第24話 うぎゃあ、悪夢だよお……

 雨。ビルの雑踏。一つだけの黒い傘。肩が触れそうな程近くにあの人がいた。

 二十一年――今から八年前の秋雨。

 僕が情報屋となって、桜刃組に使ってもらえることになってすぐの頃だ。彼に再会できたというだけでもかなり舞い上がっていたが、この日は偶然にもあの日の再現になった。

 というか、再現をした。駅で焔を送りに来た彼を見つけて、半ば強引に傘に入れてもらった。折り畳み傘は用意していたが、無い振りをした。彼は不思議そうにはしていたが、拒否はしなかった。

 思い出と現実を重ねて酔いながら、僕はあの日の事を話した。

「貴方とあの時出会わなければ、僕はきっと壊れ果ててました。辛い日々の終わりなんて想像さえできずに、自分を手放していたでしょう」

 僕はこの時点で自分の汚点を彼が知っていたのは分かっていた。実績がない新人の僕が武器にできるのは縁であり、その縁は醜い過去が無ければ得ていない。安藤巳幸という商品は猥雑な成分を含んでいなければ成り立たない。僕はその成分を愛おしくさえ思う。それがなければ桜刃組に行くことさえできなかったかもしれないから。

「貴方と出会えたから、今の僕がある。ありがとうございます」

 言葉というものがもどかしく思えた。どう言っても感謝の気持ちは伝えきれない気がした。

 彼は目を丸くしていた。柔らかく握った左手を口元にやった。目を伏せて、咀嚼するようにゆっくりと数回瞬いた。眉間に一瞬皺が出来た。

 それから、双眸が僕の目に向けられた。痛々しいほど真っ直ぐな視線が突き刺さった。

「覚えていない」

 瞬間、息が詰まった。再会を果たした時に初対面のような反応だったから、既に分かっていたことではあった。けど、やっぱり悲しかったな。

 この後に救いはあった。彼は僕とのこと以外も忘れていた。会話を重ねていくうちにこちらが危機感を抱かざるを得ない程に、物忘れが激しかった。詳しく言うと、家族が亡くなる以前の記憶が歪に穴だらけだった。最近のことはよく覚えているので、余計際立って感じた。本人に指摘しても手慣れた感じで誤魔化された。あまりに違和感が凄いので、時也さんに一度尋ねた。そしたら、時也さんはあっさりと教えてくれた。

「病気だよ。病院連れ込んだらナンタラ性ウンタラカンタラ障害とか言われるレベルだよ。知らないけどさ。物心ついた頃からの長い付き合いの病気だから、本人も周囲も慣れてるんだよ。最近治まっているのがおかしく感じるくらいだ。おかげで、少し話するくらいじゃ分からないし。巳幸君は知った以上」

 軽く額を叩かれた上に、顔を指さされた。

「隠すの手伝うんだね。このことは口外しちゃいけないから。僕と猪沢と焔君、兎良島武瑠、息子の溟瑠、白金会会長と翠子ちゃん……あと兎良島武瑠によくくっついてくる三馬鹿の……一番上の奴、ものじょうしか知らない。あ、死に損ないの蛇蔵高忍へびくらたかのぶもだ。そいつらだけだ。ちゃんと頭に入れな」

 デコピンされた。呻いちゃう程度には痛い。加減してほしかった。

 時也さんは両腕を上げて伸びをした。

「あー、楽になる。早く気づけよ」

 両腕を落としたと思うと、ぐるぐると肩を回した。

「巳幸君ならフォローに向いてるんだよな。突然変なこと言い出しても許されるキチガイお喋りキャラだから。覚えていないって言わせる前に聞いても無い事下品に喋れよ。情報量で殴っていけよ」

 半笑いで言われてむかついた。結局、その言葉通りの動きをすることになった、でも、言い方ってものがあるよね。

 そんな役割さえまだ無かった僕は、大切な思い出が彼の中には無いということにただ打ちひしがれた。返事はできなかったけれど、顔に強く出てしまっていたのだと思う。彼は小さく言った。

