2-8 狂愛

「二階へは立ち入り禁止と、最初にお客さまにお伝えしたはずなのですけれどもね」

 それはたしかに昼間聞いているのと同じ時子の声だった。しずかな気品を纏った愛想の良い口調も、崩れることなくそのままだ。そのはずなのに、安には怨霊の声よりも人ならざるものの発する音に聞こえた。

 人ならざるものとは別の、殺意や敵意。実体的な怖気がした。

「すいません、道に迷って」

 前もって考えていた苦し紛れの言い訳は、滑稽な間を残しただけだった。

「すぐ部屋戻りますんで」

「鬼妃を見ましたんでしょ」

「……」

 間髪入れず、冷徹に追及される。言い逃れができないのなら、こちらからも物申したいことがあった。

「こんなことは、人権侵害です。虐待だ」

「家のきまりごとです」

「とっくにその域を超えてんだろ」

「私はあの子にすべてを与えてきました。あの子が少しでも、末永く、すこやかでいられるように、つねに見守っています。私の持ちうるすべての愛情を注いでいます。虐待だなどと」

 時子の品の良い口調が、毒を含んで吐き捨てる。

「あなたもご自分のお家の事情、よそさまにとやかく口出しされたくないでしょう」

 安は顔を引き攣らせた。

「一緒にするな——」

「私らは、あの子なしには生きられへんのです」

 淡々とした声だったが、うっすらと憂いを帯びた。そのわずかな動揺で、時子もやはり人間なのだと思い出す。

 説き伏せることができるのではないかと一瞬、考えた。すかさず、責めるように問うた。

「こんなこと知ったら村の奴らだって黙ってねぇぞ」

「知らんほうが少ないんですよ」

 山村の閉鎖社会の情報共有とその機密性。少し前までは珍しいものではなかった。けれども現代まで、それもこんな奇怪な因習が、これほど根深く残っている地域があるとは。

「幼い頃の友達は、大半が知らされずに遠く離れます。だから彼女には未練もない。懐かしい、美しい思い出だけが残ります。いまもときどき会いにきてくれはりますし」

 前野亜瑚のことを話していたときにかいま見た、知景のあきらめを含んだ寂しげな笑顔を思い出す。あれを見てどうして未練がないなどと言えるのだろうか。

「怨霊なんて馬鹿げてる。そんなものに振り回されている奴らも」

「若いひとにはわかりますまい。でもね。この家には脈々と受け継がれてきた伝統と歴史があるんです。舘座鬼家の血は多くの村人にすこしずつ流れて継承されております。良いものも、悪いものも。もう容易に取り除けるようなものではないのですよ」

「ずっと怯えて暮らすつもりか」

 言いながら、自分の詰問にさほど意味がないことに気づき始めていた。すでに鬼妃の怨霊の存在を感じ取っていた安の言葉には、さほど説得力がなかった。悪態をつきながらも、なんとか知景を解放する方法を考えていたのだが。

「どの道いつか、近いうち滅びるぞ、おまえら」

「黙ってくださいますか」

 ぞくりとするほど冷たい声が耳朶を打った。

「四百年近く、村のみなで鬼妃の秘密を守り通してきました。自分らの身近なひとを守るため。家族を愛しているからこそ」

「おまえは自分の娘を愛していない。おまえは……恐れているだけだ」

「私は——」

 時子の声が上ずり、ふたたび揺らぎをみせたように聞こえた。しかし深い呼吸があったあとに続いた言葉は、より超然と、しずかな狂気に満ちていた。

「私らからあの子を奪おうとお思いなんでしたら、申し訳ございませんけど、こちらも容赦はいたしません」

 時子の意志はかたくなで、この暗闇のあいだには理解し難い断絶があった。脳内で警鐘が鳴っていた。部外者が安易に関わるものではない。しかし気付くにはもう遅かった。

「呼び込んでしもた毒虫は、潰して洗い流さなね」

 時子の目が暗闇の中で鈍く光っていた。その手に握られた刃も同じく。

 明確な身の危険が感じられた。

 村ぐるみで鬼妃を守り通す。村民は皆、時子の味方だ。口裏を合わせて証拠隠滅ぐらいのことは、わけなくしそうだ。なんならヒト殺しだって、頼まれればやってのける者もいるかもしれない。

