[5-9]右目の傷

 久遠くおんさんから告げられた言葉はとても衝撃的なものだった。

 まさか、ぬえ小夜さよちゃんのお母さんの仇だったなんて。


 ほんの数十分前。座布団に腰を下ろしお茶をすすっていた九尾きゅうびさんの言葉が、頭の中で響いてくる。


 ——久遠くおん君は幼い娘を抱えていたからね。助けになればと思ったんだよ。どうやら辛い目に遭っていたようだから。


 普段キラキラ輝いていたきんいろの瞳は、この時ばかりは少し陰っていた。

 九尾さんは久遠くおんさんの事情を知っていたんだわ。その辛いことが、小夜さよちゃんのお母さん、つまり元奥さんを殺されてしまったことだったんだ。


「鵺が仇って……。まさか、お前まで鵺にやられてたのか」


 覚悟を決めたように眉を寄せ、アルバくんが尋ねた。

 錫杖を持った右手をそのままに、久遠くおんさんは左手を腰に当て、わたしたちを軽く見返してきた。背の向こうにある大きな黒の両翼が少し広がった。


「俺様じゃねえよ、家族がやられたんだ。そもそも俺様がこの町に移住してきたのは鵺のことがあったからだ。あの猿、事もあろうに小夜の目の前で母親を殺しやがった。だからもう、京の山にはいられなくなっちまったんだよ」

「そう、だったんですか」


 ありきたりな言葉しか出なかった。なんて中途半端な返事なんだろう。

 久遠くおんさんになんて声をかけたらいいかわからない。


 彼の言葉から語られた事実はわたしが思っていた以上に重く、悲しい過去だった。

 挨拶した時も車の中でも小夜さよちゃんは口数が少なかった。話しかけると返事をするのは決まって久遠くおんさんや先生にだけ。大人しい子なのかなと思っていたけれど、たぶんそうじゃない。まだ心の傷が残っていて、悲しくて苦しい思いを小さなからだの中に抱えているんだわ。


 わたしはまだ大切な誰かを亡くしたことはない。だから久遠くおんさんや小夜さよちゃんが抱える悲しみを本当の意味でわかってあげられない。どうしたら、慰めてあげられるんだろう。


「そんな顔すんじゃねえよ、紫苑しおん。何も感じないわけじゃないが、過ぎた過去はもう変わらない。大事なのはこれからどうするかだ」

「これからどうするか、ですか?」

「ああ、そうだ」


 強く頷いて、久遠くおんさんは唇を引き上げた。


 そうだよね。昔を振り返ったってなにも変わらない。大事なのは前を向いて歩いて行くことだもの。わたしだって、夢の中でアルバくんに背中を押してもらわなかったら、今もまだピアノに触ろうとしなかったのかもしれない。

 そう思ったら、風船みたいに心が軽くなった。

 元気づけなきゃいけないのはわたしなのに、逆に励まされてしまったみたい。


「アルバ、お前に聞きたいことがある。鵺がひそんでいるってどういうことだ。包み隠さずに全部教えろ」


 そう久遠くおんさんが言ったのをきっかけに、アルバくんは事情を説明してくれた。

 五年前、わたしが鵺に襲われたこと。その時は九尾さんが月夜見つくよみ市から追い払ってくれたこと。

 さっきアルバくんと刀を交えていた雨潮うしおくんが半妖の退魔師で、鵺を追って京都からやって来たこと。

 そして縄張りの主である九尾さんでさえ鵺の居場所がつかめてなくて、ここ二週間ほど雪火せっか雨潮うしおくんで鵺の足取りを追っていること。

 そのすべてを久遠くおんさんに話した。


 話を聞いた久遠くおんさんは顎に指を添え考え込むような仕草をしてから、顔を上げた。


「なるほどな。お前たちは鵺の特徴に関してどのくらい情報を掴んでいるんだ?」

「情報、ですか? えっと、たしか暗い青紫の体毛で、紅い目をした毛むくじゃらのあやかしでした。でも、鵺って幻術が得意だから体毛は自分で変化させることができちゃうんですよね?」

