叶う

 平日の夕方。病室にて、学校帰りの海斗はベッド脇の丸椅子に腰を下ろし、ベッドに座っている紬と談笑していた。談笑と言っても、笑っているのは紬だけで、海斗は表情を動かそうとしないのだが。


「−−−−それで、その人はどうなったのですか?」


 おかしな話を聞いて笑い尽くした跡を顔に残しつつ少女は尋ねる。

 今回の話題は主に学校で起こったハプニングで、授業中にスマホを使っていた事がバレたクラスメイトの話だ。生徒に対して甘い事で知られる地理の教師の授業中、廊下側の一番後ろの席に座っていた男子生徒が机の下でスマホを触っていたところ、偶然見回りで通りかかった鬼教師に見つかってしまい、生徒指導室へ連行されて行った。と言うところまで話した。


「生徒指導室で何があったのかは知らないけど、パリピなあいつが虚ろな目をして帰ってきたな」


 その人も大変ですねと、微笑を浮かべながら呟く紬。彼女に学校での話を聞かせてと頼まれてからクラス内の様子をよく見るようになった。そのおかげで少しずつではあるが物事への興味が戻ってきている気がする。少し前の自分ならすぐに忘れていたであろう疑問も、少しは調べてみようかなと思うようになった。

 週一で受けている脳外科医のカウンセリングでこの事を話すと、やっぱり俺の考えは間違いじゃなかった!と脳外科医がガッツポーズをしていたし、進歩はしたのだろう。


 −−−しかし、なんだろう。数日前から自分の身体に違和感を感じる。まるで、自分の身体が脳から出された指示に抵抗をしているような。そんな違和感が…


 表情筋の動かない顔で拭きれない違和感を探っていると、


「羨ましいです」


 と、か細い声が耳に届いた。振り返ると、紬が俯いている。悲しさの滲む表情で、薄い掛け布団の上に置かれた手を力なく見つめていた。


「……いつかできるよ。君も、僕と同じような生活が」


 彼女を勇気付けたいが為に、無責任な言葉が口をついて出る。おそらく、これは彼女に何度もかけられた言葉だろう。それでも、少女は笑ってくれた。


「…ええ、そうですね」


 その言葉を聞いて、スッと肩の荷が降りたように気持ちが和らぐ。


 −−−−僕が彼女のために何かしてやらないと。


 そう思った時、海斗の中で何かが切れたような音がした。彼を立ちくらみのような感覚が襲う。意識が薄れて四肢に力が入らなくなり、丸椅子から落下した。


「えっ海斗さん…⁉︎」


 ベッドの上で驚きつつこちらを見下ろす紬の姿が何重にも重なって見える。背後からは物音を聞きつけてやって来たであろう看護師の声がした。朦朧とした意識が、だんだんと遠のいていく。


 −−−−誰かの願いが叶った。


 何が起きているのかわからず混乱する病室の中で1人、そんな事を考えていた。


          *


 気が付くと病室のベッドで横になっていた。紬がいた病室とは別の病室。蛍光灯の明かりで十分に照らされている室内を窓からの朝日がさらに強く照らしていた。


 こうなる前、何があったのか記憶を掘り返す。強い興味がなくとも今回のような事はよく記憶されているようですぐに状況を理解する事ができた。

 なんだ、そんな事だったのか。と、心中で呟く。


 意識が完全に覚醒したところで、右手の肘辺りからか細い寝息が鳴った。視線を向けると、丸椅子に座った状態でベッドに上半身を預けた母親が寝ている。目元にあるシーツが濡れている事から、少し前までは泣いていたのだと察した。

 起こさないよう身体を起こす。制服にしては動きやすいなと思ったら身につけていたのは病衣だった。気を失っている間に着せ替えたらしい。そんなどうでも良い事を考えつつ母親の頭を撫でてやる。


 フッと、口元が緩んだ。


「ありがとう、母さん」


 数年ぶりに出た笑みだった。


 それから少しして病室に入って来た看護師と、眠りから覚めた母親に容態はどうかと尋ねられ、後から呼ばれて来た担当医に同じような質問をされた。大掛かりな検査や診察も受けて、異常が見られなかったら明日には退院できるとの事。

 気を失っていたのは昨日の夕方から今日の朝までだから、そんな大袈裟にしなくても良いのにと、内心で呟いた。


「…………暇だ」


 今は病室のベッドで横になっている。担当医と看護師は海斗の検査結果から現状の詳しい容態を確認するために病室を出て、母親は家事が残っているため帰宅した。なので海斗は暇を持て余しているのだ。


 こういう時に誰か1人でも話し相手がいればとふと思う。携帯は父からのお下がりで、ゲームなんかができるスマホとは違うため暇つぶしにはならないし、入院患者のために用意された文庫本は個人的に興味がない。


 ほんの数時間前は興味なんて何にも向けなかった。向けていたとすれば、紬に話すための学校生活くらいで、『暇だからああしたい』『あれが気になるからこうしたい』なんてものは思い浮かばなかった。


「ほんと、どうしちゃったんだろうな。僕」


 ため息混じりに呟く。何もない真っ白な天井を呆然と見つめていると、ふと気を失う前の事を思い出した。曖昧な記憶の中で一番鮮明に残っているもの。


『誰かの願いが叶った』


 あの時の僕は確かにその一言を脳裏に浮かべた。そして、この"願いを叶える力"は正確な範囲はわからないけど僕の近くにだけ使える。だとすると、あの時の叶った願い。それを思い浮かべていたのは−−−−


 そう結論を出しかけた時、病室のドアがノックされた。巡っていた思考がその場で停止し、反射的にどうぞと答える。横にスライドしたドアの向こうから車椅子に座った紬が現れた。心配そうな表情を浮かべていたが、青年の姿を確認すると安堵の表情に変わる。いつも一緒にいる看護師の女性に車椅子を押してもらいながらベッドのすぐ側まで来た。


「良かった、あなたに何かあったらどうしようかと思っていました」


「みんな大袈裟だよ」


 苦笑を浮かべて返す。紬もフフッと小さく笑った。そこまでは自然な流れで会話をしていたのだが、なぜか紬の表情が時でも止まったかのように動かなくなってしまった。そして彼女から「えっ?」と問いかけるような声が漏れる。


「どうした?」


 訳もわからず小首を傾げた。

 すると少女は、何を理解したのかスッと口元に笑みを浮かべ、涙に頬を伝わせる。


「良かった…」


 心底ほっとしたような、そんな声を溢して。

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