第8話 決意新た

 3月某日未明、まだ夜明けまで2時間以上もあるという早朝に、洋一と茜は源吾爺さんとともに下田の漁港に向った。3日前、ブラウン教授からイギリスの海洋調査船が沖縄付近の公海上を通過中との連絡が入った。教授の指示では、洋一と茜の2人と水先案内人を小笠原近海で待つとのことであった。イギリスの船舶が許可なく日本の経済水域内に入れば、当然海上保安庁の監視に掛かることになる。公海上で落ち合うのが道理であった。そこまでの道程はこちらでつけるしかない。

 当初は反対していた洋一も、源吾爺さんに今回の役目を依頼して良かったと思えるようになった。仮に小笠原まで定期船で行ったとしても、そこから先の足がない。現地で船をチャーターするにしても、そのようなリスクの高い仕事を、しかも極秘裏に引き受けてくれる人がいるかどうかの当てもなかった。下田からであれば、返って怪しまれずに小笠原に向けて出発することが出来る。

 3人が暗い路地を抜けて漁港に出ようとしたその時、突然3人の前に人影が立ちはだかった。3人はギョッとして立ち止まる。

「こっちだ。」

 男は洋一の手首をむんずと掴むとぐいっと脇に引っ張っり込んだ。

「しっ、親父、俺だ。」

 男の口から聞き覚えのある声が漏れた。

「何でえ、健三でねえか。おめえどうしてこんなところに。まさか俺たちの邪魔をする気では。」

 洋一はまずいと思った。健三は水先案内人の仕事に大反対だった。その健三に気付かれた以上、只では済まないかも知れない。洋一の背筋に一瞬の緊張が走る。しかし、次の瞬間健三の口から意外な言葉が返ってきた。

「バカ、その反対だ。港は危ない。3日ほど前から水産庁の役人と称する連中が出入りする船を臨検していやがる。」

 洋一はさらにまずいと思った。港は既に政府の監視下に置かれている。恐らく出入りする船に不審者が乗っていないか点検したり、あるいは海ナマズを不正に水揚げしようとするのを取り締まるのが目的であろう。それにしても尋常でない厳戒態勢である。日本近海も俄かに緊張が高まってきた。

「大丈夫、船は昨日のうちに岬の裏に回しておいたさ。」

 3人はほっと胸を撫で下ろした。健三がいなければ、もしかすると洋一と茜はその政府の役人らしき人物に見咎められていたかもしれない。2人はどう見ても漁師には見えなかった。

「お、おめえってやつは。」

 源吾爺さんは余程嬉しかったのか、健三の両手を握って大きく揺さ振った。健三はそんな源吾爺さんの手を黙って振り払うと、着いて来いとばかりにさっさと先に立って歩いた。村を抜けて4人は岬の方へと向った。岬は港とは正反対の方向にあり、港からは全く見通せない。まさかこのような場所で船に乗り込む人間がいるというところまでは監視の目も届くまい。

 船は、岬の外側、外洋に面した岩陰に隠されるように係留されてあった。4人は健三が用意していたゴムボートに乗り移ると船を目指す。今日は波も静かな方であったが、それでも外洋の波は港の中に比べると高い。洋一と茜は振り落とされまいと必死にゴムボートにつかまった。やがて船側にゴムボートが横付けされると、真っ先に健三が船に上がった。ゴムボートをしっかりと船側に結わい付けると、茜、洋一、源吾の順に次々と甲板に引き上げる。

 船は思ったよりも小さかった。長さは30メートル、幅は5メートル足らず、こんな小さい船で本当に太平洋の荒波の中で漁が出来るのかと思うほどのものであった。健三はゴムボートを引き上げると手慣れた調子で右舷側にしっかりと結わい付けた。

「天気は上々、絶好の漁日和だ。」

 源吾爺さんは懐かしそうに船に頬擦りした。爺さんが丘に上がって久しかった。普段の漁は健三たち若い衆に任せっ切りで、年寄りの出る幕はなかった。感傷に浸っている源吾爺さんを尻目に健三はさっさっと機関室の方へと向かう。

 程なく船のエンジンが掛かり、錨が上がり始めた。いよいよ出航である。最初はポンポンと軽い音を立てていたエンジンも、やがてボボボッという逞しい音に変わり、船の舳先が垂直に波を切り始めた。

