第1話 始まり

 時刻は夜の22時30分。

「おい修斗しゅうと。大事な話があるんだが今いいか?」

「う、うん。どうしたの? 父さん」

 父親が経営する美容院、Shall tierシャルティエの店内。

 水瀬みなせ修斗はカットの個人練習中に話しかけられる。

 すぐにハサミを置いて父親と目を合わせた瞬間、予想だにしないことをいきなり言われてしまうのだ。


「あ、あのな。お前には本当に悪いんだが、明後日から支店のヘルプにいってくれねえか?」

「……ん? え!? し、支店!?」

「そうだ」

「えっと……どうしてって聞いてもいい?」

 ミスをした記憶も粗相を侵した記憶もない。当然の疑問を投げると、頭を掻きながら理由を教えてくれる。


「いや、そのな……。あっちのスタッフが一人辞めることになってたんだが、その補充をすっかり忘れてたんだ。オレが」

「ええー。前もこんなことなかった? それで支店長さんに任せようみたいな話をした気がするんだけど」

「その件すら忘れてたんだよなぁ。忙しくてな」

「わ、笑えないって」

 引きつった顔で応える修斗。


 ありがたいことに自営しているこの美容院は二号店を出せるまでに繁栄している。

 その忙しさからなにかと抜けてしまう父親だが、その腕は一級品。トップレベルの美容師として書籍に特集されたことがあるほど。

 さらには修斗が一番に尊敬している美容師でもある。


「結局のところ、急いで探したけど誰も捕まらなかったらから自分をヘルプに出すしかないってことなんだ?」

「本店は一人欠けても回せる計算ではあるからな。……まあ、オレの次に上手いお前が居なくなるのは痛手だが、ヘルプに出すならお前が一番安心なんだ」

「……」

 いきなり嬉しいことを言われる修斗の年齢は22。


 父親の仕事ぶりを間近に見て美容師に憧れ、中学一年の頃から本格的に練習をさせてもらっていた。指導をしてもらっていた。

 美容への興味は衰えるどころかますます惹かれていき、エスカレーター式に美容専門学校を卒業。

 そのまま国家試験を取って実家の仕事を任されるようになり、その経験を踏まえると若くして10年目の節目を迎えていた。


「……あと、これは内緒の話なんだが、あっちの客層に少し懸念があってな」

「懸念?」

「データを見る限り、向こうはスタッフから客層まで女性が多い分、男性客が少し入りづらい環境になっていてな。もちろんそれが悪いってわけじゃないんだが、売上をもっと伸ばすためにも男の美容師を入れて男性客を増やしたいわけだ」

「なるほどね……」

 客層が広がれば売上に繋がる。それはつまり、店を存続させることができ、スタッフの生活を安定して守ることができる。

 多忙であるために抜けていることがある父親だが、こんな話をする時の顔は仕事に取り組む以上に本気の顔をしている。


「ってことでいけるか?」

「状況的に自分には拒否権がないような……」

「正直、そうだな」

「まったくもう」

 呆れた風に言ってしまうが、修斗はもうヘルプに向かう決心はついていた。

 こんなことで恩は返せないが、少しでも親孝行をするために。


「一応、支店長には俺の息子だとバラさないように言ってある。そっちの方が支店のスタッフ達もよそよそしい態度を取らないだろうし、監視の目がきたとも思われないだろうしな」

「そ、そんなところはしっかりしてるんだから……」

 父親はオーナーという立場だ。身分を知れば気を遣うスタッフも出てくるだろう。

 支店で仕事がしやすいように動いてくれている。

 最初からその手腕を見せてもらえたら、こんなことにはならなかっただろうが……今はもう仕方がないこと。


「わかったよ。その事情なら支店で頑張るから」

「すまんな、本当。店の造りも道具の保管場所も同じように教えてるからあまり苦労はしないはずだ。なにかわからないことがあったら支店長に聞くように」

「了解。じゃあ自分は父さんのお弟子さんって設定で通していい? これなら嘘ではないし」

「ああ、それでいいぞ。それなら配属された理由に不自然もないだろう」

「了解」

 今回のことで一つ幸いなことは皆、父親のことを『オーナー』と呼ぶこと。

 苗字にはそこまで馴染みがあるわけではない分、親子バレする心配はそこまでないだろうと言うこと。


 こんな事情があり、修斗は本店から支店のShall tierに配属されることになる。


 ——そして、この件がキッカケとなり、運命の歯車は動き出すのだ。

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