【連載】大宮の夜

蓮太郎

大宮の夜(総論)

 口をすぼめて、鼻先に当たる上唇を嗅ぐ。

 柔らかな産毛の感触。なんとも言えない動物的腐臭。


 激しいセックスをしたあとは、いつもこうだ。


 (ほんと、くっせえ)


 でも、嫌いじゃない。そう小さく呟きながら、左手の中指と人差し指を鼻先に。うわっと強烈。複雑怪奇。乾いた皮膚に擦り付けられた体液は、もう一生拭えないのではないか。


 目を瞑って恍惚としていると、横から声がする。


「なにしてんの?」


 振り返ると、少し怪訝そうにリエがこっちを見ている。

 瞳をとじて〝カトちゃんペ〟をしている俺は変態だ。


「なんでもないよ。ちょっと考えごと」

「いつもシンは考えごとしてるね」

「まあね」

「そろそろ行かなきゃだね」


 ライトパネルに目をやると、もう6時半をまわっている。

 ショーツが、ひどく汗ばんでいる。股間が冷たい。


「シャワー浴びてきなよ」

「時間あるの?」

「少しなら」

「まだアソコが落ち着かないよ」


 リエは、潤んだ眼ではにかみながら、浴室へ向かう。

 僕は、ジュっと火をつけタバコをフかす。ジジ、とオレンジに発火した棒先を見る。すうっと深く息を吸い、ゆっくり鼻から吐き出す。ふうと、薄々靄にくゆる煙を眺める。疲労感しかない。そういえば、今日って何曜日だっけ、確か、授業はあったよな。どうでもいいんだけどさ。あぁ、眠いったら。


 微睡む。思いがけず一瞬。

 タバコの火は、既に消えかけている。


「遅くなって、ごめんね」

 微かなソープの香り。


「全然」


 もう1本吸おうとしたタバコを、パッケージに押し込む。


「髪かわかした?」

「洗わなかったから」


 リエはもう服を着ていた。パンツを履く。一度脱いだ服をもう一度着るのは嫌だ。シャツからは必ずと言っていいほど、汗臭い匂いがする。


「よし、行こう」

「うん」


 駐車場の自動料金払い機のような券売機に金を入れて、ドアロックを解除する。

 ドアを開ける。向かいの部屋が開いている。

 プラスティック容器に、たくさんのショーツとタオルが積み重ねられている。オバサンの尻が見える。オバサンは、いったいどんな気持ちで、誰のものだかわからない、濡れた、酸っぱいゴミやらショーツやらを回収しているのだろう。

 


 吐く息は白かった。

 この時間の表通りは混んでいるだろう。

 もうすっかり暗くなってしまった夕方の街の人通り。やっぱり池袋は人が多い。

 駅前の立体交差まで足早に歩く。信号待ち。リエがジャケットの裾を掴んでくる。振り返る。唇を結びながら、少しはにかんだ表情。あぁうぜえなぁ。まるで恋人気分か。


「7時18分だね」

「うん」

「すごい楽しかったよ」

「つぎ、いつ会えそう?」

「まだ、わかんないよ。忙しくて」

「いつもいそがしいね」

「大学生はやることが多いんだよ」

「冬休みはヒマじゃないんだっけ」

「サークルとか思ったより忙しくてさ、金もないからバイトしないと」

「そっか。私も休みなかなか不定期だから、またしばらくだね」

「ヒマな日あったら連絡するよ」

「うん。私も連絡するから」

「じゃあ、また」

「うん」


 キップを通したあと、もう一回リエが振り返って、〝バイバイ〟をした。俺も笑顔で手を振り返す。


 キップを買う。改札を通り、構内をさらに奥まで進んで、京浜東北線に乗った。思ったより車内は空いていた。俺は一番端の、手すりの横のシートに座った。リエのことを考えた。

 リエはいい子だ。優しい。だが、それは一般的な評価だ。俺にはただただ、気の弱い、精神薄弱な、普通の女の子にしか見えない。なにか、頼るべき拠り所がないとダメな、気の小さいコだ。確かにリエは優しいよ。俺の言うことだったらなんだってしてくれる。フェラだって頑張ってくれるし、体だって丹念に洗ってくれた。男だって、まだ三人しかしらないし、普段はこんなことはしないと言っていた。そんなことはどうでもよかった。リエは看護士だ。赤茶けた染みの着いたナース服を着させ、フェラをしてもらうのは溜らない。ただそれだけだ。俺からメールを送らなくても、リエからのメールは途絶えないだろう。ただ、自分の寂しさを補完するためだけに、俺を取り込もうとするだろう。うぜえ。めんどうくせえな。そろそろ離れないとな。

 列車が荒川を渡る。二隻の船が、窮屈そうに、狭い間をすり抜けていくのが見えたが、遠く小さかった。河原では、たぶん少年野球だろう。なにやら歓声のようなものと、河岸のほうに、一箇所に集中していく人の群れが見えた。一体何個のボールが荒川には落ちているのだろうと考えた。ボールをとりにいって落ち、死ぬことほどバカらしいことはないな、と思った。

 去年の夏、大学の前の川で、男の死体が引き上げられたのを思い出した。夏休みの学校は人がほとんどいなかった。川上から流れ、大学前の橋の下で、警察と、消防に回収されるまでの一部始終を俺は見ていた。友達には、川上からケツが流れてきてビビッたよ。なんて言ったが、実際はケツには見えなかった。いたるところに藻やら葉っぱであろう緑のからみついた、白い塊りだった。警察と、消防隊に回収されて、全体が明らかになった、むくんだ裸のどざえもんは、川上から見たときより思ったより緑はからまってなかった。波打った髪がべっちゃり頭皮に付着し、体のすみずみまで膠着したマネキンは、キューピー人形のように見えた。ただ、剥いた白目は仁王を思わせた。那羅延金剛だった。鬼だった。勝手に赤ちゃんの遺体だと思っていたが、翌日の新聞には三十六歳男性、と載っていた。下っ腹が異様にでていたし、なぜか裸だったからそう思ったのかもしれない。友達から見せてもらった、週刊誌の、スマトラ沖地震の被害者である子供の遺体も全く同じ体型だった。ただ、週刊誌のほうは、その後野犬に食い荒らされ、血塗れでさらにグロテスクであったが。

 携帯のバイブが鳴った。小林からのメールだった。とっくに遅れている俺は、直接百貨店の裏通りの飲み屋に来いとのことだった。

 スーパーアリーナが見えた。有機的に、整然と作られた新しい町並みは、人の気配を感じさせなかった。ただ、人の気配を感じさせないだけ、神聖だ。全体に、白を基調とした町並みはキレイだ。近代的だ。都内の、雑多な、ドブ臭い、ゲロ臭い酸っぱい町並みなんかよりは遥かにマシだ。たまのイベントに、大挙して来る人々を飲み込み、熱狂させるこの町は、あの宗教聖地となんら代わり映えしないと思った。


                 *


 大宮駅に着いた。人がたくさん降りる。久しぶりで懐かしい。二年ぶりだ。改札をでると、人の多さにうんざりする。改札を出てすぐの、天井に真っ直ぐに伸びた銀色のモニュメントの周りは、待ち合わせの人で溢れかえっていた。東口を出て、リスの銅像の脇をすり抜けて信号を渡り、アーケードをくぐった。雑多な町並みは、二年前と何も変わらなかった。相変わらずのキャッチや、ティッシュ配りの位置まで同じだった。嫌気がした。予備校のほうを見て廻ろうかと思ったが、雑多な人の波を掻き分けて先に進むのは躊躇われた。人並みの少ない路地裏を左手に折れて曲がり、百貨店の裏に出た。

 浪人卒業飲みの時と会場は同じだった。店員に言われるまま靴を脱ぎ、木の錠をした。部屋は奥だった。個別の部屋になっているのがこの店の良い所だ。予約をしたのか奇遇なのか、部屋までが一緒だった。少しの優越感を感じながら、障子を開けた。思ったより歓声は沸かなかった。ちらほら、おう、おぅ、シンだ、あっ、シンだと聞こえた。すぐ手前に小林の坊主頭が見えた。

「シン、おせえよ」

「わりぃ」

「みんな待ってんだよ」

「ああ、思ったより少ないんだな。いやいやみなさんお揃いで」

 ヨウコがいた。ユミがいた。リョウがいた。まっちゃんがいた。タカヒロがいた。ナベがいた。サトミちゃんがいた。まるがいた。アユムがいた。ん?アユムがいた。小林の隣に俺に背中をむけて振り返っているのはアユムだ。アユム、マジか。

「アユム久し振りじゃんか!来たんか、お前よく来たなあ」

 アユムと小林の間に割った。

「人数少ねーよ。話違うじゃん」

「みんな急がしいんだろ。けど俺も小林もいるじゃん」

「それ以外は知らねーよ。俺も遅れてさっき来たばっかだけど、ずっと気まずい思いしてんぞ」

 なんとなく雰囲気が大人しい理由がわかった。みんなこの知らないヒトに気を使っていた。

「みんな同じ予備校仲間じゃん。すぐ気まずくなくなるって」

「お前来ないんだったら来なかったよ。大体女少ねーよ。もっと女来んのかと思ったから」

「それはしょうがねーよ。てかお前自己紹介しとけよ」

「めんどくせーよ。いいよ、お前と喋って帰るよ」

 小林が割った。

「そうだよ、しとけって。たぶんお前のコトはほとんどが見たことはあるから」

「なんでだよ、俺予備校ほとんど顔出してねーし」

「お前は存在感あったからだいじょぶだよ」

 なんとなく、みんながこっちを見ていた。みんな変わってないな。女性人はみんな可愛くなってるけど。

「久し振りだなマジで。まっちゃんは地元でそこそこ会ってるから、いいやな。タカヒロ相変わらずだな。その髪型マッシュカットより全然いいじゃん。リョウも相変わらずだな。大学ではかなりモテるっしょ?あ、ナベ、大学合格おめでとう。マジすげえよ。サトミちゃんとまるは相変わらず付き合ってんだっけ?」

 ヨウコとユミは向かって正面だ。目が合った。

「久し振り。ヨウコもユミも、なにげ同じ大学なのに会わないよな。三人揃ったの入学式以来じゃない?」

「シン、忙しそうだから」

「ん、まあね」

 ユミはキレイになっていた。何回か、構内で遠目に見たことはあったが、近くで見ると断然キレイだった。予備校時代は親友だったくせに、ユミとヨウコは大学では一緒にいるのは見たことがなかった。前ヨウコと話したときは、よく相談したり、学外では一緒にいると言っていた。みんなそれぞれの学部に、それぞれの友達を持っていた。