「小笠原の海までは、だいたい1日半ほどだ。それまではこの波を枕にお昼寝さ。」

 源吾爺さんは得意気に船の中を案内して回った。甲板の中央には水揚げした魚を入れる巨大きないけすと保冷庫があった。後甲板は乗組員たちの居住空間になる。1回の漁で一週間から十日は港を離れる。船の中には、一度に八人の人が寝泊まりできるよう二段ベッドが四組しつらえられていた。その隣は簡単な炊事場と食堂になっていた。いずれも年季が入っているらしく、壁板一枚一枚に染み込んだ魚の臭いが鼻を衝いた。

 下田を出て約2時間。白々と夜が明けはじめた。東の水平線が朱に染まり、青黒かった空が少しずつ青白く輝き始めた。周囲は360度見渡す限り海または海、微かに遠くに見えるのは伊豆大島の島影であろうか。洋一と茜は頬に吹き付ける潮風を胸一杯に吸い込みながら、これから来たるべき時のことに思いを馳せた。

「あの、幻の、ほれ幻のバ、何て言ったけな。」

「バクテリアですか。」

「そうそう、その幻のバクテリアっていうのは、本当に見つかるんですかえ。」

 源吾爺さんは心配そうに2人に尋ねた。

「それは分かりません。でも何としても探さなければ。さもないと地球の気候が大きく変わってしまうかもしれないんです。」

 茜は不安気に答えた。

「そうですかい、そうですかい。お願いしますよ。わしはこの小笠原の海が根っから好きだ。昔みてえに一杯魚が獲れる海に戻ってくれるなら、それだけでいいのさ。」

 源吾爺さんは目を細めて水平線の彼方を見やっていた。


 翌日の昼過ぎ、洋一の携帯電話が鳴った。

「洋一、今どの辺りだ?」

 電話の向こうにブラウン教授の声があった。洋一はあらかじめ小笠原近海に到着できる日時を伝えておいたのである。洋一は慌てて機関室に入ると、GPSを使って現在位置を確認する。今の漁船には大抵GPSが搭載されており、太平洋のど真ん中でも即座に自分のいる場所が確認できた。

「よーし、すぐ近くだ。そこに動かずにいてくれ、すぐこっちから行く。)」

 洋一は健三に停船するよう告げるとすぐに甲板に出た。360度見渡してみるが、肉眼では船影は確認できない。本当に教授の乗った船はそんな近くまで来ているのであろうか。洋一はイライラしながら船の中を歩き回って、時を待った。

「おーい、船が見えたぞー。」

 1時間ほどの後、健三の叫ぶ声が左舷の舳先から聞こえてきた。見れば、南西の方角に豆粒ほどの小さな船影が見えた。待つこと10分、その船影はみるみる大きくなってきた。洋一たちが乗っている漁船の十倍以上はあろうかと思われる巨大な船は純白に輝き、船尾には青と赤のユニオンジャックがはためいているのが見える。

 源吾爺さんはというと、すっくと立ち上がると武者震いをして見せた。イギリスといえば、太平洋戦争時代は敵国であった。帝国海軍魂が復活したのであろうか。

 程なく、洋一と茜は白い船の甲板上で手を振る人を発見した。もじゃもじゃの白髪、がっしりした大柄の体つきのその人物は間違いなくブラウン教授であった。

「洋一、茜、とうとう来たぞ。よくやった。」

 教授はいつもと変わらぬ調子で快活に叫んだ。

 やがて白い船体が洋一たちの乗る漁船に横付けされ、ステップが下ろされた。洋一は源吾爺さんに手を貸しながらステップをゆっくりと上る。甲板の上で待ち受けていたブラウン教授は洋一と茜の姿を見るなり、かわるがわる両腕の中に2人を抱きしめて大袈裟な挨拶をして見せた。もじゃもじゃの顎鬚がチクチクと頬に当たるのは、何度経験してもあまり気色のいいものではない。一頻りの挨拶が済むと、ブラウン教授はこちらの御人はとばかり、源吾爺さんの方を向いた。洋一は源吾爺さんと健三をブラウン教授に紹介した。

「はじめまして、ご協力どうもありがとうございます。」

 教授は恭しく一礼すると右手を差し伸べた。源吾爺さんはどうしてよいか分からず一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐに右手で教授の手を取ると力任せにグイッと握り締めた。その力が意外に強かったので教授は痛いとばかりに仰け反った。その仕草があまりに滑稽だったので、その場に居合わせた全員が腹を抱えて笑い出した。常に人を楽しくさせるのが得意なようであった。

 

