佐藤 彩音(18歳・女子高校生)

 昼休み明けの国語の授業は、恐ろしいほどに眠たかった。

 おじいちゃん先生が教壇の向こう側で、淡々と古文の教科書を読み上げている。

 理解の出来ないその音たちが、昔はきちんと意味をなしていたという事がどうにも不思議でならなかった。

 3年1組の教室の窓際で、私はその子守唄にもならない音の羅列に耳をかたむけながら、ぼうっと真っ白なノートを見つめていた。

 ふと、ガタッと椅子が引かれて誰かが立ち上がった。顔を上げると、先生に当てられた生徒が続きを朗読している。

 坂上さかがみ美琴みこと――成績優秀、容姿端麗、決して騒がずいつも上品さを身にまとっている子だ。

 私も容姿には自信があった。けれども、私の武器は彼女のそれとは全く違っていた。

 すらりと伸びた背と、大人っぽい顔つきの彼女とは真逆で、背の低さとそれにとって付けたような童顔が私の武器だった。

――可愛い。

 それはまるで、小さな子供やペットを見た時に発せられるあの言葉と似ている。

 しかしながら、残念な事に、私はそれらが持っている純粋さや素直さというものを微塵みじんも持ち合わせていなかった。

 幼い頃はそれが堪らなく嫌だった。見てくれだけで誤解され、そうでしょう?とばかりに押し付けられる一方的な印象に鬱陶うっとうしさをいだかずにはいられなかった。

 また、外見と内面のちぐはぐさになかなか自分の中で折り合いをつけられず、一人苛立ちを抱えていたのをよく覚えている。

 けれども、成長していくに連れて、それらはようやく私の中で一つの解をはじき出した。

――ならば、お望み通りに演じてやろう。お望み通りその「可愛い」をくれてやろう、と。

 不思議な事にそう思ったその日から、あれだけモヤモヤしていた私の心の内側は意外なほどにスッキリとクリアになった。

 それは、恐ろしく狡猾こうかつでドス黒い人間が完成した日でもあった。

「はい、座ってください」

 先生の声で、私ははっと我に返った。

 どうやら朗読が終わったらしい。浅く礼をして着席した美琴の背をじっと見つめた。

 彼女を見ているとみじめな思いが胸を突く。

 懸命に作った笑顔で愛嬌あいきょうを振りまいている私と違って、彼女はいつも自然体だった。

 だれかれ構わず仲良くするのではなく、ごく親しい間柄の子たちとだけ話している、そんな印象だった。

 だからといって、周りから嫌われているわけでもなく、孤立するわけでもなく、むし高嶺たかねの花のような、ひそかに憧れをいだかれている、そんな存在だった。

 私の必死の努力をことごとく砕いていく彼女は一体何者なのだろうか?

 いや、私は彼女の正体を誰よりも知っている。

 家が近所で、親同士も仲の良い、保育園からの私の幼馴染だ。

 昔はよく一緒に遊んでいたが、いつからか、すっかり遊ばなくなってしまった。

 静かに読書をするのが好きだった彼女に比べ、私は外で体を動かすことの方が好きだった。

 中学、高校と成長していくに連れて、つるむグループが分かれていった。大人しいグループと、キャッキャウフフと騒がしい典型的な女子グループとに。

 とりわけ、そのグループの中でも私のポジションは可愛い妹キャラだった。

 全員同い年のはずなのに「妹」が存在するとは何とも滑稽こっけいではないか。

 それでもまあ、私はそこそこにソレを楽しんでいたし、求められるものが明確な方が楽だった。

 そうして、私はこの高校生活を平和に過ごすのだ、と心に誓っていた。

 卒業さえしてしまえば、随分昔に上京した兄のように、私もきらびやかな都会の大学に通って、新たな自分を1から作り直す事が出来るのだから。そう考えると、この生活も苦では無かった。

 そんなある日の下校途中、家のすぐ近くで偶然彼女と遭遇した。

 彼女は私に向かって小さく手を振った。

――驚いた。私たちはまだ、手を振り合う仲だったのか。

 彼女はこちらに駆け寄ってくる事なく、じっと私が近づいてくるのを待っていた。

 隣に並ぶと、彼女と私の身長差がいっそう際立った。

 とりとめの無い会話の中で、ふと、彼女はぽつりと呟いた。

「大変だね」

 あわれみのような何かが含まれたその言葉に、私は顔がかっと燃え上がったのを感じた。

「何が?」

 私は気付かないフリをして首をかしげた。

「……ううん、なんでもない」

 彼女は何かを言いかけて、それをかき消すように首を振った。艶やかなサラサラの前髪がおでこで揺れている。

――不公平だ。

「そうだ、今夜のお祭り行く?」

 彼女は話題を変えるように突然言った。

「うん、新しい浴衣を買ってもらったからそれを着て行く」

「そっか、いいな」

「美琴は? 浴衣着ないの?」

「ううん、着るよ。お母さんのお下がりだけど、白地に藍色の牡丹の花のやつ」

 そう言って微笑んで出来た頬の隆起とは対象的に切れ長な目尻がぐっと下に下がった。

 彼女の浴衣姿を想像した途端、つっと胸に痛みが走る。

 とても似合っている、私は頭の中の彼女を見てそう思った。決して派手な顔立ちではないが、クールビューティーやアジアンビューティーという言葉が似合う顔立ちだ。

 屋台からこぼれるオレンジライトを背に白の浴衣を着た彼女が微笑んでいる。

――不公平だ。

彩音あやねはどんな柄?」

「私はピンクに色んな花が散りばめられてるキラキラしたやつ」

「へえ、似合いそう」

 彼女は私が着ている姿を想像したのか、ふふっと楽しげに笑った。

 私はバレないように口の中を噛んで、でしょ、と無理やり笑って彼女を見上げた。

「じゃあ、お祭り楽しもうね」

 彼女は優しく微笑みながらそう言って、家の方へ去って行った。

 私はその背中が消えるのをいつまでも、いつまでも、じっと見つめていた。

 耳には、私の心を見透かしたようなヒグラシのなき声がずっと響いていた。

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