 みんなほどほどに酔っていた。酒に弱いタカヒロはすでに真っ赤だ。サトミちゃんも真っ赤だ。ふすま脇に置かれたジョッキとグラスを見て、みんなもう三、四杯は飲んでいるように思われた。

「ああ、じゃあ俺なに頼もうかな、あ、そこらへんまだ飲んでないのあるじゃん。それでもいいけど。あ、生チューはないの?じゃあサワーでいいやおれ」

「あ、店員呼ぼうか?」

「いや、大丈夫。近くきたら呼ぶわ」

 話は弾んでいたのだろうか。俺がきて、少し気を使って、新しい話題は俺のことだろう。いったいなにを話していたのだろうか。俺はユミと話したい。


 いきなり、アユムが話しはじめた。デカイ声で。俺がみんなと話ししている間に、小林に進められ続けたのかもしれなかった。よく見るとアユムも少し頬が染まっていた。

「えーみなさん俺のこと誰だこいつとか思ってるかもしんないけど、てか思ってんべ。シバタアユムです。A大いってます。ほとんど予備校なんざ顔出してねーけど、てかみんな知らねーんだよ。よろしく。あ、俺だけですか、自己紹介するのは。できればみんなして欲しいんだけど」

 アユムは目が鋭い。威圧される。みんな苦笑しながら、緊張して、迎合した。

「じゃあさ、アユムの次、シンから時計周りにしてこうぜ」

 小林が言った。俺からかよ。しょうがねえな。

「じゃあ俺からで。遅れてすいません。シンです。みんな知ってんやな。B大ですよろしく。」

「松本です。まっちゃんで。N大です。俺シンとオナ中だし、アユムちょっと話したことあるじゃん?よろしく」

 低い、下卑た含み笑いをしながら、まっちゃんが擦り寄った。

「ああ、まっちゃんしょ?見たことあるかもしんね」

 ホントかよ。だいたいまっちゃん自体、途中からゲーセン中毒で予備校にほとんど来ていない。アユムと会う確立なんて万が一だ。会ったとしたらゲーセンだ。てかお互い、嘘だろ。まあいいけど。

「タカヒロです。J大です。よろしく」

「リョウです。K大です。よろしく」

「ナベです。T大です。ていっても二浪してるから、まだ一年なんだけど。よろしく」

「ああ、じゃあこないだまで予備校生ですか。お前バカだな、あんなとこ二年も行くなんて。まぁよろしく」

 ナベは、ああバカなんだ、小さい声で言いながら苦笑している。

 まるが割った。

「まるです。T大です。ホント、初めて見たよ俺は。よろしく。」

「サトミです。D大です。よろしく」

 二人は距離が近い。やや離れてユミとヨウコがいる。

「ユミです。B大です。アユムは前から、高校時代から知り合いだよ。久し振りだよね。あらためてよろしくね」

 知らなかった。アユムは無表情だ。

「ヨウコです。同じくB大です。よろしくお願いします」

 少し距離が空いて、俺たちだ。

「最後は俺だな、みんな知ってると思うけど、小林です。みんな今日は来てくれてマジサンキューな。ほんとはもっと来るはずだったんだけど,みんな忙しいみたいでさ。とにかく今日はこのメンバーで。まだ時間あるし、みんな積もる話もあるだろうし、楽しもうぜ!乾杯!」

 ん、乾杯て、まだグラスねーよ俺は。あ、ヨウコさんきゅ。何だよ、この白いグラスだれのだよ。まあいいか。

 乾杯!

 はい、乾杯

 チーン

 チーン

 カンパイ

 はい乾杯

 オッパイ

 かちーん

 うわ、これポン酒かよ。誰だよ、ポン酒グラスなんかに入れやがったのは。ポン酒イッキは無理だって。浸みるな、そういや昼飯食わなかったな。いや、浸みるなマジで。胸、焼けちゃうよ。

 ユミはグイグイやっていた。酒強いんだよな。目が合った。飲んでるよ俺は。てかポン酒なんだって。サワーじゃないんだって。無理だから。目を、逸らされた。

 遅れてきた俺以外はほどほど酔っていた。自己紹介によって、場が少し和んだようだ。けれどみんな、なんとなくアユムを意識していた。みんな個々に、近くのヤツと喋っていた。

「まっちゃん元気?なにげ、久し振りっちゃ、久し振りか。駅一緒なのに会わないよな」

「だな。なにげね」

「お前大学いってないっしょ」

「うるせーよ。もう留年決定だよ。いいよあんな大学。辞めてやるよ」

「お前もったいねーよ。せめて卒業しとけよ」

「いいんだよ。大学でたからって就職あるわけじゃねえから」

「そうだけどさ」

 まっちゃんは、N大の付属高校に行っていた。運動が出来て、おもしろい。中学、高校と人気者だった。ダサくて、ダサくて、かっこつけな俺は、まっちゃんといて楽しかった。まっちゃんは心が広かった。俺はまっちゃんといて、一種のステイタスを感じていた時期もあったくらいだ。勉強しなくても、浪人しなくてもN大への推薦は腐るほどあったらしい。けれど、満足しなかった。もっと、難関校を目指した。せめて、マーチには行きたいと言っていた。ゲーセン浪人して、今はN大の夜間だ。本人は死ぬほど恥ずかしかったらしい。

 大学へは、初めのほうは行っていたが、だんだん行かなくなった。ネットワークビジネスという、化粧品の、完全なねずみ講、マルチまがい商法に手を出し、持ち前の人脈を駆使してかなり稼いでいるとのことだった。イガちゃんは、見事にハマッて、月々の支払いはかなりマイナスだ。地元でもやってるヤツは多いらしかった。イガちゃんは今日は来ていない。俺も、タカヒロも、ナベも誘われたが、三人で相談して断った。それ以来なんとなくまっちゃんとは気まずい。ナベも、完全に距離を置いている。今日は、新しいカモを探しに来ているんじゃないか、と俺らは思っている。だけど、タカヒロだけは、そうだとわかっていても相変わらず仲良くしてるらしかった。二人はなぜかウマが合った。

「タカヒロは大学どうよ?」

「楽しいよ」

「サークルとか部活は?」

「いやそーゆうのはやってないんだけど、地元の野球チームとサッカーチームには入らせて貰ってるよ」

「そーいや、彼女は?」

「さっぱり、だよ。あんとき以来いないよ」

「そうか」

 人のいい、気の弱そうなタカヒロは、さらに口数が減っているように思えた。外見も、以前より全然真面目そうになっていた。黒く、短く、耳上まで刈り上げられた髪型は、どこのバイトの面接を受けても一発合格のアタマだ。前とかわらない高身長に、端正な顔つきは、その気になりさえすれば間違いなくモテる男だ。ただ、二年前からそうだったように、自分から人との関わりは、極力抑えているようだ。特に、今日も、女とは一切話しはしてないんだろう。とにかくタカヒロは真っ赤だ。耳の先から火が出そうだ。ただでさえ極端に白いから余計に。目は充血し、むくんでいる。そういえば卒業飲みのときはジュースしか飲まなかったな。今日は、飲むんだな。

「ナベは?ああナベ新入生だもんなあ。いいよな、今一番楽しいじゃんか」

「ほんとおかげさまで。大学生になれました。マジ楽しいよ。みんなからは、入学初日で二浪ってばれちゃってさ、お父さんって。すでにオヤジキャラだよ」

「オヤジって。まだ老け込む年じゃないだろ。けどそりゃツライや。それじゃあモテないじゃんか」

「それがさ」

「それが?」

「出来ちゃいまして」

「ウィ~、おいおい、スミにおけないねナベさんも。タメ?」

「いや、二個下なんだ。同じ学部のコ」

 ナベは幸せそうだ。樫のような硬い皮膚をほのかに赤らめている。髪は、伸びたな。肩まで伸びた髪は荒れ放題だ。染めたんだろう。根元は黒いのに毛先は赤茶けている。落ち武者みてえだ。まだ完全に風格は浪人生だ。そりゃバレるよ。苦労したんだろうな。二浪したの仲いいうちじゃナベだけだったしな。卒業飲みも来なかったもんな。

「で、かわいいの?」

 リョウが聞いた。

「一般的には、普通かもしんない。けど」

「けど?」

「超かわいい」

 ウィ~。

 乾杯。

 カンパイ。

 ナベシネ。

 ニコシタ。

 ハンザイ。

 カンパイ。

 ナベはホントに、幸せそうだ。彼女もまあ、見る目あるな。ナベは誓って浮気なんかしないだろう。彼女のために働きバチのように働くだろう。浪人中も、バイトだけで十万は稼いでいた。授業終わってバイト、バイトして勉強。家庭が苦しいらしかったけど。授業終わってから即、バイトだ。今もかなりバイトしているらしかった。前、小林が、ナベは将来間違いなく美人の奥さん貰うよ。そうゆうタイプだ。と言っていたが、その通りかもしれない。どんなに嫌な女であっても、ナベは献身的に尽くすのではないか。ナベの彼女がワガママでないことを祈るばかりだ。カンパイ。

 リョウと目が合った。リョウは、なんとなく苦手だ。見た目は一番、今風だ。俗に言うストリート、スト系。スケボーやら、ブレイクダンスをやっている。

「リョウ、元気?だいぶ飲んでんじゃん?」

「まだ、そんなにだよ。みんな飲まなすぎんだよ。シンもっと飲めよ」

「まあ、今日はゆっくりでいいじゃんか。前みたいにコールもねえよ」

「そうだけどさ、俺ばっか飲んでんじゃん。金もったいねえし」

 リョウは、ビールは4、5杯は入っただろう。熱燗を啜っている。

「大学はどうなん?」

「ん、可もなく、不可もなく。学校自体はけっこう楽しいよ。たださ、理系の大学は女のコほとんどいないじゃん?つまんねーよ。紹介してよ」

「あそこに、ユミとヨウコいんじゃん」

「バカ、いいよあの二人は」

「お前彼女いなかったっけ?」

「いつの?ああ、二年前か。もうとっくに別れてるよ」

「それからは?」

「ん、微妙。あ、けど明日スノボ行くんだ」

「なんだよ。いるんじゃねえか」

「けど、微妙。こないだお台場いったけど、サセてくんなかったし」

「明日は泊まり?」

「そうだよ」

「二人だけなんだろ?じゃあ問題ねえじゃんか」

「まあね。今日は早く帰らせてもらうから」

 キャップを斜めに被った額から、ふつふつと水泡が浮き出ている。脱げばいいじゃん。少したれ目な、鼻の高い、歯並びの悪い口許が猪口をススっている。それはそれできっとセクシーなのだと思う。

