月と太陽1②

「ただいま」

「お、おかえり渚」

 とっさにパソコンの画面を伏せる。

「姉ちゃん、ちょっと場所変わって」

 靴も鞄も放ったらかしに、制服姿のまま駆け寄ってくる渚。

「このところ帰るとすぐそれね。いいけど、ちゃんとあのへんも片付けておいてね。あと手洗いとうがいと、着替えも先に」

「はいはい、姉ちゃんは真面目だなぁ」

 すらりと筋の伸びた足首が、フローリングを滑っていく。桃子にはそれが、誇り高く健やかな春の象徴に見えた。

 あの子だけは絶対に守らねばならない。犯罪組織の魔の手どころか、その爪先にだって触れさせない。家族ためなら何でもする。どんな代償だって甘じよう。今の自分が正しいとは甚だ思わないけれど、手遅れにだけは、もうさせないから。

 無垢な視線のないうちに、桃子がパソコンごと部屋の隅に移動する。ほどなく渚も戻ってきて、天井近くにあるネットに繋がる機材のご機嫌をうかがいはじめた。

「やっと繋がった」

 渚がスマホを操作しながら、食卓の椅子を引く。短い通知音が鳴ると、すぐさま熱心に返信を打ち込みはじめた。

 再度パソコンを開く。そして、見つけた。

 セレクトショップ・ブランカの事件。よく事務所に撮影衣装を貸し出してくれたそこは、実はキメラの子会社であった。加えて先日、偽ブランド品販売の疑いで密かに起訴されている。

 途端、鮮烈に思い出す。

 ちょうどその頃、事務所が偽物の衣装を掴まされるというトラブルが起きた。その服は、撮影の前日になって澪が私に取り寄せるよう指示したもので、当日多くの業界人の目に触れたことで発覚した。

 偶然にも、いや、緻密な計画と正義を持って、澪はキメラの犯罪を暴いた。

 そう、彼女はずっと、キメラと戦っていた。

 ティーン雑誌大手の千鳥出版。その営業担当が、ここ最近で二度も交代している。当初はキメラ組織員、前任をリストラして無関係の社員をあてがい、それがまた別の組織員に塗り替えられる。組織員の在任中にはいつも、同社ゴシップ誌編集部に、名目が曖昧な大金が流れていた。キメラの犯罪を報道させないための、いわゆる口止め料だろうか。采配したのは澪と、そして土方崇常務。まさか、彼がキメラ総帥に返り咲いている……?

 そこで気が付く。土方常務とは度々顔を合わせていながら、一度も話したことはなかった。それはたぶん、難癖つけて澪が私を社長室から追い出した後、廊下で入れ違いになることが多いから。時々とんでもなく遠くに遣わされる時だってそうだ。澪は意図的に、私が側にいない時間を作る。彼女はその空白で何をしてきたのだろう。いくらでも悪い方向に、そして良い方向にも考えられた。

 目を閉じて、一つ深く息を吸う桃子。それからメールを消去し、USBメモリを抜き、パソコンの電源を落とす。それだけの時間で、答えは出た。

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