 一通りの挨拶が済むと、教授はすぐさま3人をブリッジへと案内した。年代を感じさせる船のブリッジには難しそうな計器類が並び、何人かのクルーが忙しく立ち働いていた。ブラウン教授は3人をキャプテンに紹介する。長身のキャプテンは白い制服がピッタリ似合う紳士であった。洋一と茜はかわるがわる握手を交わした。源吾爺さんも今度はうまく握手を済ませた。

「よーし、早速始めようか。」

 教授は待ちきれないとばかりに、ブリッジの中央に置かれた大きなテーブルに近付いた。あらかじめ用意しておいたのであろう。テーブルの上には巨大な海図が貼り付けられていた。全員が海図を取り囲むように囲んだ。

「ここが父島、こちらが母島。」

 洋一は海図を見ながら源吾爺さんにも分かるように説明した。最初は少し戸惑いの見られた源吾爺さんの目も次第に鋭く輝き、むさぼるように海図を覗き込み始めた。暫く海図をチェックしていた源吾爺さんは、やがてテーブルの脇に置いてあった赤色のマジックペンを取ると、いきなり海図の上に大きな丸を描いた。

「何ですか、これは。」

「この辺りは浅瀬があって危ない。」

 洋一は源吾爺さんの言葉に驚いた。海図の上では何も描かれていない太平洋のど真ん中である。どう見ても平均水深は1000メートル以上はありそうな場所である。

「こんな海のど真ん中に浅瀬が? 何かの間違いじゃ。」

「いや、昔から漁師仲間ではよーく知られている。大潮の時にゃ、海の底まで見えるだ。」

 源吾爺さんは自信たっぷりに説明した。洋一はまだ信じられないという表情で何度も海図を確認した。

「何か問題でも? この赤い印は何だ?」

 ブラウン教授が心配そうに横から口を挟んだ。洋一は二言三言、源吾爺さんの主張を英語に訳して伝えた。一頻り頷きながら聞いていたブラウン教授は、なるほどと言わんばかりにニヤリと笑った。

「やっぱり、俺は正しかったな。」

 教授は満足そうに目を細めて源吾爺さんの方を見ていたが、やがて堰を切ったように話し始めた。

「俺はこの人の言うことは正しいと思う。我々の調査では、かつてここに大きな島があったと見られている。それが今から1万2千年程前、海水面が急上昇した際に海の中に沈んでしまったんだ。」

 教授の話を聞いて今度は洋一の方が驚いた。伝説くらいにしか思っていなかった海に沈んだ大陸というものが本当にあったのだ。仮に源吾爺さんの言うことが正しければ、氷河期が来れば海水面が下がり、この付近にも巨大な島が姿を現すことになる。日本の領土は倍になるどころでは済まないかもしれない。まだまだ洋一の知らない未知の可能性が眠っていた。洋一の頭の中に再び畠山首相の言葉がこだまし始めた。

「洋一、本当によくやった。この方を水先案内人雇えて、我々は本当にラッキーだった。」

 教授は満足そうに微笑んだ。洋一が教授の言葉を手短に源吾爺さんに伝えると、今度は源吾爺さんが嬉しそうに頭を掻いた。

「よーし、今日はこれまでにしよう。ところで今夜は君たちを船長主催のディナーに招待したいんだが。」

 教授は再び快活な笑顔を振りまいた。


 その夜、船長室で歓迎のディナーが開催された。

「こりゃ煮付けにした方が美味いのに。こりゃだめだ、これじゃ魚の味が台無しだ。」

 その夜は小笠原の海で採れた新鮮な魚がメインコースに載せられたが、源吾爺さんの口には合わなかったらしい。言葉が解らないことをいいことにしきりと文句を言いながらも、源吾爺さんは殊のほか上機嫌で給仕される料理に箸を運んだ。ナイフとフォークを使い難そうにしていた源吾爺さんの様子を見て、料理長が気を利かして箸を用意してくれたのである。そんな細やかな気遣いを知ってか知らずか、源吾爺さんは1人がつがつと皿に向っていた。

「幻のバクテリアは本当に見つかるんでしょうか。自信がないんですが。」

 茜が心配そうに教授に尋ねた。

「大丈夫きっと見つかるさ。いや見つけねばならん。」

 教授は確信半分、願望半分で呟いた。幻のバクテリアはもはや一研究者の宝捜しの域を超えていた。全人類の運命が、目に見えない微生物の発見に掛かっていた。教授はその使命感の大きさを言外に言い表わそうとしていた。