 まるとサトミちゃんは二人の世界だ。あそこは放っておけばいい。もともと小林しか知り合いがいない。俺は浪人卒業飲みで初めて話した。話題がほとんどない。向こうもそう思ってるだろう。

 ユミを見た。ヨウコを見た。ユミは俺を見た後、目を逸らした。リョウに話しかけた。リョウがユミのほうに行った。ヨウコは俺に笑って手を振った。俺も笑って手を振り替えした。ヨウコが苦笑した。

 小林を見た。小林はアユムと喋っていた。まっちゃんとナベとタカヒロは三人で話ししている。俺はなんとなく、寂しい。小林とアユムの間に割って入った。

「小林、久し振りだな。けど一年ぶりくらいか?お前には話すこと、いっぱいあるよ」

「シン、俺もだよ。言ったけ?こないだ三人で飲んだときは確か、カンボジア、タイ、フィリピン帰りだったよな?」

「そうだな」

「あのあと、今年の夏だな。アルゼンチンとブラジル行ってきたんだよ」

「メールで言ってたな」

「あ、これほら」

 アルバムだ。前飲んだとき見せて貰ったのは、東南アジアバージョンだった。アンコールワットや、様々な遺跡の写真。彼女の寝顔。現地の家族とのファイブショットや、手で飯を食ってる小林の写真があった。今回は南米バージョンだ。アユムも一冊渡されているが、全然興味がなさそうだ。肘をついて顎をささえ、焦点がまったく合っていない。

「表紙なに?イグアスの滝?」

「そうそう、よくわかったな。すげえんだぜ。アルゼンチンとブラジルの国境沿いにあるんだけど、やべえよあれは。説明できねえ。絶対一度いったほうがいい」

「てかさ、なんでお前そんな金あんだよ」

「俺バイトなにげかなりしてんだぜ。あとは今しかできないとかいって、親に借りてる」

 小林はずるい。俺はまだ一度も海外にいったことがない。俺と小林は、世界史好きというので気があった。浪人時代は毎回模試で張り合ったものだ。合格したら絶対二人で海外旅行に行こうと誓い合っていた。だが、俺は一度もいったことがないのに、小林は既に九カ国だ。スペイン、ポルトガルを皮切りに、イタリア、タイ、カンボジア、フィリピン、ベトナム、アルゼンチンにブラジル。次回は中国だとメールで言ってた。帰国子女の、W大政治経済学部の、英語が堪能な彼女を連れまわし、今度は中国ですか。

 写真は、どれも現実感がなかった。カンボジアの人のよさそうなバスの運転手や、タイの修行僧、なんらかの城や教会、イグアスにアルハンブラ、アンコールにボカジュニオルス。どれもこれも、世界史の資料集を見ているようだ。小林が撮ったとは思えない。

「アユム、だいじょうぶか?」

「なにが」

「寝てねーよな?」

「眠い」

「もっと話そうぜ」

「今、僕シバタアユムはものすごく後悔してますよ。帰りてえよ」

「俺がいるじゃんか」

「お前だけならよかったよ。ナンパいこうぜ」

「ばか。今日はちげえだろ。女の子かわいいじゃんか」

「どこがだよ?普通すぎんだよ」

「てかユミと知り合いなんだろ?」

「こんなかじゃ、一番マシだな」

「なんで知り合いなん?」

「忘れた」

「じゃあ、思いだすように話せばいいじゃんか」

「いいよ。ヤらしてくれんだったらいいけど」

「バカいってんなよ」

「だろ?だったら、ナンパいこうぜ」

「だから、きょうはちげえって」

「帰るよ、そんなら。ん?」

 アユムがズボンのケツポケットをまさぐった。スマホが鳴っていた。小さく舌打ちする。

「ちょっと電話してくるわ」

「帰んないだろ?」

 無表情のままアユムが出て行った。


                  ※


 アユムが出て行ったあと、みんなで、予備校の思い出話しや、大学の近況などを語った。だが、二年しかたっていないし、予備校時代の話はあまりでなかった。

 みんなの関心事は、まだ一年のナベはともかくとして、将来のことだった。現役の奴等はもうとっくに就職活動をしていた。みんな、少し焦っていた。小林のようなアクティブなヤツを除いて、だれもかれも憧れの大学生活を、ただなんとなく過ごしている。

 俺だってもちろんそうだ。大学に入ってやってきた事と言ったらセックスだけだった。教育学部に入ったものの、なんとなく、教師になるのは躊躇われた。ユミやヨウコもそうだった。

 ユミもヨウコも、学部は違うが小学校か、幼稚園の先生を目指していた。この時期は、みんな迷うのかも知れなかった。だが、就職活動をするヤツなんてほとんどいなかった。そうゆう大学だ。今、このご時世、教員になりたいだなんてよっぽど変わっている。教員を目指す学生はどこかしら精神構造が幼いと思う。中、高、大学と、みんなの前に出るのが好きで、どこかしら浮いてきてるような奴等ばっかりだ。社会経験もないのに、世の中の、一体、なにが正しくて、なにが悪いかなんてわかるのか。だから、学校の先生はとても胡散臭い。

 もう、コースで頼んだだろう料理は、あらかた片付いていた。俺も酔ってきていた。鮭茶漬けを頼んだ。尿意がする。トイレに行く。

 トイレは臭かった。奥から、二番目の小便用の青い便器には、黄土色をしたゲロが溢れていた。たくさんのブロックアイスが乗っていた。じょぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。酒が入ると、やけに小便が長い。少しふらつく。蛇口から水が出しっぱなしだったので止めた。

 トイレを出ると、ユミがいた。

「おう、トイレ?」

「うん」

「ちょっと、酔ったな」

「わたしも。あんま話してないね」

「席遠いし」

「うそだ。私のこと避けてるでしょ?」

 嘘だ。避けてるのはユミだ。ユミの声は、少し鼻にかかっては籠る。

「学校でみかけても、あんまり、あいさつもしてくんないし」

 なにいってやがる。そもそもあんまり会わないじゃんか。それに、いつもサークルやらなにやらの集団でいるくせに。

「我慢しないほうがいいでしょ」

 肩を押された。グーで。パンチかそれ。そのままユミは俺をすれ違った。

 

 茶漬けが置かれていて、誰かが食っていた。半分に千切れた梅干と、ほぐされた、やけに身がオレンジな鮭は、さっきの吐瀉物を思わせた。腹が減っている。構わず食べる。タカヒロはさらに真っ赤。さらに目は充血し、顔はむくんで脈打っている様子。汗で掻き分けられた髪は、脂ぎっている。スマトラ沖の水死体みたい。それでもタカヒロは飲み続けている。

 ナベとまっちゃんは、まっちゃんがこないだ旅行で行った、タイでの売春の話しをしているようだ。卑らしく唇の端を歪めている。

 ユミが戻ってきた。俺と小林の間に強引に割ろうとする。小林が席を譲った。ユミは酔っているのかいないのかよくわからなかった。顔はいつもと変わらない。すまして、座った。ヨウコがこっちを見ていた。

「なんだよ、狭いんだよ」

「いいじゃん。別に」

 ユミの肩が俺の右肩に擦れた。なんとなく、頬杖を突き、障子側を見た。ふすまは、微妙に開いていた。飲み終えたグラスが手前に、大量に置かれている。

 いきなりユミの腕が右腕が、俺の斜め前の、テーブルの上に置かれた飲みかけのグラスを掴んだ。斜めに白い、谷間が、覗いた。ブラジャーはピンクだ。斜めにユミを見た。ユミは、近くにあった飲み残しの酒を、ちゃんぽんしていた。サワーに冷酒にウイスキーに、なんでもありだ。グラスが溢れそうになるまで注ぎ、割り箸でまぜ、白く濁ったグラスを俺の前に突きつけた。

「飲んで」

 真正面に俺を見ている。はあ、バカかこの女は。

「一番はじめに、ポン酒サワーのグラスに入れてたのも、お前だろ」

「知らない。飲んで」

 ますます俺に顔を近づけてくる。頬杖をしている肘に胸が触った。

「はやく飲んで」

 譲りそうにない。俺は圧された。おっぱいに圧された。グラスに口をつけ、少し飲んだ。

 想像以上にマズい。臭い、とにかく、臭い。カルピスの味がした。精子だ。ゲロだ。吐瀉だ。

 構わずユミがグラスの底を押し付けてきた。

 俺は覚悟を決めた。ゆっくり、呑み干した。少し、残した。

 咽が、胸が焼けるようだ。バカだこの女は。

 構わずユミは無表情だ。怒っているようにも見える。ふざけんじゃねえよ。

 なに考えてんだよ。この女酔ってんのか。バカだ。ユミは、近くに残った酒を、サワーとウイスキーを混ぜて、淡く、白いグラスを傾けている。バカだこの女は。だが、

 横顔に見る、ユミの、黒い髪はキレイだ。サラサラだ。一本一本が滑らかに踊っている。触りたい。肌も、透き通るように、白い。頬はほのかに、赤い。グラスを、軽く、噛むように含んだ口は、少し厚ぼったい。鼻は、低く、丸い。鼻の頭に、妙に気になる大きなホクロが二個ある。

 とりたてて、美人な顔ではない。スタイルも、おっぱいも普通だ。さっきは、思ったより跳ね返ってきたが。だが、ユミを、ユミにしているのは、なんといっても、声だ。目だ。目は、常に水分を十分に含んで潤んでいる。大きくも、小さくもないが、睫毛は長い。涙腺が、どれだけ緩いんだろうと思う。そういえば、前二人で映画を見たときにも、ボロボロ涙を零していた。まさしく、ボロボロだ。あの目から、涙が零れ落ちるのは、実に自然なことだ。男は、あの目にやられるんだろうと思う。

 今も、長い睫毛に被われた黒目がちな目は、普段よりも濡れている。グチョグチョだ。焦点が定まっていないように見える瞳は、泣いているようだ。妄想で、ユミを犯すのは簡単なことだ。あの、潤んだ、海のような瞳に、俺を咥えさせる。少し厚ぼったい口は、俺を積極的に含み、鼻にかかった声で、咽を鳴らして、俺に媚びるだろう。しばらく、上下運動を繰り返し、そして、上目遣いに俺を見る。ユミの潤んだ目に瞳に、海に、俺は吸い込まれ、そして爆発する。

