第参拾九話 泡沫の記憶哉

 千坂ちさかあおい



 古代ギリシャの哲学者プラトンの「饗宴きょうえん」のなかで喜劇作家のアリストパネスはこんな話をしている。


 昔の人間は今の人間を2人合わせたのが1人の人間だった。しかし、ゼウスはこの2人を合わせた1人の人間が神々に従わない罰としてこの人間を2つに割ってしまった。そうしてできたのが今の1人の人間である。そして、このようにして分けられてしまった自分の半分を探し求めることこそが愛であると。


 とても興味深く面白いと同時に非現実的な考え方と俺はそう思ってた。


 でも今は心の底から共感できるよ。

 俺にとってはみおがそうだったから。

 この喪失感は自分の半分が、いやそれ以上が突如消えてしまったとしか説明がつかないほど俺の心は空っぽになっている。


 澪とは物心がつく前から一緒だったらしい。

 2歳の俺と澪が一緒に写っている写真があったからそうなのだろう。


 それからはずっと一緒だった。

 幼稚園でも一緒に遊具で遊んだり、鬼ごっこをしたり、おままごとをしたり。家では俺が澪の家に行くこともあれば、澪がうちに来ることもあって……

 それを毎日ひたすら繰り返していた。


 小学校高学年になると周囲は俺と澪が一緒にいるとひたすらいじってきた。俺はそれが嫌で学校では澪と距離を取ろうとした。でも澪はそんなのお構いなしに俺に話しかけるし、腕を引っ張って校庭に連れ出した。いじってたやつらも自分たちが想定していた反応をしてもらえないから俺たちをいじる言動はきっぱりなくなった。