 一歩下がって距離をとる。

 自分がゴミ同然の人間だと自覚しているとはいえ、いまここで無駄に命を捨てる覚悟は安にはなかった。

 拳を解く。変形して、もう元に戻りそうにないほど腫れ上がった右手をかざす。

「これが、知景の答えだ。鬼妃がここにいることを選んだ。俺を拒否した。俺はおまえらからなにも奪わない。……なにも見なかったし、聞かなかった」


 が、それで納得されるはずもなく。


「ごめんなさいねぇ、お客さま」


 哀れな動物を慈しむような声を、時子は最後に安にかけた。


 暗闇でなにかが蠢く気配があった。

 怨霊の気配を一瞬錯覚したが、それは人間の息づかいだった。


 そこからあとのことはよく覚えていない。背後へ引き摺りこまれるような感覚があって、一瞬で気を失っていたのだ。気がついたら山中に、半分土に埋まった状態で倒れていた。

 要するに、遺棄されていたのだ。

 あのとき二階の廊下に潜んでいたのは時子独りではなかったらしい。

 実に用意周到だ。

 もしかしたら、こういったいざというときのは常習的におこなわれていたのかもしれない。

 真っ白な霧が出ていて、前も後ろもほとんどわからなかった。朦朧としながら麓の道までたどり着けたのは、単に運が良かっただけだと思う。


 あの民宿で目の当たりにしたことすべては、あまりにも奇怪で陰惨で、常軌を逸していた。もしかしたら現実ではなかったのではないかとさえ考えた。

 悪い夢。むしろそうであればいい。


 ただ、右手にはたしかに痛みが残っていた。

 この指だけは、知景の流した透明な涙の温度を覚えている。


 ――肉体が滅び、魂だけの存在になったとき、私も『鬼妃』になる。


 知景はそう話していた。


 彼女はいま、どこにいるのだろうか。


 *


 起床して、洗面所に顔を洗いに行くのも、身体が重くて一苦労だった。

 ふらつく頭に視界は大きくたわむ。

 脚をもつれさせながら、やっとのことで、鏡の前に立つ。

 鏡に映る、ぼさぼさ頭の自分に目を向けて、亜瑚は息を呑んだ。


 亜瑚のすぐ背後に、歩数にして一歩の距離に、それは立っていた。


 いびつなかたちの頭。鬱血して紫色になった皮膚。そのほとんどが長い髪に隠れている。


 ちぃちゃん……。


 半開きの口から、ぼろぼろになった歯が飛び出しているのが見える。いがんだ下顎が、ぐらついて動く。なにかを伝えようとしているのだろうか。


 足の震えが止まらない。


 大丈夫、ちぃちゃんは私の味方だ。

 無惨な姿になってしまったけれど、いまも鬼妃から私を守ってくれているのだ。

 怖がらなくて大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 浅い呼吸を繰り返しながら、亜瑚はゆっくりと後ろを振り返る……。


 ――インターホンが鳴った。


 悲鳴とともに飛び起きて、洗面台へ向かったのが夢のなかでの行動だったことに気づく。

 全力疾走をしたあとのように呼吸が荒い。背中にびっしょりと汗をかいていた。

 毎日のようにこんな夢を見る。

 毎回現実との区別がつかない。

 もしかしたら何度かは現実だったかもしれない。

 つねになにかに見られてるような気がする。知景か、鬼妃か、あるいはその両方だろうか。わからないけれど、遠くからも近くからも、じっとりとした視線を感じる。

 亜瑚が息を落ち着かせているあいだに、もう一度、エントランスのほうでインターホンが鳴らされる。

 あわてて布団を這い出して、テレビドアホンのモニターを確認する。応答のボタンを押そうとしていた手が、ぴたりと静止した。

 モニターにうつっていた人物は、風花だった。

 頭が痛いのでしばらく実家にいると伝えてから、よく考えたらもう十日になる。大学は休み続け、バイトもいつしか連絡を入れずに欠勤し、養成所にも行っていない。

 そんな状態を訝しんで、様子を見に来てくれたのだろう。

 就活のときはきっちりとポニーテールに縛り上げている髪をは下ろして緩く巻き、私服姿で、お馴染みのカジュアルブランドのトートバッグを肩から下げている。大学の帰りに寄ってくれたのだと思う。

 応答したい気持ちをおさえて、しばらく様子をうかがう。不安げな表情の風花は、すこしきょろきょろと周囲を見回すような仕草をしてから、やがてくるりと踵を返した。


 寂しさか安堵か、なんなのかわからないけれど、長く深いため息が口をついて出た。


 薄暗い部屋に、午後の日差しがまぶしくさしこんでくる。カーテンの隙間から、そっと外をのぞくと、足早に立ち去る風花の後ろ姿が見えた。

 ほんとうは風花に全部話を聞いてもらいたかった。でもそれはできない。絶対巻き込んではいけない。さっきも必死に自制した。

 そもそも、言っても信じてもらえないに決まっている。


 LINEの通知が来たらしく、スマホの画面が明るくなった。

 風花だろうかと思ってメッセージを覗く。


 すると。


【お父さん起きたよ!!! せれな】


 という一文が目に飛び込んできて、一気に意識が覚醒した。

 意識不明のまま一週間が過ぎようとしていたのだ。

 正直もう、あきらめかけていた。


 安堵の涙が、頬を伝った。


 ちぃちゃん、さっきは夢で、一兄が目を覚ましたことを、伝えに来てくれたんだね。


 きっとそうだ……。


 気が抜けたように、ベッドの上に倒れ込む。

 再びうとうととし始めた矢先、けたたましい着信音が部屋に鳴り響いた。


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