 脈が、急速にあがってきた。俺の息は、荒い。頬杖をついた、右手の平が熱い。目は間違いなく充血しているだろう。俺は、ユミを犯したい。あの、潤んだ瞳を、さらに濡らしたい。鼻にかかった、太い声から、甘く、切なく、苦悶に満ちた声を出させたい。ユミも、それを望んでいるはずだ。俺に、乱雑に、乱暴に引き裂かれることを、望んでいる。



                   ※


 少し、気持ち悪い。いや、気持ち悪い。あんなに、飲んだからだ。いや、飲まされたからだ。鼻の奥から、ゲロの臭いが、ウイスキーの臭いが、甘い、腐った、酸っぱい臭いがする。あんなの飲んだからだ。いや、飲まされたからだ。ふざけんな。ユミ。ふざけんな。マユミ、ハルカ、リエ、リサ、エミコ。ふざけんな。

 いきなり小林の声が薄く、頭に、響いた。

「あのさ、そろそろ一次会はお開きで。そろそろ出なきゃいけない時間なんだ。とりあえずいったん撤収で」

 薄く瞼を開いた。頭を、持ちあげた。テーブルに、サワーが少し。いや、俺のよだれかこれは。寝たのか。俺は、意識はあったはずだ。やっぱ弱いんだなあおれ。

 みんなとりあえず立ち上がった。俺もあまり立ちたくなかったが、しょうがないから、立った。少しふらつく。ダルイ。時計を見た。十時半だ。ヨウコとサトミちゃんが帰ると言った。まっちゃんも、明日早いから帰ると言った。暑かったが、ジャケットを着た。ユミの白いコートが目に付いた。呑ませといて、ほったらかしだ。みんな靴箱の錠を探した。俺の錠が、札がなかった。真っ赤なタカヒロの左手が、俺の木の札を握り締めていた。右手には自分自身の錠を持っていた。


 外は冷たかった。心地よかった。足元が少し、浮いた。脈が上がっていた。塀に寄りかかった。背中から、思ったより冷たい感触が伝わって来た。遠くに、ヨウコと、サトミのじゃあねと言う声が聞こえた。まるは送ってかないのか。ああ、ヨウコが送っていくのか。まっちゃんも帰った。得意げに、明日新宿で仕事があると言った。今から新宿に行くと言った。そういえば、仮面浪人したとか言ってたな。今年は受験しなかったのかな。まあ、いいや。タカヒロは少し寂しそうだな。まっちゃんのどこがいいんだよ。じゃあね。

 二次会は隣の居酒屋でやるらしい。だったら同じ場所で、場所だけかえてもらったらよかったのに。まあ、いいけど。ああ、先行ってていいよ。俺はもうちょっと夜風にあたってからいくから。うん、場所わかるよ。なにいってんだよ。隣じゃねえか。

 俺は、駅を背にして、古い商店街のアーケードを、ひたすら駅と反対に歩いた。

 ところどころ、帰り際の飲み会の集団や、カップルや、サラリーマンとすれ違った。酔ったサラリーマンと、同じ大学生だろう集団が、道を封鎖していた。   俺は、目を細め、眉間に皺をよせながらジグザグに間を通過した。サラリーマンの奇声が聞こえた。俺は腕を掴まれたらしかった。たぶん、奇声を上げたサラリーマンだろうと思った。そのまま、振り切った。思ったより、力なくほどけた。

 とにかく、ひたすら、歩いた。商店街を抜け、狭い路地を抜け、左に折れた。さらに、住宅街を十分くらい歩いた。古い、神社の鳥居が見えた。もう少しだ。

 神社は、誰もいなかった。鳥居を突っ切り、石畳の上を、社堂の裏を抜け、ベンチを横目に、壊れかけの、汚い低いフェンスを登った。フェンスの向こうは、一面、雑草の空き地だった。貯水池か、なにかだろうと思った。暗いのでよく見えないが、葦だろう草が、高く、生い茂っていた。

 俺は、フェンスを飛び越えた。柔らかく、草の感触が返ってくるだろう予想は見事に裏切られ、スニーカーを通して、コンクリートの鈍い衝撃に痺れた。俺は構わず歩いた。少し歩いて、吐いた。口に胃液が、逆流してきて、息を止め、それを押し戻そうとした。跳ね返った。胃液はとめどなく逆流し、もう堪え切れなかった。一度口から出ると、堰を切ったように、次から次へと嘔吐した。口から、鼻から嘔吐した。鼻の奥がひりひりした。酒が、酸味が口いっぱいに広がった。よだれがでた。鼻水がでた。鼻水かは分からなかった。酸っぱかった。鼻を手でかむと、鮭のほぐし身であろうオレンジが、消化しきれなかった米とともに、鮮やかに暗闇に現れた。咽が痛い。俺は袖が濡れているのに気がついた。袖を、手をそこらへんの雑草に擦り付けて拭いた。夜目に、ゲロは、鮮やかだった。

 黄色く、赤褐色に濁った嘔吐物は、なぜか、生理中のタンポンを、割れ目から抜き取った、うすオレンジに、赤く濁った、ティッシュに包んで捨てた、ゴミ箱を思わせた。

 俺は、ブザマだと思った。弱い、弱い。ひさしぶりに、吐いた。高校三年以来だ。そんときも、俺はここで、吐いた。とにかくその時は、みんなで吐いた。

 確か、夏だった。近くの、馴染みの、友達んちの居酒屋で飲み、飲み、とにかく飲み、吐いた。みんな吐いてみたかった。酒で、吐いてみたかった。

 町を歩き、女の子にちょっかいを出し、カップルに絡み、男に殴られ、みんなでそいつをボコボコにした。男が、わざとらしく、胃液のようなものを吐くので、ムカついた。それが頬にへばりついたとき、周りが見えなくなった。とにかく、殴った。ひたすら殴った。頭に蹴りをいれたらしかった。男が、昏倒した。口から、泡のようなモノを吐いた。今度は、本当らしかった。少し、満足した。やべえと思った。みんなで駆けた。駆けながら、頬を指先で擦り、鼻にあてた。酸っぱい、吐き気がこびりついた。怒りを覚えた。戻って、殺してやりたかった。男の口から出る、血反吐のこびりついた、酸っぱい粘液を、たっぷり手の平ですくい、女の顔に塗りたくって、犯してやりたいと思った。みんなで、この神社まで走った。

 神社で、さらに酒を飲み、呑み、境内で、アツシが吐き、俺と、アユムは、フェンスに向かって、吐いた。アユムが、俺の、学生服の、黒い、ズボンの裾に、ゲロをしぶかせた。靴には、思いっきりかかっていた。俺はアユムのズボンに、靴を、裾を擦りつけた。アユムは気づかなかった。ただ、吐いていた。

 神社の境内では、サトシと、キョウヘイが、原チャリで、ぐるぐるまわっていた。ただ、ひたすらぐるぐるまわっていた。ぶつかった。サトシと、キョウヘイを乗せた原チャリは、舗道の、石像にぶつかった。後ろに乗っていた、キョウヘイが死んだ。ぶつかったのは見ていなかった。サトシのほうが重体だと思った。サトシは、おでこを、半ばまで切り、黒い血を滴らしていた。起き上がったキョウヘイは別段いつもと変わりがなかった。ただ、目を細め、頭がいてえと言っていた。

 無免で飲酒で病院へ行くわけにはいかなかった。近くのコンビニで、あるだけのペットボトルに水を買った。あんだけ酒を飲んだのに、みんな咽喉が異常に渇いていた。サトシを荒い、水を浴びるように飲んだ。みんなで頭に浴びせながら飲んだ。Yシャツは重く皮膚にまとわりついたが、気持ちよかった。水を浴びながらキョウヘイは、目を細くしながら、頭がいてえと言っていた。


 翌日、キョウヘイが死んだ。朝、起きなかったらしかった。あまり、詳しいことは教えてくれなかった。俺らは、事情も聞かれなかったし、積極的に関わらなかった。死因は、なぜか大型トラックに轢かれたことになっていた。自転車で下校中に轢かれたことになっていた。朝会で、なんの現場を見たのか、髪の薄い、禿げたオッサンが現れて、轢かれたときの様子を生々しく語った。Yシャツから除く、細い、頼りなげな若い、というセリフのとこで絶句した。なぜ、ここまでリアルに嘘をつかなければいけないのかと思った。だが、だんだん、大型バスで、葬式に行くころには、本当に大型トラックに轢かれたのではないかと思うようになった。

 

 ジャケットの裾を見た。黄土色の液が乾いてきていた。紺色の裾に鮮やかに馴染んだ液体を、指先で擦り上げた。鼻まで持っていき、嗅いだ。アルコールの臭いが吐き気を誘った。酸っぱかった。ふと、懐かしい香りだと思った。赤ちゃんの香りだ。酔いは大分醒めていた。近くの雑草を引き千切り、裾を拭いた。葉っぱの緑の部分を嗅いだが、期待していた土臭い臭いはほとんどしなかった。ただ、少し酸っぱいだけだった。


 母親のことを思いだしていた。


 あまり、抱いてもらった記憶がない。話をしても、最低限の日常会話くらいだ。いつからこのような関係になったのかはわからない。

 最近、いや、高校の半ばくらいだろうか、母親を抱きたいと思うようになった。犯したいと思うようになった。アダルトビデオで近親相姦モノがあったが、違和感を感じた。アダルトビデオの関係は、ただいちゃついているだけだった。当然であるとしても、本当の親子のはずがなかった。実際はそんなものであるはずがなかった。嫌がる母を押さえつけ、無理やり犯す。母の、ババシャツや、ショーツを破り、太い足を無理にこじ開け、髪を振り乱し、泣き叫ぶ母になんとか、意思を貫き通す。俺は、自分を抹殺したいような背徳感に頭をぶち抜かれ、次第に、なにも考えなくなるだろう。腰を動かすたびに、俺は吐くだろう。何度も何度も吐くだろう。吐いて、ゲロにまみれて、俺は腰を動かし続けるだろう。そして母の腹の上に溜まったゲロを、腕で、手ですくい、母の顔に、体に擦りつけ、こびりつけ、仕舞いにのたうちまわって俺は絶頂を迎える。そのとき、なんともいえない歓びを感じるだろう。心のそこから歓喜するだろう。そして、俺は自殺したい。




        *


 居酒屋に、二件目の場所はすぐに分かった。客はほとんどいなかった。オープンな店は、どうやら、俺らの他に、サラリーマンとОLの4,5人の集団と、三人組みの、同い年くらいだと思われるギャルしかいないらしかった。

