第四拾九話 壱番綺麗な瞬間哉

 千坂ちさかあおい


 3年前。

 2019年6月。


「雨だ……」

「予報通り降ってきたねー」

 6月初旬。とうとう梅雨が宮城県にも顔を覗かせてきた。


「アオ、あそこ見て」

 みおは昇降口の外を指さす。

 その指の先には捺希なつき鈴望れみがいた。

「何やってるんだあの2人……」

 何やら会話、いや痴話喧嘩しているそうなので耳を澄ます。


「あー傘忘れちゃったから濡れちゃうなー」

「なぜそれを俺に向かって言うんだ」

「さぁ? どうしてだろうねー?」

「相合傘でもしてほしいのか?」

 捺希は少し口角を上げて鈴望に言う。

「ばっ! そ、そんなわけないでしょ! ナツのバカーーー!」

 そう言って鈴望は雨が降るなか昇降口から飛び出していった。

「おーい、濡れるぞー」

 捺希は慌てることなく傘を差しながら鈴望を追いかけていった。


「ふふふ、いつも通りの2人だね」

「お互い正直になればいいのに」

「まぁ、それができたら苦労しないんだよ」

 澪は俯きがちにつぶやく。


「澪」

「んー?」

「まさか……傘忘れたわけじゃないよね……」

「んー?」

 澪は左手を顎にあてて上を見上げ何か考える素振りをする。

 そして、カバンを自身の前に持ってきて、何かを探す。

「お、あった。ちゃんと折り畳み傘入ってたよ」

 えへへと無邪気に笑う。


「そ、そっか。それなら良かった」

 俺は思わず顔を背けてしまう。

 どこまでも澪に弱いな。

「んー?」

 澪は俺の肩をトントンと叩き、背伸びをして俺の耳に手を当てる。


「(もしかして相合傘、したかった?)」


 澪の吐息がくすぐったくて、澪の声が甘く脳に響いて俺は急いで澪から距離を取る。

「もうーなんでそんなに離れるの」

 澪はぷくっと頬を膨らます。

「いや、急に澪が耳元で囁いてくるからだろ!」

「アオ、顔、真っ赤だよ?」


 捺希と鈴望のことを俺たちが言える立場にないな。


 澪はくるりと昇降口のほうへ振り返り、顔だけをこちらに向ける。

「ほら! アオ、早く行こ?」

「いや、どこに?」

「どこにって――あやめ園に決まってるでしょ?」


 今日の曇天には全く似合わない笑顔を浮かべて澪は傘を差しながら走って行ってしまった。


 **

 まだ6月の初旬のためあやめ祭りは行われていない。

 ただ菖蒲あやめの花自体はもうすでにあやめ園一帯に咲き乱れている。


 疑問なのはわざわざ雨が降っている今日にあやめ園に行くということだ。


 一体何を考えているのやら。


「どうして雨が降っている日にあやめ園に行くのか――って考えてた?」

 澪は一度立ち止まり俺の顔を覗きこんでくる。

「当たり?」

「あーそうだよ。当たり」

 こうも自分の心のなかを見透かされていると変な気持ちになるな……。

「やけに素直だね~」

「今更隠したって澪の前じゃ無駄でしょ」

「よくわかっていらっしゃる」

 澪はもう一度俺の前を歩き始め、それについていく。

「で、理由は教えてくれないの?」

「それはついたらわかるよ」

 歩く足は止めずに前を向いたまま答える。

 これは付いていくしかないやつだな……

 澪の突飛な行動、場面行動なんてもう慣れたもんだ。


 まぁだから俺がどう考えているのかが手に取るようにわかるんだろうけど。


「アオは今日の天気予報見た?」

 澪は傘を差したままこちらを振り返る。

 折り畳み傘がくるりと回転する。

 そんな一連の流れがとても綺麗だ。

「え? まぁなんとなくだけど見たよ」

「それってどんな感じだった?」

「えーと、午前中までは晴れでそこから午後にかけては雲が広がって所々ではにわか雨みたいな感じ?」

「うんうん。そうそう。今のところその予報当たってるよね」

 澪は俺の返答を聞いて満足そうにうなずく。

 俺はいまいち澪の意図がわからない。

 まぁ、わかることのほうが少ないんだけど。


