第19話

 入った先はさっきの銭湯だった。

 駆け抜けたばかりの道を歩いて、「女」と書いてあるドアを潜る。

「おや、お早いお帰りで」

「お風呂入って行きます」

「大荷物だね。特大ロッカーがあるからそれを使うといい」

 脱衣所の端っこに特大ロッカーはあって、そこに全部を入れて、鍵を掛ける。

 素っ裸で大浴場に行くと、老婆が一人湯船に浸かっている。ガランと広い中をぺたぺたと歩いて、流し場に座る。体にお湯を掛けて、正面の鏡にもお湯を掛けて、自分の顔を覗く。

 いつもと変わらない顔なのにどこか、寂しそう。

「寂しい?」

 シャンプーを手に取りながら呟く。頭に乗せて泡立てる。

 寂しいのかな。

 でも、私の知っている寂しいでは片付かない感情が胸に据わっていて、名前が分からない。触れ方も分からない。

 髪を流して体を洗っても、それが何かが分からない。

 大きなお風呂に浸かる。湯気が風もないのに揺れている。

「お嬢ちゃん」

 声の方を向くとさっきの老婆がニコニコと、風呂の中を近付いて来る。

「何でしょう?」

「風呂に来るのは何のためか分かる?」

 老婆は私の前に陣取って、しわしわの人懐っこい顔をタオルで拭く。

「体を洗って、あったまる、ため?」

「それも一つだけど、ここでは違う理由があるよ」

 彼女はにっこり笑うけど、見当が付かない。

「分かりません」

「うん、うん。正直さは財産だ。こころに処理されないものがあるときに来るんだよ」

 確かにそれは、ある。スカンク。

「お風呂に浸かるとそれが処理されるの?」

「そんなことはない。この風呂は必ず二人ずつ入るんだ。そこで話すんだ。お互い知らない同士だから話せることがある」

「じゃあ、お婆さんも、未処理なものがあるの?」

「そうだよ。私から話そうか」

 私は老婆の顔をじっと見る。

「お願いします」

 老婆は、うん、と頷いて、タオルで顔を拭く。

「恋をしたんだ」

「恋」

「私よりずっとずっと若い、旅の男がいてね。私の民宿に逗留したんだ。長い逗留だった。毎日顔を合わせるんだけど、何に惹かれたのか気が付けば私は彼の帰りを待つようになったんだ」

 老婆はまた顔を拭う。

「でも旅の人とは別れが必ず来る。連れて行ってとも言えない。いや、言った方がよかったのかも知れない。民宿も他の客も捨てて縋った方がよかったのかも知れない。でもそのときの私は自分のしがらみを絶対に断ち切れないものと決め付けていて、そこから抜け出せないことを前提に彼に接近出来ないでいたんだ」

「前提に気付いたのは、いつ?」

「男が去ってからだよ。その日はやって来て、彼は次の旅に出ると言って去って行った。前提のこと以上に、自分の気持ちの強さにやっと気が付いて、でも後の祭りさ。それでもやもやして風呂に来たんだよ」

「そのことって昔のことじゃなくて、最近なの?」

「今朝だよ」

「今朝」

 昔話じゃないんだ。

「老婆が恋するのはおかしいかな?」

「全然。でも素敵とか羨ましいとかも思わない。私は私の恋だし、お婆さんはお婆さんの恋だから」

 老婆は拭いている手を止めて、カッと眼を見開く。

「それぞれで特別で、お互い関係ない、ってことだね。やっぱり、伝えればよかったんだね。前提とか言い訳したけど、私の恋は私だけの恋なんだから、彼に伝えないことには始まらなかったんだ」