 ジャケットを脱いだ。シャツの裾は思ったより濡れていなかった。座敷に上がった。ジャケットを折りたたんで、丸めて端に放った。小林のとなりに、アユムがいた。ナベがいた。リョウがいた。まるがいた。みんな、眠そうだった。疲れていた。俺も眠い。ナベとアユムが、言い合っているらしかった。

 少し離れたもう一つのテーブルにタカヒロと、ユミがいた。ユミは寝ているらしかった。横になって膝をかかえ、丸くなっていた。髪が張り付き、顔は見えなかった。タカヒロも端に、テーブルに顔を突っ伏して、寝ていた。言い合いに関わるのはめんどくさかった。俺は、タカヒロの横に座った。天井の照明を避けるために、右手をかざして横になった。

 ナベが叫んでいるのが聞こえた。

「だからさ、俺は自分自身が環境におかれたらさ、そこで頑張って、その中で幸せを探していくべきだと思うんだよ。だってそれしかないじゃんか」

「いや、だからさっきから別にお前を否定してねえよ。たださ、俺は違うっていってんの。俺は自分に環境が会わなかったら環境を変える。そこで我慢するなんて俺には耐えられないし。だからさ、俺は大学なんかほとんどいってねえし。お前はお前で勝手にすればいいじゃんってハナシだから」

「だけどさ、結局逃げてるように俺には思えるよ。予備校いって、親に金払わして、大学いってさ、申し訳ないじゃんか。なんのために浪人したんだよ。予備校いったんだよ。俺には理解できない」

「だからお前はバカなんだよ。二浪しました。大学行きました。はいスゴイですね。それでなんなんだよ。それに見合ったもんなのかよ。それに見合ったもん貰ってんのかよお前は。確かにT大はすげえよ。二浪したってすげえんじゃねえの。だけどさ、それがなんなんだよ。お前誰なんだよ。俺だって、A学院大いってんよ。世間的には頭イイって言われてんだよ。だけどさ、だからなんなんだよ。俺がすげえんじゃねえんだよ。裏についてる大学の名前がすげえだけじゃんよ。俺はだれなんだよ。俺は、ハシモトアユムなんだよ。俺のなにがすげえかお前わかってんのかよ。ジッサイ大学なんてファックなんだよ。お前はまだ一年だからわかんねえかもしんないけど大学なんてファックなんだよ。授業に出るだろ?大講堂の床で、こうやって寝てんだろ?先生横切ってもほったらかしだから。で、授業後に、センセ俺出席になってました?って聞いたら、あっアユムクンちゃんと出席になってるからダイジョウブよ。だってさ。マジ最高だよ。ラブA学だよ。それ以来いかなくていいって思ったね。俺が大学いってんのはおもしれえヤツがいるからだよ。田舎から出てきてさ、ハッパでおかしくなっちゃうようなヤツがごろごろいるからだよ。マジ最高にファックだから大学は」

「・・・・けど、親に申し訳ないと思わないのかよ。俺は、親が我慢して、その期待に、てか自分に、応えなきゃだめじゃんか。ここまで我儘通したら、俺は」

「お前いつになったらひとり立ちすんだよ。お前どうせ童貞だろ?そこらへんで女抱いてこいよ。親なんて眼中にねえんだよ。関係ねえんだよ。今までずっとレールの上歩いてきたじゃねえかよ。小、中、高と、確かに受験はあったよ。けどほとんど決められたもんだったじゃねえか。もう十分だろ。俺らは確かに大学ってレールを選択したけどもういいじゃねえかよ。親に義理なんて十分たてただろ。あとは俺たちの問題なんだよ。大学で、終わりじゃねえんだよ。今辞めさせられても、俺はいいんだよ。金払ってる親なんて、しゃぶりつくせばいいんだよ。どうせ自分のためでもあるんだよ。結局自分のためにみんな生きてんじゃねえか。お前もハッパやれよ。人生変わんぞ」

「ばかじゃねえの。いいよ。変わってもマイナスじゃんか。ハッパなんて、最低だから。終わってんだよ。俺は将来に希望を持ってるんだよ。ここで終わりたくはないから」

「あのな、ハッパなんてタバコといっしょなんだよ。葉っぱなんだよ。神経系に影響を与えるんだったらなんも大差ねえんだよ。むしろ酒なんて脳細胞にダイレクトじゃねえか。そっちのほうがわりいよ。なんでんかんでんよ、自分で試したことあんのかよ。まあこんなことお前にいってもしかたねえけどさ。知ったような口聞くんじゃねえよ。一回試してから言えよ。生き返るって思うぜ。ホント生き返るんだ。マジなんだこれは。俺らみんな死んでんだよ。向こうのほうがよっぽどリアルだ。結局、俺らが満足しないんだったらなんでお前生きてんだよ」

 ナベは、眉間に皺をよせて、目を細めている。片手にジョッキを持って、目は明らかに軽蔑している。哀れんでいる。だが、潤んだ目は、怒りに震えているようにも見える。まるが、話しに割り込んだ。

「あのさ、俺思うんだけどさ、さっきレールだのなんなのって言ってたじゃん?俺さ、知ってる人は、ああ、小林は知ってると思うけど、嫌味じゃなく、親父が社長なのね。ここらへんじゃけっこう有名な社長なんだ。駅前にある、すし屋とか、焼肉屋とかみんな親父の店なんだ。でさ、俺大学入ってからしばらくすし屋でバイトさせて貰ってるんだ。はじめはそりゃあ嫌だったんだよ。社長の息子だって気つかわれるし。だけどさ、ジッサイのところ自給がいいんだよね。辞められないよ。もう今ではなんも気にしなくなったしね。さっきのハナシじゃないけど、もう確かに俺らの問題なんだよ。俺は、今の所でいろいろ経験させて貰って、金ためて、それでいいと思ってるよ」

「ああ、それは、わかるな。まるがいいたいのはすごい、わかる。俺もさ、海外行きまくってさ、今しか行けないとか言って、親に金借りて行きまくってさ、親に申し訳ないと思ってるけどさ、結局今は自分のことしか考えられないんだよ。俺は海外でいろんなもの見てさ、経験してそれを伝えたいんだな、みんなに。今度大学でパネルやるんだけど、もっとみんなに伝えたいんだ。ぜひ来てよ。それが将来に、ああ、俺まだ曖昧にしか決まってないけど、歴史とか民族関係だな。きっと役に立つと思うんだ」

「なんとなく、俺もわかるな。大学までいってさ、親は本当はもう関係なくね?俺あんま頭よくないからよくわかんないけどさ、親に感謝しなきゃいけないけど、しょうがねえじゃん。てかさ、問題なのはマジ、俺らじゃね?もう三年なんじゃん?現役のやつらなんてもう必死だぜ。全然就職ないらしいしさ。なんで大学はいったんかなとか思うときあるし。俺ダンスとかボードも中途半端だしさ、もう働きてえよ。金欲しいよ。最近結局金だなって思うし。別にそんなたくさんはいらねえけどさ、結局なにやるにしても金じゃねえ?金ねえとホテルだっていけねえじゃん。ナベには悪いけど」

「別に悪くはないよ。俺だってわかってるよそんなこと。たださ、なんとなく就職なんて嫌じゃんか。こんな頑張って。俺は、大学生活頑張って、自分の道を見つけるよ」

「でもさ、大学生活で見つかんなかったらどうするんだよ。そこで就職すんのか、夢を追うのか。俺は夢なんて見つかりそうもないから就職するけど。金欲しいよ。だいたい夢ってなんだよ。ニートじゃないけどさ、一体何人が夢もって大学行ってんだろうな。こんなかじゃあ、小林くらいじゃないの、具体的な夢持ってんのは」

「俺も、まだ具体的ではねえよ。ただ、漠然とやりたいことやってるだけだから。他に興味だっていっぱいあんだよ。俺本当はずっと教員になりたかったんだよ。よくある話だけどさ、高校んときの先生でいい先生がいてさ、そんときから、けっこう固く決めてたんだよ。だけどさ、結局教育学部はイッコも受かんなくてさ。まあ、今となってはどうでもいいんだけどさ。教職は取れるし。だけどさ俺さ、ふと、何で教員になりたいか考えて見たんだけど、きっと高校のその、いい先生に憧れてだったと思ったんだけど最近どうも違うように思えてきてね。俺さホント自分の経験を伝えたいんだよ。自分の見たこととか、感じたことを一人でも多くに伝えたいわけ。実際海外いってもお前らには、なんとなくフライングしてるような気がして、いや違うな。とにかく同じ体験をして欲しいからあんまり言わないけど、それでも何か伝えたいんだよ。今度パネルやるっていったけど、知らないヤツだったらなおさら伝えてえよ。みんなも、来てよマジで。むしろ、日本全国に俺を発信したいわけ。友達だと、同年代だと説教くさいし、こうゆう席だとなんか嫌味じゃんか。結局誰でもいいんだよ。俺を伝えられれば。子供じゃなくてもいいんだよ。先生じゃなくても。むしろもっと広い規模で伝えたいんだ。最近それを、なんとなくは分かってたんだけど悟ったかもしんない。先生じゃなくたって、全然構わないよ。初めは、シンに嫉妬したけど、今は全然だよ」

「ああ、そーいえば、シン先生なるんだよな」

「そーいえば、そうだな」

「あいつ、なんで教育大いったんだろうな」

「なんでだろうな」

「ヨウコとユミは、向いてるよな。あいつら、なんだかんだいって面倒見ってゆーか、優しいもんな」

「そうだな。だから仲良かったんだろうな。少し似てるもんな。ヨウコはいい先生になると思うな。ユミも、きっとそうだな。ユミは、誰でも受け入れられるもんな」

「そーいえばタカヒロとはどうなったん?」

「別れたって聞いたけど」

「もうとっくだろ。大学入ったときには別れてなかったっけ?」

 嘘だ。大学入ったときには彼氏がいた。

 少し沈黙があった。

 嫌な気持ちだ。

「てか、向いてねえよなシンは」

「うん、向いてないね」

「女子高だったら間違いなく生徒犯すよな」

「間違いない」

「流石に小学生には手ぇ出さないだろうけど」

「犯罪だから」

「犯罪ですからね」

「てか、小学生にはキレるよなきっと」

「そうだな、あいつ結構短気だからな」

「間違いないな」

「間違いない」

「でも、小学生にはキレないんじゃない?さすがに」

「いや、キれるよきっと」

「どうだろうな。でもさ、あいつなに考えてんのかわかんないけど、優しいんだぜけっこう」

「まあな。けど計算ぽいところもあるからな、よくわかんねえよ」

「わかんないな」

「ユミにだって・・・」

「なに?ユミにだってって」

「いや、ごめん。なんでもねえよ」

「ユミとなんかあったの?」

「まあ、そんなとこだよ。けど今は、俺にだってよくわかんねえよ」

「あいつ、モテすぎるんだよな」

「予備校でもすごかったもんな」

「ずるいよな」

「でも、彼女はいつもいないけど」

「ちょこちょこ、摘んでるからいいんじゃねえ?」

「まあ、そうだよな。けどさ、あいつ、俺らもそうかもしんないけど、あんまり深く関わらないってゆーかさ。俺らともなんだけど。なんか距離は置いてるよな。うまいバランスで。予備校んときだってさ、携帯もってなかったもんな」

