第3話 最後通牒

 小さな手のひらが乾いた布を打ち、軽い身体がマットに着地する。四年生になっていた子供たちが広い体育館に散り、跳び箱に精を出していた。授業中にもかかわらず体育館はどこか肌寒く、バケツをひっくり返したようなひどい雨音が響いている。運動着の袖から伸びる腕を軽くさすり、霧矢は眼前にそびえ立つ九段の跳び箱を一瞥した。横から太一が顔を出し、困ったように眉をひそめる。

「霧矢、それマジでやんのかよ」

「やるけど。多分いけるだろーし」

「やんのかよっ! 霧矢ってたまに調子乗るよな……はは……」

 若干引き気味の声を背に、霧矢は軽く腕を回す。妙に据わった目で跳び箱の高さや距離を目算すると、一度深呼吸し、勢いよく踏み込んだ。その勢いを殺さぬまま助走をつけ、高い音を立てて踏み切り、左手だけで上部の布を叩く。乾いた音が体育館に反響し、伸びつつある黒髪の襟足がなびいた。空いた右手は空中で粗野に振られ、雑な推進力を生み出すふりをする。適当なタイミングで左手も離すと、敷かれた安全マットに飛び降り……

「っ、うぉっ!?」

 ……膝から落ちた。そのままうつ伏せに倒れかけて、ギリギリで手をついて踏みとどまる。マットのおかげで痛みこそないものの、両の頬が堪えがたい熱を帯びる。太一がマットの方に回り込み、あっけらかんと彼を覗き込んだ。

「大丈夫か? ……まぁ霧矢なら大丈夫か! ドンマイ!」

「うっせぇよ! いけると思ったんだよ……つか見んな!」

「見んなって言われてもなぁ。と、とりあえず先生にはチクんないでやるからな!」

「余計なお世話だわ! てか、これ死ぬほど恥ずいな……あー」

 片手で顔を覆いつつ、霧矢はのろのろと立ち上がった。三白眼気味の瞳がばつが悪そうに細められる。黒髪を掻きむしりながら列に戻ろうと足を踏み出し――と、甲高い悲鳴が鼓膜を引き裂いた。


「痛……ッ!」

「真凛!?」

 霧矢たちが陣取っている跳び箱のひとつ隣――八段の箱。その向こうに女子たちが駆け寄り、蹲っている影に必死に声をかけている。体育館中の空気が凍りついたような錯覚に、霧矢の横で眼鏡の男子が息を呑んだ。ジャージ姿の担任教師が子供の群れに割って入って、辛そうな息をもらす女子に声をかける。

「真凛さん!? ……どうしたんですか!?」

「先生! ……真凛、さっき跳び箱から落ちたみたいで」

「――ッ」

 張りつめた空気がこちらにまで伝わってくる。跳び箱の向こうに手を伸ばしかけた手は、中途半端な位置で固まっていた。真紅の瞳が躊躇うように揺れて、何かを拒否するように強く瞑られる。跳び箱の向こうに踏み出しかけてはとどまりを繰り返し、霧矢はただ立ち塞がる跳び箱を見つめ続ける。

「……わかりました。もしかすると腕の骨が折れているかもしれません。真凛さん、一度保健室に行きましょう。立てますか?」

「うぅ……はい……」

「先生、私付き添います」

 ベリーショートヘアの女子がそう買って出て、真凛を支えながら保健室に向かって歩き出す。担任教師ともども体育館から姿を消すのを見送って……跳び箱の陰から出てきた太眉の女子が、突如キッと霧矢を睨みつけた。


「霧矢さぁ。何でさっき、真凛のこと助けなかったの」

「……は?」

「普段は相手が誰でもすぐ助けてたじゃん。ねぇ、何で今回だけ黙って見てたわけ? そういうのサベツだと思うんだけど」

 木槌の音に似た声が広い体育館に響き渡る。太眉の下の瞳が炎のような色を宿し、声すらも出せないらしい霧矢を射抜いた。演説に群がる支持者のように他の女子たちが彼女を囲む。皆一様に銃口のような目をしていて、霧矢は思わず一歩後ずさった。