 翌日、今度は健三も交えて海図の検討が続けられた。

「じゃあ、この赤い点が海ナマズのよく揚がる場所ですね。」

 茜は念を押すように健三に尋ねた。

「そうだ、少なくともここ1年ばかしの間に海ナマズが揚がったところだ。」

 健三が付けた印は、丁度昨日源吾爺さんが浅瀬があるといって印を付けた海域の周辺部を取り巻くように並んでいた。

「やはり深層海流の影響ね。太平洋の南西方向から流れ込んだ深層海流は、この大きな浅瀬にぶち当たって、二手に分かれて進んでいるんだわ。その深層海流の流れが弱くなったんで、海ナマズはえさを求めて水面近くまで上がってきているのよ。」

 茜は改めて海ナマズの行動パターンを推測した。

「でも、問題はこの海ナマズがどこで幻のバクテリアを呑み込んだかだ。それが分からないと。」

 洋一は当然の質問を発した。海ナマズが揚がった地点と海ナマズがバクテリアを呑み込んだ地点とは必ずしも一致しないかもしれない。やみくもに深海底を調査し回ったのでは、何年経っても見つからないかもしれない。茜は赤い点を追いかけるように海図の上を行ったり来たりしてみたが、簡単に答えは見つかりそうにもなかった。

「とにかく、この辺から調べてみるか。」

 考えあぐねている茜を見かねた教授が適当な場所を指差してみた。とにかくいつまでも海図の上でこうやってにらめっこをしていても事は前に進まない。考えるよりはまず実行である。しかし、その時健三の眉がピクリと釣り上がった。

「そこはだめだ。」

「どうして。」

「そこは危ない。しょっちゅう海の色が変わるんで漁師仲間は誰も近寄らねえ。」

「海の色が変わる?」

 洋一は思わず眉をひそめた。海の色が変わるとは一体どういうことか。

「時々海の色が茶色に濁るんだ。」

 健三は真剣に説明する。

「海底火山かもしれないわ。」

 今度は茜が呟いた。なるほど海底火山の可能性はある。この辺り一体は富士・小笠原火山帯の真っ只中にある。海底火山の1つや2つあっても不思議ではない。

「何の話だ?」

 脇からブラウン教授が興味津々で割り込んできた。

「火山ですよ、海底火山。恐らく。」

 洋一が通訳する。

「火山? それだ、それだよ。なかなかいい着眼だ。」

 教授は嬉しそうにはっしと手を打った。

「きっとでかい熱水鉱床があるはずだ。」

 その瞬間、茜の口からあっという声が漏れた。「熱水鉱床」、まさに海底に湧く温泉である。火山帯の近くにある深海では数多くのミネラルを含んだ熱水が湧き出る場所が見付かることが多い。熱水鉱床の近くではそうしたミネラルをエネルギーの糧とする微生物が数多く棲息し、それらの微生物をまた糧とする深海生物が集まってくる。光も届かない闇の世界で、しかも何百気圧という超過酷な条件下で外の世界とは隔絶された独自の生態系が形成されているのである。太古の世界から人跡未踏のこの別世界であれば、幻のバクテリアがいる可能性が高い。

 洋一は改めて教授が水先案内人を連れて来いといったことの意味が分かったような気がした。こうしたちょっとした海の変化は毎日そこで働く者にしか分からない。大海原のど真ん中では、知識や学識は二の次なのである。

 しかし喜びも束の間、洋一と茜は教授の顔が急に険しくなったことに気付いた。

「どうかしましたか。」

 今度は洋一が心配そうに教授の顔を覗き込んだ。

「ああ、大問題だ。火山は日本の排他的経済水域内にある。」

 教授は本当に困ったという表情で頻りと顎鬚を撫でくり回した。「排他的経済水域」、国連海洋法条約で各国の主権を認められた水域である。この水域の中にあっては漁業権や資源開発権等の経済的権利はその国にのみ独占的に認められる。従って、いくら調査といっても許可無く他国の船舶がこの水域内に出入りすれば、臨検、拿捕の対象となる。

「我々は日本政府の許可なくこの領域に立ち入ることはできん。」

「どうかしたのか。」

 場の雰囲気が一瞬凍り付いたことに気付いた健三が、恐る恐る洋一に尋ねた。

「いや海底火山のある場所が、日本の排他的経済水域内にあるんでイギリスの船は近寄れないと。」

「何だ、そんなことか。」

 健三はそんな全員の心配を一蹴するかのように言い放った。

「何かいい方法でも?」

「密漁だよ。密漁。」

「密漁?」

「ああ、皆やってるさ、この辺じゃ。中国やフィリピンの船はしょっちゅう見掛ける。ここは黒潮のど真ん中、本当にいい漁場だ。皆要領を心得たもので、日本の海上保安庁の船に見つかる前にドロンさ。」