「そうなんだよな。予備校生だからって、今どき持ってないヤツいないのにな」

「でも、欲しいともいってなかったもんな。俺らが持てよとは言ってたけど」

「そうなんだよ。あいつ、一人でいいやって雰囲気あるからな」

「そこがグッとくるんじゃない?」

「違いねえな。きっと」

「ずるいよな」

「うん、ずるいんだよ」

 勝手なこといいやがって。お前等ちげえよ。だからモテねえんだよ。人を羨ましがっちゃ、絶対にモテないんだよ。優しくても、モテねえんだよ。

「そういえば、アユムは?彼女いなかったっけ?」

 小林が聞いた。

 ・ ・・。アユムは黙っているらしかった。腕の間から、テーブルの下を盗み

 見た。

 ユミの後姿が陰に見えた。

「あ、そういえば、夢は?アユム夢あったっけ?将来なんになるんだよ?」

 小林がたたみ掛けた。バカか。なんで余計なことすんだよ。ほっときゃいいんだよ。

「なにも、考えてねえよ」

 アユムが答えた。ぼそっと答えた。

「でもさ、もう三年じゃねえかよ。トウェンティ・ワンじゃねえか。もう、俺たちみんな。現役の奴等の大変さわかってんだろ?アユムも。そろそろ動かねえと負けるよ。マジで就職浪人は嫌じゃんか」

「アユムは、まだやりたいこと見つかってないんだろ?だったらゆっくりさがせばいいんじゃないの?」

「そうだよ」

「俺らも、みんなまだ決まってないし」

「そろそろ、とりあえずは固めた方がいいんだろうけど。なんとなくでもね」

「そうだな。ちょっと、焦るよな」

「もう決めなきゃなんだよな」

「けどなんとなく就職は嫌でしょ?みんな」

「そうだけど、そんな選択肢ねえからな、学部によって。てか不景気だし」

「そうなんだよな。いつまでも遊んでられねえのかもしんないけど、でもしばらくはバイトして、将来を考えんのもありじゃん」

「だんだんいろいろ見えてきてるのかもしんないけどさ、でも自分をどこまで試せるかはホント悩むな。一体どこで諦めるんだろうな。それか、いつ見つかるんだろうな。ゆっくり探したとして、夢を追い続けたとして、三十、四十超えて、何も残んなかったら惨めだよ。せいぜい夢を追うのは三十、いや、二十七、八までだよ。それで無理だったら、今の環境で満足してって、幸せを探していくしかないよ。親だって、親父だってそうしてくれてるから俺らがいるわけだし。いつまでも、夢を追うのはバカだよ」

「まあ、そうだよな」

「そうだな」

「そう考えると親父とかは立派だって思うよな」

「そうだな」

「感謝はしねえとな」

「・・そうだな」


 俺は、バカかと思った。オヤジのことを考えた。俺らは、みんな親に感謝なんてしてなかった。ポーズで感謝していた。本当に感謝しているんだったら、俺らは死ぬべきだった。親に、何も贅沢させないで、俺らが贅沢をすることはそれはあまりにも当たり前のことだ。

 貧乏で、大学に行けなかったオヤジは、防衛大学を出て自衛官になった。本当はマスコミ業界に入りたかったらしかった。国から交付される手当てで、弟を、オジサンを大学にやった。無口なオヤジは、仕事の話は一切しなかった。今も単身赴任でずっと沖縄にいるが、質素にくらし、お金を送り続けている。

 一体なにが楽しいのだろう。人生とはなんだろう。自分を犠牲にしながら、それは自分のためなのか。子供に感謝もされないで、一人で黙々と働いている。母はそんなオヤジのことをいつも考えている。真面目で、つまらないオヤジのことをいつも考えている。俺はそんなオヤジに嫉妬する。母が本当に好きなのはオヤジだ。ほとんどはきっとそんなヤツになるのだろう。なんの面白味もない働きバチになるだろう。それで、きっと幸せだろう。子供に全く感謝もされないで幸せだろう。けれど、それは現実なのか。リアルなのか。幸せと思いたいだけじゃないのだろうか。俺はそんな生き方を生涯強いられるくらいなら死にたい。だが、結局、俺に死ぬ勇気はないだろう。アユムは間違いなく自殺する。それか、殺すだろう。自分のために働かないで、ただ毎日、黙々と与えられた作業をこなして、それは生きているのだろうか。今となんら変わらないじゃないか。なんとなく過ごすことは必ず飽きるのだ。俺らはこの先、なにかが変わるのではないかと期待している。なにもしていないのに、俺らは前向きだ。不安は、ほとんどの場合微々たるものだ。結局なんとかなる気がしている。自分に合わなくても、なんとなく俺らはそれにすがるだろう。


 少し、間が合った。俺は、ユミの足を見ていた。白い足は思ったより、いつもより太く見えた。少しずらして膝を起て、少しまくれ上がったスカートは、照明の影でテーブルの影で、隆起して見えた。テーブルの下から隠れるようにして見る白い肉の塊は、エロチックだ。あそこに顔を埋めたい。俺は勃起している。さっきからずっと、勃起している。小林の声がした。

「なあ、思うんだけどさ、夢ってさ・・・」

「なあ」

「なあ、お前ら」

「お前ら、なあ、」

 ・・・。

「いいかげんにしろよ!」

 空気が収束した。

 アユムが怒鳴った。

「お前らマジなんなんだよ!なにがしてえんだよ!バカじゃねえ!みんな、死ねよ。ファックなんだよ!」

 耳が、痒い。

「なにが変わったんだよ!なにをゲットしたんだよ俺たちは!勉強して、大学入って、なにが変わったんだよ!なにを期待してんだよ。結局、なにもねえんだよ。なにも変わらねえんだよ。俺たちは今も、明日も、これからも、なんにも変わらねえんだよ。夢ってなんだよ。みんな夢がどっかにあるみてえに言ってやがるけどよ、そんな曖昧なもん一体どこにあんだよ!あるかないかもわかんねえもののために生きてんのかよ!いきなり、ある朝突然おはようって現れんのかよ!お前らなんもわかってねえんだよ!夢のために、今があんのかよ!誰も、なんにも感謝なんかしてねえんだよ。親にだって感謝なんかしてねえじゃねえじゃねえか!嘘つくんじゃねえよ!自分がキモチイイんだよ!自分が今キモチイイから生きられんだよ。それだけじゃねえか!朝起きてオナニーして、寝る前にオナニーして、それだけじゃねえか。飯食って寝て、セックスして、それしかねえじゃねえか。なにも変わらねえんだよ!変わりてえんなら、死ねよ。変えてえんだったら、一回死ねよ。俺は、葉っぱとセックスしてるときしか幸せ感じねえよ。リアル感じねえよ!小林も理解できねえよ。俺には理解できねえよ。そんなに自分を見て貰いたきゃよ、みんなの前でオナニーしろよ。シコシコピュってしてみろよ。シコシコピュって。みんなお前のこと理解してくれるよ。シコシコピュって。おまえが一番タチわりいんだよ!自分で満足してろよ!他人巻き込むんじゃねえよ!結局一人なんだよ。俺もお前も違うんだよ!自分にキモチイイハナシじゃねえと誰も聞かねえんだよ。夢ってなんだよ!大学ってなんだよ!夢のために大学があるんかよ!三年だからってなに慌ててんだよ。なんのリミットなんだよ。俺はどこにいんだよ。なんとなく生きるのに有利そうだからって大学いってよ、卒業したって、結局なにも変わんねえんだよ!」

 畳が擦れる音がして、ユミは起き上がって座っていた。

 なんとなく、まずい気がした。ケツしか見えなかった。咽喉が渇いた。脈拍が上がっていた。俺は、立ち上がった。アユムも、立ち上がっていた。

「・・・・」

「・・・・」

「・・・・」

「・・・・・」




 立体交差の上は寒かった。酔いはさめてきているのに、ジャケットを着てこなかったことを後悔した。指先から、闇に向かって頼りなげに火の粉が舞った。二車線の向こうには、駅のネオンが迫って見えた。

「寒いな」

 黒いファーのダウンを着たアユムは、なにも答えなかった。フかした煙が、風に乗って俺の横顔を撫で付けた。確かに、タバコの煙のようだったが、ひょっとすると、吐いた息のようにも思えた。

 人通りは、まばらにはなっていたが、駅前には、まだかなり人がいるように思われた。目の前を、キャデラックが走り抜けた。走り抜けたあと、遠くから、クラクションの音が、高く長く鳴り響いた。うるせえな。斜め前を、明らかにキャバ嬢の二人組みが通過した。こっちを上目遣いに一瞥して、無表情のまま、通りすぎた。キャバ嬢は、しばらく歩いてから、やけにデカイ声を出して笑った。もう一人も奇声をあげた。

 さっきのキャデラックが、もう一度戻って来た。キャバ嬢の前をゆっくり、舐めるように通過して、また、でかいクラクションを砲げた。アユムが、吸殻を投げた。一瞬、キャデラックに向かうと思われたが、風に乗って、どんどん左に逸れていった。短い吸殻の行方を追ったが、歩道の照明と重なったときに、見失った。どうやら、反転して立体交差の内側の下に潜り込んだらしかった。すぐ下には、いつまでもハザードが着いた、白いセダンが止っていた。

 アユムが、前を向いたまま、ゆっくり息を吐いた。

「なあ、やっぱ今日来なきゃよかったよ。だいたいなんで来たのかわかんねえよ」

 歩道の手すりを背にして、反転したアユムの向こうの並木の左に予備校がみえた。高い、銀色のビルディングは、まるでそのビルしかないような存在感があった。嫌な寒気が、シャツを通して皮膚を冷やした。

