[6-4]ピアノとあやかしの力
「遅い」
音楽室の引き戸を開けると、不機嫌そうに眉を寄せる
「ご、ごめんなさい」
「俺様を待たせるんじゃねえよ。どうせ、そこの鬼の少年が
慌てて頭を下げる。顔を上げたら、
彼の後ろにいる先生は
けど、なぜかそばにいる
さっきまで無表情だったのが、不機嫌な顔になっている。さすがに
「……千秋」
「あん?」
「
彼がぽつりと口にしたのは詰る言葉でも挑発的な言葉でもなく、自分自身の名前だった。
そっか、自己紹介! 思い返してみれば、昨日
「あはははっ、こりゃ態度の悪ぃガキだな! いいぜ、千秋。ちゃんと自己紹介できたじゃねえか。素直なやつも好きだが、生意気なガキも嫌いじゃないぜ?」
というか、彼の場合、わたしのことも雨潮くんのことも子供扱いしてるような気がするわ。
昨日の今日で、だんだんとわかってきた。たぶん、
「もう、
ぐいっと差し出された
昨日は天狗の姿になったり喧嘩を止めたりしてた時も動じなかったし、先生も非日常のようなあやかしとの付き合いに慣れているのかもしれない。
たしかに先生や
教室内の時計を見ると、とうに四時を過ぎてしまっていた。
街中に住んでいる
「
手渡してきたのは二、三枚の歌詞が入っていない楽譜。教室でもらったものとは別の、ピアノ演奏用の楽譜だった。
コーラス合唱でピアノ演奏するっていう機会はあまりないし、むしろ先生のお誘いはうれしいくらい。十二歳の時にピアノをやめてしまってから、学校の友達にピアノの演奏を聞いてもらう機会なんてあまりなかったもの。
「でも先生、わたしでいいんでしょうか? ピアノは好きだしある程度は弾けるけど、実はずっとやめていて。再開したのは最近なんです」
夏休みの終わりにピアノを始めてから、まだ一ヶ月と少し。人前で披露したのはメヌエットと簡単な童謡だけ。毎日練習は続けているけれど、正直あまり自信はない。
きっとピアノの腕前なら先生が一番上手いとおもう。音楽の先生だもの。
「いいのよ。ピアノは私がちゃんと見てあげるから大丈夫。なにも心配はいらないわ。当日私は指揮をしなきゃいけないから、ピアノを弾いてくれる人がどうしても必要なのよ。楽譜を見てみて、難しそうだと思ったら無理にとは言わないけれど」
そっか、そうだよね。当日は先生が指揮者になるんだった。すっかり頭から抜けてたわ。
やさしく背中を押すような先生の言葉に、少しだけ元気が出た。手もとの楽譜を改めて読み込んでみる。
印刷された譜面を見ながら頭の中で思い浮かべる。白と黒の鍵盤に指を置いて、演奏している自分を思い浮かべてみた。幸い知っている曲だからイメージはしやすい。
難易度はそれほど高いわけじゃない。簡単な曲じゃないけど、練習を重ねれば弾けるかも。
ふいにアルバくんの顔が頭に浮かんだ。
悪夢から現実に帰ってきたあの日から、毎日練習を重ねてピアノを弾き続けてこられたのはアルバくんがいつでも喜んで聴いてくれたから。
新しい曲に挑戦してピアノの腕を上げたら、また聴いてくれると思う。
「大勢の人の前でピアノを弾くのは初めてだし、想像しただけですごく緊張します。練習しないとうまく弾けないと思います。でもやってみたいです。先生、わたしにピアノを教えてくれませんか?」
「もちろんよ」
一つ返事で先生はうなずき、にこりと微笑んでくれた。
こうしてわたしは先生にピアノを教えてもらえることになった。
☆ ★ ☆
ひと通り曲を弾き終わったあと、先生は尋ねた。
「どう、
わかりきっていたことだけど、やっぱり初めての演奏はひどいものだった。ミスしまくりだし、音も外しまくり。譜面を音で追いかけるのに必死で、強弱をつける余裕さえない。
やっぱりかなり練習しないとだめみたい。
ピアノを弾いている時、
膝の上にいる
「んー、まぁ大体はな」
おにぎりを頬張る
「癒し力はやっぱり親譲りのもんだな。母親が薬を塗る役目を負った
突然話題を向けられて、思わず姿勢を正す。ピアノも能力を見極めるって話だったんだから、話題はわたし中心になるのは当たり前だ。
「はい、そうなんです。だって、ピアノ以外は特別な力はないですし」