「……それ、は」

「おい、そういうのやめろよ!」

 飛び出してきた太一が霧矢の前に立ち、彼をかばうように片手を伸ばした。居並ぶ女子集団を強く睨みつけ、声を張り上げる。

「霧矢は悪いこと何もしてねーだろ!」

「何もしてないから悪いんじゃんッ!」

「そうじゃなくてさ……何でお前ら、助けてもらって当たり前みたいな顔してんだよ。霧矢は道具じゃねーんだよ! そういうのサイテーだと思うんだけど」

「サイテーなのは霧矢じゃん! だいたいこっちには助けてもらうケンリがあったんですけど」

「それ言うなら霧矢にだって助けるか助けないか選ぶケンリはあるだろ! それに真凛は霧矢のこと嫌ってたじゃん。なのに助けろって言うのは流石に酷くねーか? 霧矢の気持ちもちょっとは考えてやれって!」

 女子集団の数人は気まずそうに視線を伏せるけれど、太眉の女子は唇を醜く歪めた。地団駄を踏む高い音が体育館に反響し、子供たちの鼓膜を刺し貫く。

「はぁ? ウッザ……!」

 そして、最後通牒は叩きつけられた。


「使える天賦ギフトあるんだったら使って当たり前じゃない!?」

「――ッ」

天賦ギフト持ってるのに使わない方がおかしいよ。そういうの『宝の持ち腐れ』って言うんだよ。ってか霧矢の気持ちとかどうでもいいし! 助けないなら、この世にいる意味ないじゃんッ!」


 ……ずき、り。

 言葉が心臓に突き刺さり、粘性のある血が滴り落ちる錯覚。見開いた目に映る景色が、濁流にのまれるように黒く汚れていく。

(……助けないなら死ね、だと)

 ぎり、と音を立てて歯を食いしばる。握りしめた拳に爪が刺さり、表皮が破れた。反駁したくて、否定したくて、それでも喉に籠る熱は何一つ言葉にならない。液体窒素をあてられたように急激に下がる体温とは裏腹に、声帯と心臓は壊れそうなほどの熱を孕んでいた。

(俺がいる意味はそれしかねーのかよッ)

 怒鳴り声の不協和音がうるさい。雨音すら彼を責め立てるようだ。蠢く心臓が何かを叫んで、内側から彼を壊していく。

(……そんなの認めねえ。認めたくなんかねえ)

 爪が手のひらを裂き、ぷつりと紅い水滴が浮かんだ。叫びだしそうなほど熱を持つ喉を押さえ込むように唾を呑む。病毒に冒されたように心臓が燃え立ち、黒い火花とともに一瞬で正気まで――


「ひ、ぎゃっ!」

 太眉の女子の悲鳴が耳を掠めて、濁りきった視界がようやく開けた。自らの拳をまじまじと見つめて、体育館の床に転がっている女子を眺めて、霧矢はほどきかけた拳をまた握る。

(あ――オレ、今こいつを殴ったのか)

 視線の先で太眉の女子がのろのろと起き上がる。雨に濡れた子犬のような、それでもナイフを隠し持っているように輝く目。憎々しげなそれを見下ろす真紅の瞳が、重量のある鈍器のような光を湛えていく。

「……ふざ、けんなッ」

 呟いて、女子の胸ぐらを乱暴に引っ掴む。太眉の下の目を見開く女子の頬骨を殴りつけ、勢いを殺さぬままボロ雑巾のように床に叩きつけた。じんじんと痛む拳さえ、心臓に籠る熱を膨張させるようだ。クラスメイトたちの悲鳴と制止の声が耳を冒す中、霧矢は内に籠る熱を吐き出すように拳を振るい続けた。

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