これはまずいかもしれない」


「な……!? ラヴ、どういうことだ?」


「少し離れて」


 言われるがまま数メートルほど後ろに下がる。するとラヴの気配がみるみるうちに強くなっていく。


「お、おいラヴ! 一体何を……」


「雷よ、焼き焦がせ」


「うおぁっ!?」


 放たれた閃光はフェルの足をかすめ、地面の落ち葉や苔を黒く焦がす。一瞬あっけに取られていたフェルだったが、すぐに立ち上がってラヴへと詰め寄った。


「おい! 急になにすんだよ!」


「これが一番効率がいい」


「効率って……あ」


 そこでフェルも自分が歩けるようになっていることに気づいたようだ。今の雷がその見えない何かを焼き払った、ということなんだろうか。


「ラヴ、一体何をしたんだい? ちゃんと説明してくれ」


「絡まっていたのは糸。この森に生息する魔物のもの」


「糸? それってまさか……」


「気を付けて。おそらく今のでこちらの居場所がばれた」


 その時、森の奥の方、霧の向こう側から何かが近づいてくる気配を感じた。今まで感じたものとは違う、異質でまがまがしい気配だ。これが魔物の発する魔力なんだろうか。


「構えろ、来るぞ!」


 霧の中から現れたそれは想像通りの姿をしていた。が、大きさは想像の数倍だ。リタの悲鳴が森の中に響き渡った。


「きゃあぁっ! 無理! ムリ! 絶対無理っ!」

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