「秘めることに全力だったんじゃないんですか?」

「言われてみればそうだ。彼がいなくなるまでは秘密にする方に全力を傾けていたんだ。あー、バカだね。そうじゃなくて、アタックすればよかったんだ」

「あとは、お婆さんこそが年齢を気にしていたんじゃないかな」

「確かに、それがブレーキになっていた。もっと若ければって何度も考えた」

「でももう彼は行ってしまった」

 老婆がしゅんとなる。両手でバシャバシャと顔を濡らす。

「旅人だ、帰っては来ない」

「お婆さんはじゃあ、もう諦められるの?」

「頭はそうしろと言っているけど、こころは足掻いてるよ」

「まだ追えば間に合うんじゃないの?」

「そうだね、次の目的地は教えてくれているから、追っかければ、追い付く」

 もう一度老婆は顔にお湯を掛けて、タオルでしっかりと拭く。

「決めたよ。追って行って気持ちを伝える」

 私は頷く。強く。

「私の話はいいから、行ってらっしゃい」

 老婆は首を振ってニカッと笑う。

「数時間ズレたところで見失わないよ。お嬢ちゃんの話を是非聞きたいし」

 私は天井に上って行く湯気を目で追う。

「私は、旅を共にした、仲間と、さっき別れたんだ」

「どうして?」

「私が入れるところに、彼が入れないから。彼は昔にも同じ理由で仲間と別れてる」

「旅を続けるなら、受け入れないといけない理由だね。彼と一緒にいるために旅をやめる気はなかったんだろ?」

「ない。私たちは恋人でも何でもない、旅の同伴者だから、旅が主役だから」

「じゃあ、必要に応じた、気持ちのいい別れじゃないか」

 気持ちのいい、それが違う。でも、そうであるべき別れ。

「なのに、気持ちがぐしゅってなってる。それが何でかが分からないんだ」

「恋じゃなかったんだよね?」

「恋はない」

 老婆も湯気を目で追う。追いながら考えている。

「同じ理由があったってことで、彼を傷付けたんじゃないかって思っているのかな。お嬢ちゃん、情ってのはときに恋よりも重いんだよ」

「情」

「そう、情。友情の情。仲間の情。もしかしたら世界を動かしているのは知性でも愛でもなくて、情かも知れないよ」

「私は彼に情を持っていた」

「自分で仲間と言ったじゃない。情で結ばれてなかったら正しい意味での仲間にはならない。お嬢ちゃんはこう思っているんだよ。恋でも愛でもないのに、寂しいとか彼を大切だとか、思っちゃいけないんじゃないかって」

 今度は私がお湯で顔を濡らす。手で拭う。

「寂しくていいんだ」

「いいんだよ」

「私の知っている寂しいと、でも、違うんだ。別の名前を付けなくちゃいけない気持ちがあるんだ」

「それも寂しいと呼ぶか、新しい名前で呼ぶかはお嬢ちゃんが決めればいいことだよ」

「私が決める」

「そう。でも急がなくてもいい。ゆっくり探せばいい。それよりも、他の気持ちもないかな?」

「やっぱり傷付けたくないのはある。もっと一緒に旅をしたかった。私が入れるせいでこうなったことを自分で責めてる。仕方ないで終わらせたくない」

 さっきまで自分で分からなかった気持ちが老婆のいざないによって口から溢れて来る。

「彼と別れた分だけ自分が進まないとって思う。彼は私の仲間だ。離れてもずっと仲間だ」

 老婆は黙って頷いている。

「またいつか、彼と旅をしたい」

 全部の言葉が湯船の上に出切って、私と老婆の間にあるそれを二人で見ているみたい。

 胸の中が空っぽになった。

「今、どんな気持ちかな?」

「私は旅を続ける」

「いい顔だ。さっきと別人みたいだよ」

「お婆さんも、凛としてる」

「いいお湯だったね。それじゃ」

「はい」

 老婆が大浴場を出るのを見送って、一人になったら、広い。湯気に覆われたこの場所には嘘を持ち込めないような気がする。zarameの「tight junction」が自然と浮かんで、誰も他にいないし、歌う。歌っていい、歌うことの方が自然だから。

 歌い上げてから脱衣所に出ると老婆はもういなかった。汗を引かせながら頭を乾かしたりして、服を来てズックを背負って番台の前に行くとおじさんがうたた寝をしていた。

「すいません、退館票を下さい」

「お、ああ。寝てた。はいはい。さっき歌ってた?」

「はい」

「いい歌だね。歌手になるのかい?」

 どうなんだろう。

 顔に出たようで、おじさんが困った顔になる。

「まだ分かりません」

「そっか。はい、これ退館票」

「ありがとう」

 銭湯の外は夜風がやんわり吹いて気持ちがいい。お婆さんはもう彼の元に向かったかな。

 ゆっくり歩いて範囲の外に出る。

 そこにスカンクはいない。

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