 そんな澪の笑顔は碧い空を突き抜けるほど底抜けに明るくて、でも時々真剣な眼差しを、そして儚げで綺麗な横顔を見せていた。


 そして、俺はどうしようもなく澪が好きになっていた。


 そんな俺の心に知らないうちに芽生えた気持ちを自覚したころだったろうか。


 澪が死んだ。


 澪は所属していた吹奏楽部の合宿先で友達を庇って交通事故に遭ってしまったらしい。

 凪からそれを聞いたとき、俺の世界から色が消え、音が遠くなっていった。視界が上下左右に規則性なくグワングワンと揺れていた。



 澪がこの世界からいなくなったことを俺は受け入れることはできなかった。

 いや、しなかった。したくなかった。

 お葬式にも行っていない。

 来月で3年経とうとしているのにまだお墓詣りにも行っていない。

 そして泣いてもいない。

 全て自分のなかで澪の死を肯定したくないから。

 周囲は俺を冷たい人間だとそう思っただろうな。


 時間があれば俺は澪のことを考えてしまう。

 だから今まで以上に勉強にも生徒会活動にも取り組んだ。

 何かに集中していれば嫌なことから逃げられるから。


 弱い人間だって。情けない人間だって。逃げるなよって。そう思うだろ。

 あぁそうだよ。俺は強くも優しくもなくてただの弱虫だ。

 でも。


 そんなのこと自分が一番わかってるよ。


 澪が亡くなってから2年が経とうしていたとき俺は多宰府高校に無事合格し、入学式を迎えた。

 思えばここからすべてが始まった気がする。

 きっとこれまでのことはこの日の序章にすぎなかったと思わずにはいられなかった。


 だってそこには澪がそこにはいたんだ。

 前を向けない俺を叱りにきたのかってそう本気で思った。


 紫が少し混じっているような黒色の艶やかな髪のハーフアップ。

 瑠璃色の瞳。


 風が吹く。

 桜の花びらが舞うと同時に髪が一本一本絹のように柔らかく靡く。

 その目線は青空と俺たちの間に咲き乱れる桜に集まる。

 桜の花びらを手のひらに迎え、碧い空を突き抜けるような笑顔。

 そして儚げな横顔をのぞかせる。


 あの瞬間確かに心臓を誰かに強く掴まれて、命を誰かの管理下に置かれているとそう錯覚してしまうほどには痛みと焦りが滲みでていた。

 熱が血管を通して体中に伝わった。


 目の前の情報を処理しようと俺の脳は過剰に稼働していた。


 入学式のことはここまでしか覚えていない。


 彼女はからもも汐璃しおりというらしい。

 奈良県からの転校生でその容姿や成績もあって彼女はあっという間に新入生の話題の中心になった。


 俺は杏汐璃のすべてを拒絶した。

 視界にも意識にもしないようにした。

 彼女の存在が澪のいない現実を俺に突き付けてくる気がしてならなかった。

 幸いクラスも違えば、選択授業も別だった。


 きっと捺希なつき鈴望れみも驚いたと思う。だって本当に澪が高校生になったような姿だったから。

 でも、2人は俺にその話を決してしなかった。

 気を遣ってくれたんだと思う。

 1年生のうちは関りを持つことなく過ごせたため、それをあと2年続ければいい。

 そう思っていた。


 2年に進級し、多宰府高校第40代生徒会執行部が始動した。

 そして、副会長には杏汐璃。


 同じ執行部の一員となったのだからこれまでの対応を改めた。


 活動を共にするにつれて杏さんのふとした仕草や言動が澪と重なる。

 重ねまいと意識しても俺の身体がそれを許さなかった。


 だって失礼だろ。

 杏汐璃を水無月澪として見るのは。

 杏さんにも澪にも。


 そんなことに悩んでいるときに思わぬところからたよりが来た。


 それが多賀城市からの「あやめ祭りの運営の協力依頼」だった。


 俺は澪と話した夢を思い出した。

 叶えられる。そう思った。


 でも、直前で怖くなった。

 澪の死を未だに受け入れられていない弱い自分が叶えれるのか、叶えていいのか。

 その叶える資格があるのか。


 それは誰の夢なんだ


 俺は多分その夢を汚してしまうのが心底嫌だったんだ。

 そして汚してしまうのが自分だなんてとんだ皮肉だ。


 それでも、それでも……

 杏さんと話をしてやっと思い出した。

 遅すぎた。



 俺はそれが2人の夢になったこと。

 俺が諦めたら澪の想いまでこの世から消えてしまうこと。

 そして俺の後悔を。


 きっとこれは報いだ。

 澪の死から目を逸らし続けてきた俺への報いだ。


 俺はいつの間にか水無月澪からも逃げていたんだ。

 今更気づいたんだ。


 ずっと向き合ってきたのに、ずっと隣にいたのに。

 背を向けていた。


 澪がいない現実を、澪の死を少しずつ受け入れる。

 もう一度前を向いて澪と向き合うために2人の夢への一歩を踏み出したい。




 空に橙色が宿り始める。

 罰が当たることを覚悟して境内に座り、俺はこの3年間の胸の内を初めて誰かに打ち明けた。

 なぎは何も言わずに隣で目線を落としている。


「あやめの花言葉」

「……え?」

「もう覚えたよな」

「は、はい。希望・メッセージですよね」

 凪がゆっくりと応えるのを待ち、間を空けて話す。

「俺はずっと幼なじみっていう関係にあぐらをかいていつでも伝えられるなんて考えで自分の本当の気持ちを澪に伝えなかった。本当は恥ずかしかくてそれを隠すための言い訳だったのかもしれないけどさ」


 後悔を吐露する。


「でも、もう俺の気持ちを澪に伝えることはできない」

 凪は顔を上げて俺を見てからもう一度目線を落とす。


「未来なんてのはじゃなくて、なんだよ」

 俺は立ち上がり、朱色が青を飲み込もうとしている空を見上げる。


「だから伝えたいことは今すぐに伝えるべきなんだよ。でもそれが難しいってこともわかってるからそういう機会を作るんだ。そうじゃないと俺はきっと伝えられない。自分の想いは自分のなかで消化させるの無理なんだ。だから相手にぶつけたり、外に吐き出す必要があるんだ。伝えられなかった想いは自分の足かせなってしまうからさ」


 後ろを振り返り凪を見る。


「あやめ祭りが終わったらお墓に行こうと思う。そのときに澪に会って恥ずかしくない自分でいたい。自分勝手かもしれないけれど改めて俺の想いを伝えるよ」


 空は朱色と青色がきれいに混じり合っていた。


 **

 水無月凪



「これじゃダメ……かな?」

 アオ君は境内に腰かけている私を切なさがにじむ笑顔で見つめてくる。


 アオ君の姉さんへの想いをここまではっきりとアオ君の口から聞いたのは初めてだった。

 私は苦しんでいる姿を見たくないとか言っておいて、アオ君の口から本当の気持ちを聞くのが怖かった。

 アオ君に何をしてあげられるのかがわからなかった。

 私はただ無責任だった。


 そんな私から変わろうとした。アオ君の隣を歩きたくて。

 アオ君は前を向こうとしてさらにその一歩を踏み出そうとしている。


 私とアオ君の距離は変わらないまま。

 いや離れてしまったかもしれない。


 でも、アオ君が前を向けて良かった。

 それなら私のすることは決まっている。


「私は勘違いをしていました。姉さんに囚われてしまっているのではないかって。でも、ちゃんと前を向けているんですね……だったら私は協力するだけです……」


 喉が痛くなって言葉を紡ぐのが少し難しかった。

 けれどアオ君に泣いているのを知られたくなかった。


「凪、いつも心配かけてごめん。そしていつもそばにいてくれてありがとう」


 アオ君は私の前にしゃがんで頭を撫でてくれた。

 その少し骨ばっている手から優しい熱が私に伝わる。

 小さいときから私が俯いているとアオ君は同じ目線になって頭を撫で出てくれた。

 そして、私が顔をあげると柔らかい笑顔を浮かべてくれていた。

 私はどうしようもなくその笑顔に心を射貫かれてしまっていた。


 ずるいです……

 いつもいつも……


 ダメですよ。もっと好きになってしまうから……






 

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