「もともと、予備校に知り合いなんてほとんどいないのにな。お前と小林しか知らないのに、来なきゃよかったんだよ。お前とは久し振りにハナシしたかったんだけどさ」

 そうだな。お前、来なきゃよかったな。久しぶりだけどな。あんまりまだ時間たってないけど、変わったよな。もう、違うよな。俺らだって、なんで気が合ったんだろうな。ほとんど毎日一緒にいて、ツルんで、学校サボって。プリクラ撮って。人殴って。酒のんで。なんとなくだよな。お互い、いつも興味は外に向かってたじゃんか。

「予備校見えるな」

「ほとんど、いってねえよあんなとこ」

「お前さ、なんで予備校なんて行ったんだよ?」

「なんとなくだよ。お前行くってゆうし。目的なんて、いや目標か。ねえよ。なんとなくだよ。てか、お前だってなんで行ったんだよ」

「・・・。」

 徐々に熱を持ち出して来た棒を、左足で踏み潰した。

「けどさ、俺は予備校行ってよかったと思ってるよ。いい友達も出来たしな。なにより、我慢を知ったな。一番いろんなこと、考えられた。たぶん、俺が大人になったのはあの辺りだな」

「お前は変わったよ。マジで」

「お前は変わってねえな」

「うるせえよ。お前、教師になんのかよ」

「わかんねえよ、まだ」

「なんであんなめんどくさそうなことすんだよ?俺もお前も、センコウなんて大嫌いだったじゃねえか」

「だから、まだわかんねえって」

「気がしれねえよ」

「まあ、いいじゃねえかどうでも」

「そうだけどさ、バカだよお前」

 また、さっきのキャデラックが見えた。ゆっくり、舐めるように駅前を徘徊している。白い、細長い車体はエロティックだ。暗闇に、淫靡に映える。ネオンに、バックライトされた車体は自慢気だ。誇らしげだ。一種のエンターテイメントショウを思わせる。

「なあ、アユム?高校んときさ、よくここらへんで遊んだじゃん?覚えてる?最近はここらへんにはこないの?」

「はあ?なんで来んだよ。こんな田舎、用事もねえのに。俺今ブクロに住んでんだぜ。シンも来いよ。ブクロは刺激あって楽しいぞ」

「クスリは、やんねえよ」

「そんなんじゃねえよ。まあ無理にとは言わないけどさ」

「お前クスリなんか、やめろよ」

「バカ。あんまやってねえよ。それに、すぐやめられんだよ」

「そうかな」

「そうだよ」



 アユムさ、高一の夏覚えてる?

 俺らがまだ友達になったばっかのころ。

 二人でナンパしたじゃん?初めて。生まれて初めて。

 学校サボってさ。

 お前はナンパなんてしたことあるとか言ってたけど、ぜってえ初めてだったよ。

 ベンチに座ってヒマそうにしてる、ちょっとヒマそうな女子高生に狙いつけてさ、はじめはよかったよな?俺らけっこう堂々としてたし、髪も茶っこかったし、ピアスもしてさ。

 ピアスは痛かったな。お前いきなり安全ピン刺すんだもんな。自分もやったからとか言って、普通はちげぇんだよ。コンビニでアイス買って、ずっと冷やしてさ、血、全然止まんなかったんだぜ。なぜか鼻血出たし。まあいいけどさ、今はお互いしてないな。お前もパっと見開いてないよな。あんなでけえ穴開けてたのに。ちいせえのは開いてんのかな?俺はもうふさがっちゃったよ。変なシコリは残ってるけどさ。まあいいんだけどさ。

 とにかく初めは良かったんだよ。会話も弾んでさ。一緒にプリクラ撮ってさ。結構気に入られてたはずなんだよ。どっちとヤるかまで話し合ってさ。お前なぜかかわいいほう譲ってくれたよな。

 俺、お前には黙ってたけどあのあと結局、その日じゃねえけど、俺んち来てさ、ヤったんだよ結局。ごめんな。

 けどさ、あれはしょうがねえよな。お前公園でさ、ブスのほうが転んで、水道で手洗ったときさ、なんでお前ハンカチなんか渡したんだよ。

 ちょっと黄ばんだ白いハンカチ。

 使って。

 とかいってさ。だいたいなんでハンカチなんかお前持ってたんだよ?ブスが弾けるように笑ってさ、

 マジウケンダケド!バカジャネエ!

 とかいってさ。お前それをギャグにしちゃえばよかったのにさ、本気で傷ついてさ。マジでヘコんでさ。あのあと一回もナンパ行かなかったよな。てか、お前一見モテそうだけど、人をナめてそうだけど、なにげずっと童貞だったもんな。みんなは知らなかったけどさ。今は違うんだろうけどさ。お前が一番真面目なんだよ。カタいんだよお前マジで。なんとなく、本当に何気なく、、、悪いと思ってるんだよ。




 アユムが、唐突に言い出した。

「ナンパいかねえ?」

 二本目のタバコは、まだ先が十分残っていた。舌先の苦い感触を確かめてから、言った。


        *


 深夜の南銀通りは、思ったより人通りが少なかった。少し広いだけの路地の両側には、様々な看板が明るい。ここらへんで一番騒がしいところだ。

 だが、立ち並ぶカラオケや、ゲーセン、風俗、コンビニのネオンの下に、ジグザグに配置させられた客引きのせいで、寂しさは全然感じさせなかった。

 もう閉店してしまったハンバーガーショップの下に、若い、背の低い、二人のホストがいた。銀のウインドブレーカーを着た、カラオケボックスの客引きの女に、親しげに話しをかけたあと、なにをするでもなく突っ立ている。

 たぶん新入りなのだろう。客引きに違いなかった。だが、二人は、夜に馴染めてなかった。人の良さそうな、バカそうな笑顔をつくって、なにをするでもなくお互いで様子を伺っている。まるで高校生みたいだ。なんでこいつらみたいなホストがいるのだろう。喋りも下手そうだし、ルックスもよくない。ただ、髪を染め、バックに流し、ピアスをしているだけだ。頭の悪い高校生に、スーツを着せただけだ。スーツも、見ようによっちゃあスエットに見えるくらい安っぽいものだ。新宿のホストはこうではなかった。たとえ、背が低かったとしても、妙な自信と、威圧感を持っていた。

 高校生のころ、クラブから出て、深夜のコンビニで出会ったホストの集団は、明らかに、田舎の高校生であろう俺たちを蔑んだ眼で見ていた。いや、それか、眼中にもなかったにかもしれないが。とにかく、夜の町に都会に、いてもいい存在は俺たちだけだと言わんばかりの姿勢だった。それは、きっと、ホストと言う職業には絶対に必要なものだ。夜の町に、伺いをたてているようじゃダメだ。

 さらに田舎の、北関東の繁華街でホストをやっている友達は、ただ、田舎のヤンキー上がりが、田舎の、特にバカな女相手しているだけだといったが、実際その通りかもしれなかった。

 東京にほど近い、この県民が、池袋でバカにされるのはしょうがないことだった。田舎の地元のチーマーや、ヤンキー上がりが馴れ合っているだけだ。二人に眼があった。しばらくこっちを見ていたが、また、二人だけで控えめに話し始めた。 

 夜の町は、カジュアルな大学生にはさらに似つかわしくない。

 集団でないならなおさらだ。銀の、カラオケボックスのネオンの下には、大学生とサラリーマンのグループが順番待ちをしていた。酔った、少しメイクが派手な女子大生は、潤んだ瞳でこっちを見ていたが、ツレの、リーダーっぽい男が声を掛けると何度かこっちを振り返りながら店の中へと消えた。

 ゲーセンから、ヤンキーの女が二人出てきた。黒と白のスエットに、冬なのにサンダルだ。ヤンキーには趣味がない。とりあえずゲーセンを物色することにした。

 中のゲームコーナーはあらかたしまっていた。手前のプリクラコーナーには、集団でキャバ嬢がプリクラを撮りにきていた。シートの奥から見える生足はセクシーだ。

 だが、手前で並んでいるキャバ嬢たちは、どれもこれも老けていた。特に、一番手前の女の目は汚かった。小さく落ち窪み、黄色く濁っている。目の下の隈と、皺は異常だ。後ろ姿が少し控えめに見えただけにがっかりした。

 ハサミで、プリクラを切っている、見たところ十八、九の、目の大きい女に好感を持った。肌がキレイだ。が、見たところ一番新入りみたいだ。眉を斜めに傾け、周りに一番気を遣っている。とても俺らに構っている余裕はなさそうだった。声をかけて番号だけでも聞こうか少し迷ったが、今日だけの割り切りに、手ごろに割り切ってセックスするのが一番だと思った。体も疲れてきている。あまり無駄なことは考えずに、ただセックスをして、気持ちよく眠りたい。眼の大きい女は、こっちに気づきもしなかった。目の黄色く落ち窪んだ、皺だらけのババアが、こっちを怪訝そうに、さらに皺を肌にめり込ませて見るので、なんとなくいたたまれなくなった。

 二軒目のゲーセンにも、ほとんど人はいなかった。中年の男の三人組がいた。浪人生のような風貌の男が、ドラムのようなゲーム機を狂ったように叩いていた。所々、小さく短い奇声を上げながら、ヘッドフォンを激しく揺らしている。奥のユーフォーキャッチャーを、一人の女が熱心に眺めていた。遠目、顔はかわいいと思った。奥で、競馬ゲームに夢中になっている女も、ツレのように思われた。アユムと相談して、声をかけることにした。横のユーフォーキャッチャーに何気なく近づき、声を掛けた。

「これ?これなんだっけ?このぬいぐるみ。これ?なんだっけなあ。さっきも取れなかったんだよこれ。おっ、まだ、とられてないじゃん。あっさっきよりズレてるな。とれるかなこれなら。あっ、名前わかりますかね?このぬいぐるみの」

