第28話 別れの時

〝お前の存在は可能性そのものだ。……のぞみ。あとは自らの意思に従えばよい〟


〝マスター……〟

 

 マスターとの別れの時が迫っていた。

 この別れは永遠の別離となることを希は直感していた。

 お互いに生きた時代も世界も異なる二つの存在。その唯一の接点である「獅子の泉」で修行した日々。それはきっと現実世界ではほんのつかの間の出来事。希は圧縮された時間を展開してその一瞬を拡張して知覚したに過ぎない。

 そう考えるとふと希の目から涙が溢れ出てきた。目が覚めてもマスターのことだけは忘れない。そしてこの日々のことは記憶に留め続けていたい。


〝悲しむことはない。私は何者でもなく、何者でもあり、そして常に在る〟

 

 まるで希の全てを見透かしているかのようにマスターはそう言った。

 それがマスターの別れの言葉だった。


 **** * *  *  *   *


 カーテンの隙間から漏れた朝の陽の光が希の寝顔を優しく照らす。

 

 時計は朝の五時二分を示している。希は目を覚ますと、カーテンと窓を開けて日光を浴びる。セロトニンが分泌され心が落ち着いてくる。

 

(私はのぞみ。そう、神劔みつるぎのぞみだ)


 今のこの世界が自分にとっての現実世界であることを確認すると少し安堵した。

 窓を閉めて顔を洗いに洗面所に向かうと、ちょうど母と入れ違いになった。


「おはよう、お母さん」


「おはよう、希。テーブルの上に朝食用意してあるから食べてちょうだい」


「ありがとう」

 

 母はそのまま自室に戻っていった。

 また新しい翻訳の仕事が入ったのだろうか。希は母が用意してくれた朝食を食べるとシャワーを浴びて身支度を整えた。


(今日は一限から講義があるんだった)


 希は少し時間は早いが先に理1号館に行って、あとはそれから考えようと思った。


 大江戸線に乗って本郷三丁目に向かっていると、一件のメールが届いた。

 日下部くさかべ先生からだった。


〈昨日の件ですが、希さんさえよろしければ柴岡教授にもお話しておきました〉


 希はメールを読んで日下部先生に自分を研究対象にして欲しいと依頼していたことを思い出した。やはり夢や精神世界で過ごす時間が長くなるほど、現実世界での記憶の保持に悪影響がありそうだ。昨日のセッションが遠い昔のことのように感じられる。希は自分の記憶を外部に記録しておく必要性を痛切に感じた。ナギの世界との齟齬そごも客観視できるかも知れない。

 希はこの日から現実世界で起きた出来事、精神世界で体験した出来事を余すことなく記録するために日記をつけることにした。

 

 最初の数ページはマスターと精神操術マインドクラフトに関する記述で埋め尽くされた。

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