第3話 「癒えない傷」

 右脚に鋭い激痛が走り、快適な眠りから目が覚めた。

強制的に現実世界へと引き戻されたせいか、間違いなく自分のモノであるはずの肉体が、どこか実態を持たない間に合わせの容れ物であるかのように感じられる。

しかしその錯覚も束の間、右脚の膝頭に再び訪れた鋭い痛みによって、この肉体は誰がなんと言おうと正真正銘自分のモノであると強く認識させられた。

カーテンの隙間から差し込む月の光を頼りに傷口の具合を見てやると、「心臓が弱い方はご遠慮ください」というテロップがギリギリ必要になるくらい、ドス黒い血の塊がビッシリとこびり付いていた。

 完治までは最低でも後1週間はかかるだろうと適当な予測を立て、傷口にタオルケットが触れないよう配慮しながら静かに枕に頭を沈めた。


 この傷は一昨日に会社の同期とフットサル大会に出場した際にできたものだ。

大会といっても決して大それたものではなく、学生時代にサッカーに打ち込んでいた大人たちがコミュニティーの親睦と運動不足の解消を目的に参加するアマチュア向けのイベントのようなものだ。

僕の同期には1つチームを作れるくらいのサッカー経験者がいる。

内定式で初めて顔を合わせた際にムードメーカーの谷口が「今度みんなで大会に出よう」と放った一言が3年越しに実現したのが今回の大会だ。

筋トレやランニングを日課としている同期の面々が体の衰えを感じさせない俊敏な動きを見せる中、運動とは絶縁したかのような堕落した生活を送る僕はゴールキーパーという「ただ立っているだけ」のポジションを自ら選択し、翌日の仕事に影響しない程度の運動量でその場をやり過ごしていた。


 オウンゴールや不戦勝など幸運なアクシデントが度重なり、僕たちのチームはうまいこと決勝へと駒を進めることができた。

多くの見物人が見守る中、決勝戦は両チーム一歩も引かない接戦の末にPK戦へともつれた。

大会の特別ルールとして、公式のそれとは異なりサドンデス形式が採用された。

要するに両チーム交互にシュートを打っていき、ゴールを逃したその瞬間に勝敗が決まるというわけである。

 僕は昔からPK戦が大嫌いだ。

ボールを定位置へと運び、シュートを打つまでの僅かな間にチームメイトやその他大勢の見物人の固唾を飲む音が次から次へと聞こえてくる。その音には成功を望むものもあれば、失敗を切に望むものもあり、中には結果がどうであれ自分には関係ないという感情を含んだ音さえ感じられる。

 今回はゴールキーパーというポジションから初めてPK戦を経験するわけだが、やはりそこにはいつもと変わらぬ不安と興奮が入り混じった空気感が漂っていた。

両チーム順調にゴールを決めていき、このまま一生勝敗はつかないのではなかろうかと思っていた矢先、6巡目に情勢が一変した。

同期の田中が放ったシュートが僅かにゴールの右上を逸れ、会場に張り巡らされたネットに勢いよく吸い込まれていった。

相手チームは1人残らず自分たちの勝利を確信した表情を浮かべ、次にボールを蹴る予定の選手は重圧から解放されたことで自然な笑顔を溢していた。

 次に相手のゴールを許してしまえば僕たちの負けが確定する。

僕は自分でゴールキーパーを選択したことを猛烈に後悔し、一切の責任が自分に課せられているこの現状を間接的にでも作り出した同期の谷口を恨む。

審判の笛が鳴るや否や、相手選手は力一杯右足を振り抜いた。

僕は相手の軸足がゴール左側に向いていることを即座に確認し、右側へと思いっきり飛び込んだ。

が、当ては大きく外れた。

ボールは僕の予測とは真逆の方向へと放たれ、倒れている僕の背後でゴールネットが揺れる軽快な音が響いた。

 僕はこの時負った右脚の傷を庇うようにしてゆっくりと立ち上がり、誰にも聞こえないよう小さく舌打ちをした。


 大会後に駅前の居酒屋で打ち上げをすることになったが、僕は親戚の家で集まりがあるからと適当な嘘をついてみんなと別れた。どうもみんなとワイワイ酒を飲む気分になれなかったのだ。

 僕は決して試合に負けたことで気分を落としているわけではなかった。

ただ、今回のPK戦の結末が自分の生涯を如実に物語っていることを実感し、いくらか自分の甲斐性の無さに絶望していたのだと思う。

今回僕が本当に負った傷は、瘡蓋が剥がれ落ちれば万事解決するような右脚の擦り傷ではなく、二度と癒えることのない心の傷だった。


 ちなみに、谷口は彼女とデートがあるという理由で大会には姿を現さなかった。





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