第37話 何で……君なんだ

 どれくらいそうしていたのだろう。

 窓の下、石壁に背を預ける形で座り込んでいたフィオナは、扉の向こうに人の気配を感じて立ち上がった。


 ルルが無事にヴィクトールを連れて来てくれたのか。それともセレグレスが戻ってきたのか。期待と不安の入り混じる視線の先、扉を開けて入ってきたのは全く予想もしていなかった人物だった。


「あなたは……」

「フィオナさん! 無事ですか!?」


 そう言って駆け寄ってきたのはくれないの騎士服を着た短髪の青年――ジェイスだった。


「ジェイス、さん?」


 くれないの三番隊副隊長。セレグレスの部下である彼に警戒するのは当然で、フィオナは無意識にジェイスから距離を取って後退した。助けに来てくれたようだが、彼が敵か味方かわからない。味方だと思っていたセレグレスでさえ敵だったのだ。

 フィオナが無条件で信じられるのは、もうヴィクトールしかいなかった。


「セレグレスが妙な動きをしていたから後をつけてきたんだが、まさか隣国と通じていたとは……」


 窓から伺うように外を見たジェイスに釣られてフィオナも顔をのぞかせると、塔の下に黒いローブを纏った人物が三人いるのが確認できた。フードをすっぽり被っているので顔までは見えない。けれど妖しげな空気はフィオナのところまでひしひしと感じられ、彼らが隣国の手の者だということは言われなくてもわかった。


「塔の出入り口は奴らに塞がれている。俺だけなら気付かれずに行けるが、君と一緒だと見つかる可能性が高い。だから君はこれを飲んで逃げるんだ」


 有無を言わさず渡されたのは、何かの液体が入った緑色の小瓶だ。


「これは……?」

「リグレスの城へ戻れる魔法薬だ。念のため、しろがねに作ってもらっていてよかった。転送魔法のネックレスはセレグレスに奪われたんだろう?」

「どうしてそれを」

「君が大人しくここに残っているからね。子竜はどこにいる? 奴らに気付かれる前に、早く一緒に逃げて」

「ルルは……ヴィクトールさんを呼びに」

「えっ!?」


 ジェイスがあまりにも大げさに驚くので、フィオナは何かいけないことでもしたのかと不安が更に大きくなる。ルルをひとりで行かせたのは間違いだったのかもしれない。もしかしたら、ルルは既に敵の手に落ちているのかも……。

 悪い考えが頭をよぎり、フィオナの顔から血の気が失せる。縋るようにジェイスを見ればなぜかフィオナよりも青ざめた顔をしていて、焦点の定まらない視線を窓の外へ向けているようだった。


「ジェイスさん?」

「君が子竜を手放すのは想定外だ。……こうなったら君だけでも……」


 窓の外からフィオナへ戻したジェイスの瞳に、先ほどとは違う鋭い光が見え隠れした。その危うい視線に、フィオナがまた後ずさる。けれども背後に逃げ場などなく、フィオナの背中は冷たい石壁に突き当たってしまった。


「フィオナさん。先に君だけでも逃げるんだ。子竜はあとで俺が見つけるから」

「で、でも……」

「早く薬を飲んで」

「わたっ、わたし……ここでルルとヴィクトールさんを待ちます」

「いいからさっさと飲めっ!」

「……っ!」


 突然の豹変にフィオナの体が大きく震えた。声が喉の奥で詰まり、それは呼吸さえもせき止めてしまう。恐怖に怯えた空色の瞳に映るのは、苛立ちを隠しもせずにフィオナを睨み付けるジェイスの姿だった。

 その視線に感じるのは、ただただ激しい憎悪だ。あまりに強すぎる怒気に当てられて、フィオナはまるで金縛りになったかのように体の自由を奪われる。辛うじて動く唇が彼の名を呼べば、それすら不快だと示すように唾を吐く。


「何で……君なんだ。何の力もない女が、何で幻竜に選ばれる!?」


 抑えきれない憎しみと一緒に、ジェイスが吐露したのは嫉妬だ。

 まぼろしと言われる貴重な幻竜。普通の竜でさえ認められるのはごくわずかだと言うのに、幻竜と絆を結んだのは何の訓練もしていないただの町娘だったフィオナだ。

 竜騎士を目指す者なら当然フィオナのことをよく思わない者はいるだろう。けれど蒼の皆は誰もが優しかったし、それにジェイスはくれないの騎士だ。竜とは関係のなさそうな彼が自分に向ける憎悪の理由が何なのか、フィオナにはまだわからなかった。


「竜騎士を望むものが弾かれて、自分の身も守れない君が竜に選ばれるのは不公平だと思わないか? 俺だって……なりたくて騎士になったわけじゃないっ。竜が選んでくれれば俺だって……!」


 あぁ、とフィオナは息をこぼした。

 ジェイスは竜騎士に憧れて、ずっと訓練してきたに違いない。それでも竜に選ばれず、憧れを捨てきれないまま紅の騎士へ転向した。そこへいきなり、何の変哲もないフィオナがルルと絆を結んで現れたのだ。当然ジェイスの心は穏やかではなかっただろう。

 その嫉妬がどういう風に膨らんで、ここまでの凶行に及んだのかはフィオナにはわからない。ただ彼を知らずと苦しめていたことに、かすかな胸の痛みを感じてしまった。


くれないに転向したものの、上にセレグレスがいるなら結局そこでも副隊長止まりだ。竜騎士にもなれず、騎士でも上を目指せない。……なら、道を変えるしかないだろう」

「……エイフォンで、竜騎士に……なれるんですか?」

「エイフォンの竜騎士に絆は必要ないからね。魔法薬で竜の自我を抑え込んでいる。竜卵を密猟した奴らですら乗れるんだ。君と幻竜をエイフォンに引き渡したら、俺は幻竜の竜騎士の地位を約束されている。だから……」