「いや、だからその天気予報が何なの?」

「それが今日あやめ園に行こうと思った理由のヒントだよ」


 **

 学校から10分ほど歩いてあやめ園についた。

 予想通り菖蒲あやめ花菖蒲はなしょうぶはほぼ満開と言ってもいいほど眼前に咲き乱れている。

 紫、白、ピンク、黄色のコントラストが美しい。


 だがこの天気のせいか見物客は誰一人としていない。

 だから今この瞬間だけはここ2万1千㎡は俺と澪だけの貸し切り状態だ。


 俺たちはそんな広いあやめ園が左右に見渡せ、屋根がある東屋にいる。


「ふぅー意外と雨強かったから折り畳み傘だと役不足だったかな」

「それを言うなら力不足じゃない? 役不足って実力に見合わずに役割が軽いってことだから」

「あーそっかー。確かにそんな感じだったかも。でもさこれ結構勘違いしている人多いよね」

 澪はベンチに腰掛け、足を前後にプラプラ揺らしながらハンカチで体を拭いている。


「ほらタオル。髪も結構濡れてるからこれで拭いて」

 俺はカバンのなかから常備しているタオルを取り出し、澪に渡す。

「おぉー流石アオ。じゃあ拭いて?」

 澪はベンチにまたがる様に座り、隣にいる俺のほうに背中を向ける。

「は?」

「え?」

「いや、自分で拭けばいいじゃん」

「まぁまぁそんなお堅いこと言わずにさ」

 はぁ……。こうなったらやるしかないか。

 つくづく俺は澪に甘いと実感させられる。


 濡れたことでより一層艶が増しているとても細くてきれいな髪を傷めないように細心の注意を払いながら拭いていく。


「このタオルアオの匂いするね」

「そりゃそうだろうね」

「落ち着く」

「そりゃあどうも」


「澪」

「んー?」

 とても気持ちよさそうな声だな。おい。

「なんか最近無防備じゃないか?」

「そうかも」

「自覚あるんかい……」

「でも、安心して。私の心の領域にここまで踏み入っていいのはアオだけだから」

 アオだけ。ね……。

 少し顔が熱くなるのを感じる。

「あ、あと家族か」

 家族もかい……。そりゃあそうだ。

 ちょっと熱くなった俺の感情返せ。


「ふふ、もしかしてアオ何か勘違いしてた?」

「……やっぱり確信犯だろ」



「だいぶ乾いたんじゃない? ありがと。じゃあ今度は私がアオを拭いてあげるよ。

「え、いや俺はいいよ」

 澪は立ち上がり、俺の髪を触る。

「アオも結構濡れているから拭いたほういいよ」

 そう言って強引に俺からタオルを奪い取り、俺の背中側に回る。

 さっきとは真逆の構図になった。


 タオルからは澪の髪からいつも香ってくる匂いがする。


「ねぇアオ。空を見て」

 俺は澪の言葉に従って空を見上げる。


「晴れてる……」

 さっきまで雨が降っていたのが嘘のように太陽を隠していた雲がもう遠いところへ移動している。


「ふふ、天気予報的中だね。気象予報士さん様様だ」


 澪はそう言うのと同時にタオルで俺の視界を塞ぐ。


「アオはさ、菖蒲の1番綺麗な瞬間ってわかる?」


 わからないよ。だって今まで菖蒲の花になんて興味がなかったんだから。

 ただ澪があやめ園に行きたいって言うからそれにこれまで付き合ってきただけだから。


 俺の視界が開ける。

 太陽光がまぶしい。

 俺は徐々に目を開ける。

 視界が白飛びしたかのように真っ白だ。  


 菖蒲の1番綺麗な瞬間。

 眼前に飛び込んできた景色が全てを物語っている。

 澪の言いたいことよくわかったよ。


「ほら、アオ! 近くに行って見よ!」

 澪が俺の手を取って駆けだしていく。

 きっと無意識だ。

 でも、これは俺が今この瞬間でそれが1番綺麗だと判断したんだ。


 澪が笑っていてくれるなら。

 いや、違うな。

 俺のそばで笑っていてくれればそれが俺にとっての1番だと。






 



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