金魚、スライディングする

 私は、誰かが手助けを必要としていれば、見境なく走って行ける人間になりたかった。

 そして、今は多分、そのような人間に少しは近付けたと思っている。加えて、介護タクシーで経験を積み、介護福祉士の資格も取得し、日々そのような業務にたずさわっていれば、職業病は日常的な習性へと転化するということも判ってきた、今日この頃である。


 事が起こったのは、本日の自分の担当の利用者さんを、病院に迎えに行った時のことだ。

 そこは大きな総合病院で、タクシー・福祉車両のみならず、御家族の付き添いの一般車両も多いロータリーだった。毎回のことだが、私の第一任務は自分の担当利用者さんを素早く見付け、車中に確保&安全を計ることである。

 けれども、その過程で見てしまったのだ。迎えに来た家族の車の助手席に乗ろうとして、中途半端に体勢を崩し掛けている御夫人を……。

 されど、第一任務はあくまでも第一任務───私は自分が迎えに来た方と合流済みだったので、車中に安全に保護した上で言った。

「えっと、五分と掛からず終わることなので、すこ~しだけお待ちいただけますか?」

 気心が知れた仲でもあり、利用者さんは快く承諾しょうだくしてくれた。

 そして、金魚は走った。加えて、スライディングした。車から落ちそうになっている御夫人のお尻の下へと。

 そうはいっても、別に落ちてしまった時のクッションになろうとして、スライディングをしたわけではない。

 自力で自らの体を支えられない人の体を支えるというのは、そうそう簡単なことではないのだ。特に成人となれば、体重は四十kg~九十kg前後と、振り幅はかなり大きい。それを力だけで支えようとすれば、支える方も支えられる方も、まず間違いなく只ならぬことになってしまう。

 それ故に、介護に携わる者には、ボディ・メカニックスという知識とテクニックが存在するのだ。つまり簡単に言えば、人間の関節は曲がる方には曲がるし、曲がらない方には全く曲がることはない。そして、介助される方自身の体重移動を利用すれば、わりと思う方に簡単に動かせるというものだ。この技を使えばオバサンの私でも、二十歳も年下の男性を、背中越しに担ぎ上げることも出来る。

 そんなこんなで、私は御夫人の下に入り込み、車から落ちかけたお尻を自分の膝で支えた。おおむね、九十度角にキープした膝に座っていただけたら、かなり体重が重い方でもそうそう落とす事はない。何しろ、こちらは全く力を使っていないのだから。

「突然失礼します。もう大丈夫ですよ。絶対落ちないようにしましたから、まずは落ち着いて、体の力を抜いて深呼吸してください」

 実は、力を抜いて欲しいのは私の方である。介助されることを怖がって抵抗されると、介助する側の難易度が数段増すからだ。

「落ち着きましたか? では補助しますので、一旦真っ直ぐ立ちましょう」

 そこからはいつもの慣れた流れで、無事助手席に座っていただくことが出来た。勿論、安全を確保することが第一目標なのだが、重要なのはここからなのだ。

 同行していたのは娘さんで、乗っていた車はBMWのセダンタイプ。このセダンタイプというのが意外と難物で、補助を必要とする人が乗り降りするには、車高が低く、ドアの開閉幅が狭い。しかも、お母さまと思われる御夫人は、右足に装具を付けていた。装具というのは、力が入らない部分を支える外側の骨格オプションのようなもので、まず曲げることが出来ない。今回は何とかなったものの、装具がある右半身から助手席に自力で座ることには、元から無理があるのだ。けれど、これは介助初心者には判らないことだ。

 そんなわけで老婆心ろうばしんながら、突然乱入した金魚に、目を白黒させている娘さんに一つ二つの助言を。

 装具を使用している方の場合、装具を付けていない側から乗る方が簡単なこと。コツとしては、まずお尻をシートの上に乗せ、装具を付けていない足を車中に引き込み、お尻でずり下がる形で曲げられない足を伸ばしたまま車中に引き込むようにすれば、御夫人が自力で車に乗れることを伝えた。

 幸い、その時の娘さんは私の話を素直に聞いてくださったので、次からは上手くやってくれるだろう。


 かくいう私は、続けて何かを言おうとしている娘さんに、「自分の患者さんを待たせていますから」と述べて逃げた。

 魚類は、素早く逃げてなんぼなのだ。

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