「ごめんね……」

 くぐもった声の調子で悔やんでいることが分かった。彼は傘を持ち直した。

 不思議な心地がした。持続する悲しさと、思いやりがあった嬉しさでぐちゃぐちゃになった。抱きつきたい衝動に駆られた。何とか喋りながら制御した。

「まあ、兎にも角にもですね、こういう理由がありますから、僕は」

 出まかせに近い形で本音を出すことになった。

「在さんを、傷付けません」

 在さんはきょとんとして瞬いた。それから、首を傾げた。そう、と相槌が一応は返ってきた。どうしてそういう話になるの、と続いた。

 突っ走って臭いことを言ってしまったってその時点で分かったから、恥ずかしくなった。もごもごするしかなかった。

 こういうことがあったからさ、驚いたんだよね。

「安藤さんは在を傷付けない」

 創ちゃんの口からそう出た時はさ。

 彼女は、在さんと別れた原因を告げた。

 ――末森甘夢という死者が、八年前という遠い地点から茨を伸ばして、在さんに絡みついて来る。

 だいたいそんな話だった。話とも言い難い。ポエムに近い。後から調べて漸く意味が分かった。

 当時の僕は当然のことながら混乱した。なのに、彼女は突飛な事を言い出した。

「貴方は在に好意を抱いていますよね。遠くから見守っているような優しい好意」

 彼女の言っていることは間違いじゃない。でも、不快感があった。あの時の思い出と共に、一人で静かに抱きしめていたかった感情だから。

 わざと話を下世話な方向に持っていくことにした。常套手段だ。

「そりゃあ、僕は自分より背の高い男が好きだからね。性的な視線はついに向けちゃうの」

 創ちゃんは動じなかった。というか、無視して自分のリズムを続けた。

「私は……私と焔は駄目なんです。ただ、寄り添うことしかできない」

 逃げられない。居心地の悪さを感じながら、まともに返事することにした。

「奏君は? 時間経って説得したら君に協力してくれるんじゃない?」

「……どうしてか、心から彼に賛同しているようで」

 よく分からない子だ。いや、この点については分からなくもない。傷の舐め合いなんだろう。そんな負の感情がきっかけで在さんに懐かれ懐き続けているのは分からないけどさ。

「貴方は私達とは違う」

 創ちゃんが深く首を下げた。黒髪がテーブルを舐めた。

「在を、助けてください」

 目の前が突然真っ暗になった。

 黒い傘が広げられていたのだと気付いた。傘が折り畳まれていったから。

 傘が投げ捨てられる。灰色のコンクリートの荒れた床が目についた。僕はこの床を知っている。桜刃組の人間以外は見ないことにしている倉庫――不都合を処理する為の場所だ。

 おそるおそる視線を上げる。

 聳え立つビルの廃墟。倉庫と役割が同じ別の場所。

 場所の指定が上手くいっていないのだ、ということに集中しようとする。でも、目は視界の中心にいる人に向かってしまう。

 そこには在さんがいた。

 スーツのジャケットは脱いでいて、ベスト姿だった。腰の右側に下がっている革の鞘に包まれた剣鉈が目立った。これからの展開の予測が確固たるものになっていく。

「言いたいことはもう無いの?」

 恐怖で体の全てが強張って動かせない。

 普段なら、味方の立場でいるなら、在さんは僕のこの悪い癖を庇ってくれる。代わりに話してくれるとか、解すように肩を撫でてくれるとか。でも、今は違う。

 双眸は冷たい光を宿して、僕を眺めている。

「話すの、嫌いになってしまったの?」

 大好きな甘い声が今は吐き気を促してくる。逃げようとしたが、腰が抜けて座り込んだだけだった。

 彼の左手が鞘のボタンを外した。時間切れだ。

 目覚めろ。覚醒しろ。瞼を開けろ。現実に戻れ。起床しろ。必死に祈るけど、叶わなかった。

 彼の左手が流れるような手つきで鉈を引き出した。刃が鈍く反射した。

 情けない悲鳴が自分の喉から出た。

 彼の右手が鉈の柄を包む。切っ先が持ち上がっていく。

「こうなると分かっていたんでしょう?」

 銀色が煌めいた。痛みとも熱とも取れない感触が首を走る。

 場面が切り替わる。僕の寝室の天井。

 目が覚めたと分かって、涙が出た。夢から持ち帰っちゃった嫌な感覚を消す為に、わざと泣き声を上げる。煩いとばかりにアラームが対抗してきた。

 仕方ないから起きて、支度した。

 車に乗っても嫌な感じは消えなかった。諦めて向き合うことにした。

 僕が深く介入すれば、殺されるだろう。

 つまり、準備をしなきゃならない。必要な人に別れを告げて、人に迷惑かけそうなものは全て処分して、見られたくないものも処分して、出来るだけ資産は綺麗にしよう。最後は先生に頼む。理性的に始末してくれるだろう。変なものを取りこぼしていても安心だ。よし、簡単だね。そんな訳ないじゃないか。

 悲観的な頭を戻す。

 僕が介入したと分からなければいいんだ、要は。多分今の段階で察知していることは気付かれている気がするけど。見てただけというラインを越えなければ大丈夫だ。ソフィアちゃんに全部背負ってもらっちゃえ。無理かな。彼女も僕も器用な方ではないもんね。何だあ、詰んでるじゃん。最悪!

 思考を切り替えよう。

 カーステレオをオンにしたら、入れっぱなしにしていたCDが鳴った。演奏を依頼されている曲だ。聞く気になる訳が無い。きった途端、首が切られる感触を思い出した。反射的にまた曲を流しちゃった。我慢して聞こう。中盤辺りに難しい部分があって、脳内で弾きながらむしゃくしゃした。バイオリンが未だに好きじゃないので、シンプルに苦痛だ。

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