 魚の水揚げが減っている中で他国の船による密漁は余計腹が立つのであろう。漁師たちにとってはまさに死活の問題であった。

「そんなにうまくいくものだろうか。」

 洋一は俄かには信じられないという素振りをして見せた。

「ああ、密漁を始めても最低8時間は巡視艇は来ない。やつらもそれを知っていて巡視艇が到着する前には公海に出る。まったく、泥棒猫みたいなやつらだ。」

 洋一の口にもう言葉はなかった。尋常な手段では幻のバクテリアは手に入らない。今ここで国際法や条約のことを議論しても始まらなかった。洋一は静かにブラウン教授の方に向き直ると一言ポツリと通訳した。

「8時間だけなら。」

 教授は洋一の意図するところを見抜いてか、静かに頷いた。


「公海上から問題の場所まで約2時間、そして潜行に約2時間、海底での作業を1時間として、浮上に約2時間。どう見ても行って帰ってくるのに9時間は掛かる。」

 洋一は何度も行程を検討し直してはため息を漏らした。

「でも八時間というのは最低の時間でしょう。運がよければ10時間だって気付かれないかもしれないわ。」

 茜は何とか洋一を説得しようとするが、洋一は慎重だった。

「いや小さな漁船ならそうかもしれない。でもこの船は3000トンもある海洋調査船だ。見つからない訳はない。もし見つかったら一大事だ。」

 確かに洋一の言う通りであった。イギリス船籍の海洋調査船が日本の排他的経済水域内で何やら隠密の調査を行っていた、しかもそれに日本の科学者が同乗していたなどということが明るみに出れば、それこそ一大事である。

「我々のゴールは我々だけのものではない。人類全てのためのものだ。」

 教授は静かに目を閉じて天井を仰いだ。教授の決意は固かった。洋一は茜の言葉を思い出していた。幻のバクテリアは人類共通の財産だ。それが政治的な意図で利用されてはならない。どのような困難が待ち受けていようと、自分たちは真実を調査し、その結果がどのようなものになろうと等しく全世界の人々の前に明らかにする義務がある。教授の選択に間違いはなかった。


 決行はその日の夜と決まった。夜であれば多少なりとも発見が遅れるかもしれない。そして万一発見されても逃げ果せるかもしれない。

「ごめんなさい。私のせいでこんなことに巻き込んでしまって。」

「いや、こっちこそあんな研究をしたばっかりに。」

 洋一と茜は後甲板に出て、沈み行く太陽を見詰めていた。地球温暖化を巡ってこのような国際紛争がなければ、洋一と茜は平凡な1人の気象学者と1人の海洋生物学者として平和裏に結ばれていたであろう。それが今、こうやって太平洋のど真ん中で危険な冒険に加わろうとしていた。

「お邪魔だったかな。」

 洋一と茜は声のする方を振り向いた。ブラウン教授がゆっくりとパイプの煙を燻らせながら2人の方に近付いてきた。

「いえ、どうぞ、さあ。」

 洋一は教授のためにスペースを空けた。教授は甲板の手すりに肘を突きながら、茜色に染まった水平線を見やると、済まなさそうに呟いた。

「2人をとんだことに巻き込んでしまって済まなかった。」

「ご心配なく。私たちはなすべきことをしようとしているだけですから。」

「地球の気候を変えようなんて本当に馬鹿げた発想だ。アメリカ人め、あいつらは変わってしまった。もう昔の古き良き地球市民でなくなってしまったんだ。ほら、君たちもイラクのことは覚えているだろう。あいつらにとっては自分たちが正義で自分たちが支配者なんだ。」

 教授は憤りを隠せない様子で吐き捨てるように話を続ける。

「同感です。彼らは誤解しています。全てを自分たちが決め、そして世界を自分たちの思う方向に導いて行けると思っている。」

 洋一は真っ直ぐ前を見つめたまま思うところを口にした。

「そうだ、君の言う通りだ。誤解だ、あいつらは誤解している。」

 教授はうれしそうに相槌を打ちながら頷いた。そして最後に力強く言いきった。

「わしらがその誤解を解いてやらねばならんのだよ。」


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