「それなら、お前は意図せずピアノの音に妖力を織り込んでるんだろうな。妖刀があるって自覚がないあたり、自在には操れないんだろうが……」
ピアノの音にあやかしの力を織り込むって、そんなこと無意識にできるものなんだろうか。それって、
「ピアノの力は弾き始めてからずっとなのか?」
わたしのピアノに特別な
ピアノを弾き始めたのはお父さんがきっかけだった。
家にピアノがあったのは、もともとお父さんが趣味でピアノを弾いていたからだ。練習を始めた時はお父さんに特別な力があるとは言われなかったし、お母さんもなにも言ってなかった。
わたしのピアノに癒しの力がある。そうわかったのは、
「いいえ、違います。わかったのは五年前、ですね……」
あやかしもことや鵺の情報を
気づいているのかいないのかわからないけど、
「ふぅん。そん時はどんな気持ちでピアノを弾いてたんだ?」
もしかして、
さらに質問を重ねてくる。
最初は片手だけしか弾けなかった。練習をしていくうちに両手でも弾けるようになって、難しい曲にも挑戦できるようになったっけ。
上手に弾けると両親は喜んでくれた。お父さんはたくさん褒めてくれたし、お母さんは抱きしめてくれた。
もともと好きで始めたピアノだった。弾くたびに二人に喜んでくれるのがうれしくて、もっと上手になりたいって思ったんだよね。
「うまくなるたびに両親は喜んでくれました。お父さんとお母さんの喜ぶ顔がうれしくて、もっとうまくなりたいって思って。特にお母さんはほんとに嬉しそうに聞いてくれたから……」
ピアノをやめたのは鵺の襲撃がきっかけだった。もうあんな痛くて怖い思いをするくらいなら、やめた方がいいと思ったの。お父さんとお母さんはわたしの意思を尊重してくれて、ピアノや楽譜の話すらしなくなった。
そんなわたしがこうして再び鍵盤に触れられるようになったのは、アルバくんのおかげだ。最初の悪夢にうなされた時、彼は夢を諦めるなと言ってたっけ。
もしかしてアルバくんは最初からわかっていたのかな。誰かに喜んでもらうためにピアノを弾くのがわたしの夢なんだろうか。
ふと顔を上げると、
「それなら、簡単だ。お前にとって大事な誰かを想い始めたのがきっかけで、癒しの力が発現したんだろ。音にのせてヒトやあやかしの傷を癒す。その能力そのものが、お前の
そういえば、いくつか思い当たることがあるわ。
ここ最近は、特に癒しの力が強くなった。たぬきくんのために童謡を弾いたあの時、墨色だったアルバくんの耳や尻尾、そして髪さえも真っ白に戻ったんだもの。
アルバくんは初めて夢の中で会った時、わたしのピアノが聴きたいと言ってくれた。
だからわたしはアルバくんのことを想ってピアノを弾くことが多くなったんだわ。
もっと上手くなりたい。いつか夏の終わりに見た夢のように、現実の世界で彼に聴いてもらいたい曲があるから。
「それって強く願えば願うほど、癒しの力が強くなるってことですか?」
「そうだな、そう解釈した方が
ピアノなんてただの楽器で刀みたいな武器じゃないのに、
ふいに、
小さな手をピアノへ伸ばし、白い鍵盤に触れる。
「あたし、ピアノの音がすき」
「えっ」
ぽろんと音が鳴る。手探りで
にこにこと笑った顔はとても可愛くて、声は弾んでいた。
気がつくと、わたしは無意識に
察しのいい彼はわたしの顔を見返し、機嫌よく笑って教えてくれた。
「ピアノは身体の傷だけじゃなく心の傷を癒す、お前だけが持つ最強の武器だ。人見知りで怖がりだった俺様の娘がこうも変化を見せてるのがその証拠。大事に磨けば、より多くのあやかしを救うことのできるすごいものなんだぜ」
その言葉で、張り付いていた心のウロコが、ひとつ剥がれ落ちる。
誰かを傷付ける物だけが武器じゃない。わたしのピアノのように、傷を癒して誰かの助けになる力だって武器になり得るんだわ。
無茶をせずにわたしだけができること。改めてそれを見つけた瞬間だった。
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