「姿を変えるってなると、手がかりは目の色だけだろ? これじゃ手がかりが少なすぎて雪火せっかと千秋が調査に難航するのも無理はねえよ」


 そう言っていたのはたしか雨潮うしおくんだったっけ。

 得体の知れないあやかしだから、見つけるのがすごく難しいって言っていた。色まで変わっちゃうんだもん。


 付け加えたアルバくんの言葉を受け、久遠くおんさんは考えるような素振りをやめ、なぜかにやりと笑った。


「なら、俺様が情報を一つ追加してやろう。鵺はここの、右目が潰れているはずだ」


 長い指先で自分の右目を差して、久遠くおんさんはそう言った。

 アルバくんが怪訝そうな顔で尋ねる。


「右目が潰れている? どういうことだ?」

「この俺様が直々に、この妖刀で潰してやったんだよ。小夜さよの母親をあいつが殺した時にな」


 右手に握られた錫杖がしゃらんと涼やかな音をたてた。やっぱり、その杖が久遠くおんさんの妖刀だったんだ。


「姿形や毛の色は変えられても、怪我までは誤魔化しようがない。仮に幻術でうまく隠せていたとしても、片目しか見えていないはずだ。挙動を観察していれば分かる」

「たしかに」


 目を怪我しているというのは新たな手がかりかもしれないわ。これ以上ないっていう特徴なのかもしれない。わたしもこれからその挙動がわかるよう、ちゃんと相手を観察しておいた方がいいのかな。


 隣でアルバくんが腕を組み、視線を落とした。なにを考えているのだろう。


「あと、情報をもう一つ追加してやろう」


 もう一度長い人差し指を立てて、久遠さんはまたにやりと笑った。


「奴が現れる時はたいてい煙が発生し、逃げる時もたいてい煙になって消える。だから一旦逃げられると俺様でも捕まえるのは難しい。だが、あやかしや半妖の子供を狙うくらいだ。強さは大したもんじゃない。たぶん、あの鬼の少年でも倒すことは可能だろう。まあ、アルバ、ばくのお前には無理だろうな」

「……お前喧嘩売ってんのか」


 長い白毛の尻尾がふくらんだ。アルバくんが藍の瞳を据わらせて睨んでも、久遠さんはにやにやと笑うだけ。きれいに無視スルーして続けた。


「倒すなら迅速に、が鉄則だ。時間を長引かせるな。結局のところ、九尾にも俺様にも鵺を殺せなかったのは、奴の逃げ足の速さだ。見つけ出したらすぐに叩け」

「わかった」


 無視されたことに、アルバくんはあえて突っ込まずに頷いた。もしかしたらこれ以上文句を言ったって無駄だと思ったのかもしれない。それとも別のことを考えていたりするのかな。

 最近のアルバくんはちょっと変だと思うの。

 思いつめることが多いと思ったら、今日みたいに人間に化けて現れたりするし、よくわからない。


 けれど、わたしも久遠くおんさんの助言はちゃんと覚えておくようにしよう。

 アルバくんが久遠くおんさんの羽団扇はうちわをわたしに貸してくれるよう強く頼んでくれたのは、わたしを鵺の脅威から守るためだ。

 雪火せっか雨潮うしおくんも必死に鵺の手がかりを探してくれている。

 わたしもなにかできたらって思うけど、今のところピアノを弾くくらいのことしかできない。あとできることって言えば、羽団扇を肌身離さずもって、自分の身を守るくらいのことしか――。


「そういや、紫苑しおん。後でお前のピアノを聞かせろよ」

「へ?」


 不意を突かれて、変な返事をしてしまった。

 なんでピアノ?


「ピアノですか? 久遠くおんさん、どこか具合が悪いんですか?」


 わたしが弾くピアノにはあやかしを浄化したり傷を癒やしたりする能力がある。だからてっきり久遠くおんさんも体調が悪いのかなと思ったのだけど、そうじゃなかったらしい。

 わたしの顔を見るなり、久遠くおんさんはぷっと吹き出し、大きな声をあげて笑い始めてしまった。

 なにがそんなにおかしいのだろう。


「そうじゃねえよ。お前は自分の能力がどんなもんなのか知りたくないのか?」

「それは知りたい、ですけど。でもわたし、雨潮うしおくんと違って何か特別な力を持った半妖ってわけじゃないです。妖力だってないですし」


 わたしの能力はピアノの音色であやかしを癒やすことだけ。あとはなんの特別な力を持たない普通の高校生なのだけど。それに妖刀を作れないってことは、妖力がないってことなんじゃないのかな。


「そんなことはない。お前からはちゃーんと妖力は感じるぜ? どういうカラクリでお前のピアノが浄化の作用を持っているのか。この俺様が直々に見極めてやろう」


 黒い両翼を広げて、久遠くおんさんは機嫌よく笑ってそう言った。


 うそ、わたしって妖力があるの!?

 そっとアルバくんをのぞき見る。彼はわたしの尋ねたいことを察したのか、苦笑して頷いたのだった。

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