 すっとジェイスの手が伸びて、フィオナは強い力で腕を掴まれた。手に持っていた緑色の小瓶を奪われ、強引にそれを飲ませようとしてくる。


「……っ、いや!」

「これは竜に飲ませるのと同じ魔法薬さ。エイフォンでは何をされるか分からないから、今のうちに自我を失っていた方が君のためだよ。安心して。あとであの子竜も必ず連れてくる」

「いやですっ。絶対に飲みません!」

「助けを待っても誰も来ないぞ。向こうはエイフォンの軍勢で手一杯だ」

「そんなことない! きっとヴィクトールさんがすぐに来てくれる……っ」

「――あぁ、すみません。来たのは僕でした」


 どこからか、飄々とした声が聞こえた。その瞬間、耳を突く轟音と共に部屋の天井が上空に吹き飛んだ。瓦礫は青い空を舞い、小さな破片だけがパラパラと部屋に降り注ぐ。一気に明るくなった部屋の中、陽光を反射した金髪がきらりと光った。


「セレグレス……っ」

「いやぁ、見事に全部暴露してくれてありがとうございます、ジェイス。なかなか証拠が手に入らなかったんですが、ようやく言質げんちも取れましたし、大人しく捕まり逝きましょうか」


 緊迫した場の空気をものともせず、いつもの調子で薄く笑みすら浮かべたセレグレスがいた剣をすっと抜いた。柔らかい笑顔なのにジェイスを見据える紅い瞳は凍えるほどに冷たく、視線を向けられていないフィオナでさえ背筋がぞくりと震えてしまう。


「……いつからそこにっ」

「ずっとですよ? あなたがフィオナさんを攫おうとしていたので先に拝借しましたが、さすがにいい餌……いえ囮になりました。おかげであなたを、捕らえることができる」

「くそっ!」


 フィオナを掴んだまま逃げようとするジェイスの行く手に、セレグレスの剣から放たれた炎が落ちる。物を燃やすのではなく、空間を燃やしている魔法の炎だ。けれど触れれば熱く、炎の壁となったその先に進むことはできない。

 セレグレスの魔法攻撃で天井が吹き飛んだため、四方すべてが出口といえばそうなのだが、この高さで飛び降りるのは自殺行為だ。下に控えていたエイフォンの使者が来ないことをみれば、どうやら下にも紅の騎士が配置されているのだろう。

 ジェイスにはもう手立てがない。それはフィオナにも分かるのに、彼はそれでもフィオナの手を離すことはなかった。


「くそっ、くそっ! あと少しだったのに……。この女を連れて行きさえすれば、子竜などどうとでも」

「本当にあなたは諦めが悪いですね」


 呆れたように、セレグレスが溜息をついて嘲笑した。


「竜が見えるから竜騎士を諦めきれない。フィオナさんがいるから、愚かな望みに縋ろうとしている。……なら、フィオナさんがいなくなれば、あなたも諦めがつきますね」

「何だと?」

「そういうことですので。すみません、フィオナさん。ちょっとここから飛び降りてくれますか?」

「……えっ!?」


 いきなり話を振られたことよりも、その内容にびっくりしてしまう。驚いたのはフィオナだけではなかったようで、あっという間に距離を縮めたセレグレスにジェイスも反応ができていない。そのまま流れるような動作でフィオナがセレグレスに引き寄せられても、ジェイスは暫く呆然とその成り行きを見つめていた。


「ちょっ……と、セレグレスさん? あの冗談ですよね?」

「冗談に見えますか? あ、何なら僕が手伝って差し上げます。一気に行けば怖くないので」

「いやいや一気も何も死んじゃいますっ!」

「いやですね。僕を信じて下さい。ここにいる限りはあなたを傷付けないと言ったでしょう」


 セレグレスならやりかねないと思う反面、さすがにこれは冗談だろうと、そう思う気持ちがフィオナの中で行ったり来たりしている。そうこうしている間にあっという間に壁際に追い詰められ、フィオナの背中を冷たい風が吹き抜けた。

 魔法攻撃で屋根と壁の半分が吹き飛んだ部屋だ。壁などもはや膝の高さくらいしか残っていない。


「セレグレスさん! あのっ、本当に落ちちゃうから……っ!」

「落とそうとしているので、そうなりますね」

「だから、どうして落とすんですか! 普通に助けて下さいっ」

「あぁ、もう。時間がないので失礼しますね」

「待って待って! セレグレスさ……」

「えいっ!」

「……っ、きゃぁー!!」


 そう軽く合図をして、セレグレスは本当にフィオナを突き落としてしまった。

 部屋の中に残ったのは唖然とするジェイスと、不気味に笑ったままのセレグレス。吹き上げる風に乗って、フィオナの悲鳴が細く響いて。


「お前っ……自分が何をしたのか分かっているのか!」

「彼女を攫って隣国に売り渡そうとしていたあなたよりはマシですよ」


 ジェイスの動揺も、自身の行動についても眉ひとつ動かさず、セレグレスはいつものように飄々とした笑みを湛えて青空の向こうへちらりと視線を流した。釣られてジェイスも空を見上げれば、いつの間に来ていたのか風を切って悠々と飛ぶエスターシャの蒼色が目に映る。その背に見えるのは黒い鎧を纏ったヴィクトールと、彼に抱えられたフィオナの姿だった。


「さて、ここからはあなたの後始末の時間ですよ。くれないの名を汚すばかりか、あろうことかこの僕の下で悪事を働くとは……あなたにはキツいお仕置きが必要ですね」


 そう言って剣を構えたセレグレスは、もう笑ってはいなかった。

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