 女は、まるで表情を変えなかった。俺は、いつもそうだが、なんとなくの失望と恥ずかしさと、慣れてしまった冷静さを装いながら畳み掛けた。

「あっ、なんかいきなりゴメンね。わかんなかったらいいんだけど」

 女はまるで表情を変えなかった。むしろ、さらに少し逆側に顔を倒した。小さく、呟いた。

「みゅうだよ」

「あっそうだ!そんな名前だった!みゅうだ、確かみゅうだ。かわいいよねえこのねこ」

「違うよみゅうは木星人なんだよ。猫じゃないよ」

 木星人?木製人?どうみたって猫だ。どっからどうみたって猫だ。服着てるだけだ。憎たらしい顔を、挑発的な顔をしている。

「ああ、そうなんだ。あんまり詳しくは知らないんだ。ただかわいくて好きなんだ。さっき見かけてさ、欲しいんだ。この猫好きなの?」

「だから猫じゃないんだよ。もういいよ」

 失敗した。気不味い。アユムのほうを見たが、怒ったような顔をして何も喋らない。なんか喋れよ。お前ナンパする気あんのかよ。もう、こうなったらどうしようもない。

「ああ、ゴメン猫じゃないんだっけ?でもさ、かわいいよねマジで」

「うん、かわいい。大好き。好きなの?」

 わけわからん。機嫌なおったのか。だからかわいいっていってんじゃねえか。

「好きも、好きも、大好きだねマジで」

「うれしいな。私趣味変わってるらしいから、うれしいな」

「いや、そんなことないよ。かわいいじゃんか」

「ありがとう」

 いや、お前褒めてねえんだよ。まあいいか。

「実は、ナンパなんだ。ちょっとはわかってると思うけどナンパなんだ。かわいいよマジで。ヒマだったら遊んで欲しいんだ」

「じゃあ頑張って取るしかないね」

 なにいってんだこいつは。どんだけ他人事なんだよ。ああ、ぬいぐるみのことだと思ってやがる。ちげえんだよ。

「あのさ、名前は?」

「みゅうだよ」

「違くて、名前だよ、名前、あなた様の名前は?」

「・・・」

「・・・・」

「みゅうだよ」

「みゅう?」

「うん、みゅうだよ」

 なんだ警戒されてんのか。まあいいんだけど。警戒されてもなんでも。今日だけでいいんだ。今日だけで。名前なんてどうでもいい。

「で、さ、みゅうの、つまり目の前にいる人のことが好きなんだ。その、赤いバッグを持った人のことが」

「・・・」

「・・・・」

「・・・・」

「・・・」

 途端に表情が変わった。みゅうの表情が変わった。がらりと変わった。口を引きつるまで上に押し上げ、鼻の穴を、それこそ鼻の穴を最大限に広げ、顔を下に傾け、眉毛を下げ。顔じゅうに皺という皺を寄せている。

 不細工だ。

 信じられないほど、ブスだ!

 この女ブスだ!

 早まった。完全に早まった。もう少し様子を見ればよかった!完全に、ブスだ。みゅうは、卑屈に顔を歪めながら、少しくぐもった声で言った。

「うれしい、です」

 ・ ・・。失敗した。どうにかしなくては。アユムを見た。表情は変わらない。

 相変わらずキれてるようだ。ふざけんな。初めてあったのに、この態度はマズイ。お互いマズイ。とりあえず、トイレに行くことにした。

 みゅうは、少しモジモジした態度で下を向いている。この時間に、この女が一人でここにいる理由がわかった。きっと、一人だ。いつもいるんだここに。気づかれないように、もともと下を向いているのだが、アユムを後ろ手で突付いて、促した。

「あ、ちょっとトイレいってくるわ。なんか、いきなりゴメンね。さっきから我慢しててさ。酒飲んでるから特にね。ここにいるよな?うん、ならいいんだ。うん、そうだよね。ちょっと行ってくるよ」

 早足に歩くと、後ろからの視線が気になった。競馬に夢中になってる女は、相変わらず競馬に夢中だった。もはや、ツレではないはずだ。よく見ると、奥に座って一緒にゲームをしている中年のツレに違いなかった。

 ゲーセンのトイレは狭い。便器が一つしかない。二人で、押し込むようにはいった。

「アユム、しょうがねえな。俺もどうかしてたよ。失敗だよ。ホントカンベン。つぎ、いこうぜ」

「・・・全然かわいくねえ?アリだおれは。かなりアリだから」

 ・こいつの感性は全然わからない。いつも辛口で、批判的で、見下してるくせに、女の許容範囲だけは異様に広い。誰も、きっと見栄っ張りだから俺しかしらないが、異様に広い。さっきだってキレてたじゃねえか。あのコだってお前に気に入られたなんて思っちゃいねえよ。狙われてんのは俺なんだよ。狙ったのも俺だけど。恋人はスナイパー。ああ、なんでこんなこと頭に浮かんだんだろうな。まあいいや。とにかく俺はあのコはナシだな。絶対にナシだ。ああゆうコはセックスのときもなにしてくるかわかったもんじゃないんだ。わかってんのかよアユムは。

「あのさ、とにかく俺はナシだから。他いくよ。どうしてもってんなら誠意を持って譲らせてもらうよ」

 ああ、こんなことが前にもあったな。いつだったかな。忘れた。

「なら、いいよ。他いこうぜ」

 真顔で、アユムが答えた。妙に弱気だ。いや、これがもともと普通の顔なのか。なんだよ。あっさりなんだな。気に入ってんじゃねえのかよ。まあ、ならいいけどさ。あのコだったらお前なら落とせるぜ、間違いなく。まあ、いいけどさ。

 急いでトイレをでると、なに食わぬ顔で、裏口から出た。出口で、中年の三人がたむろしていたが、構わず押しのけた。少し舌打ちが聞こえたが、構ってるヒマはなかった。

 外は、異様に冷えた。地肌に直接冷気が染み込む。ポケットに手を突っ込むと、今さらながら、財布はジャケットの中に忘れたと気づいた。さっきのコに声を掛けたことを、どうしようもなく後悔した。もうあの通りには戻りづらい。

 ジャケットを取りに行く気もあまりなかったが、遠回りして戻るのを想像すること自体に嫌気がさした。表通りを一歩外れると、そこは風俗関係者しか見当たらない。

 ネオンは一見華やかだが、途端に安っぽく見える。だが、前来た時に比べて店の数は増えたようだ。ジグザグに狭い通りを客引きが迎撃体制に入ってるのが見える。

 表に比べて、やはり外国人が多い。特にこの通りでは、フィリピン、タイ、中国等、東南アジア系が多い。表通りでも思ったが、どうやらここ数年で、東南アジア系の店がかなり侵食して来ているみたいだ。高校生のころ、冷やかしにはいった日本人向けの制服パブも、いまや中国人に仕切られているようだった。俺は、この通りには入りたくない。

 俺は風俗が好きではない。アユムはよくブクロの風俗によく遊びに行くといった。行こうといった。俺は気が進まなかった。特に、俺はここいらの外国人の女が嫌いだ。絶対に臭い。アメリカのチョコのように、粘っこい、嫌らしい、甘ったるい匂いがするに決まっている。西欧人、いや東欧人のほうが激しいだろうがとにかく嫌だ。東南アジアの女も、なんとなく嫌だ。臭いはずだ。外国人の風俗の女は、例外なく不衛生なイメージがある。風俗の女は、例外なく臭い。だが、表通りには戻るのも躊躇われた。かといって、居酒屋に戻るのもおっくうだった。

 冷やかし程度に、周りを一周することで合意した。



 タイ人だと思われる女が、さっきから俺のシャツの袖を引っ張って離さない。力の入り方が異常に強い。シャツが伸びる。恐怖すら感じる。思いっきり叩きつけて、顔面を砕いてやりたい。

 それなのに、アユムは、熱心に値段交渉なんかしている。どうでもいいのだ。そんなこと。値段の問題じゃないのだ。ここまで執拗にくるような店はマトモじゃない。だいたい外国人の店は本当に嫌だ。異常だ。こんなに力をいれてきて、異常だ。だいたいなんでアユムはこんなに熱心なんだ。さっきは全然じゃねえか。アユムに構ってるヒマはないと思った。

 女を振り解いて、俺は一直線に通りを進んだ。新手の客引きの男が詰め寄ってきた。だいたいなんでこんな背の低い、角刈りが多いんだ。しかも、態度は卑屈なのに、妙に怪しい威圧感に満ちている。入れ替わり立ち代り俺をバカにしてくる。

 俺に下卑た目で擦り寄ってくる。一人の、頬に大きな耳までえぐられたナイフ傷を持った小柄な男が、執拗に俺に迫ってきた。俺はそんなに下品か。お前らを全員潰してやりたい。ぶっ殺してやりたい。

 男が俺の腰を摩った。思い出してくだせえよとか助けてくだせえよとかなんとか言っている。お前なんて知らねえんだよ。一回もこの町の風俗になんていったことないんだよ。だいたい風俗なんて今まで生きてきて、一回しかいったことないんだ。そんな女に困ってねえんだよ。一緒にすんじゃねえよ。ふざけんなよ。男はなおも擦り寄ってくる。

「助けてくだせえよ。俺殺されちゃうよ」

 アユムが早足で寄ってきた。

「この店にすんの?」

「バカいってんじゃねえよ」

 男はなおも執拗だ。

「ホントなんだよ。このまま帰ったらヤられちゃうよおれ」

 アユムにまですがるように眉毛を極端に下げ、媚びてくる。常套手段のようだが、耳までざっくりいった頬の傷をみると、あながちホントのようにも思えなくもない。インドで、観光客から、同情で寄付を受けるために母親から足を切り落とされた子供の話を思い出した。男はなおも必要だ。アユムならイケルと思ってか、殺されちゃうよ。暗殺されちゃうよ。などと言っている。暗殺ってなんだよ。表現おかしいんだよ。

 だが、気づいてしまった。止まって、斜めから顔を、アユムに話しかけている顔をみて、俺は気づいてしまった。俺は、確かにこの男の顔を見たことがあった。どこか忘れたが、確かにこの町で見たことがある。見れば見るほど、極端に下げきった眉毛は間違いない。どこだったか。高校生のときだ。男は嘘を言っていなかった。本当かどうかは知らないが。相手もなんとなくかもしれない。けれどそんなことはどうでもいいのだろう。とにかくアユムを連れていこうと必死だ。アユムは、値段を聞いて、もっと安くなどと言っている。どこだったかな。どうしても思い出せない。ナイフ傷はなかったはずだ。男が、折れた。いや、初めから折れるつもりだったろう。

「じゃあ、もうホントサービスですよ。二人で一万ポッキリでいいですよ。サービスしますよ。これで断られちゃあ商売できませんよ。ホント怒られちゃうんですよ。殺されちゃうよ。だけど特別だ。お二人さんイイ男だし、みたところ学生さんみたいだから、学割だ。特別に、学割だ。これで、どうかおねげえしやすよ。頼みますよ。おねげえだ。頼むよ。頼みますよ」

 近い。息が臭い。歯もボロボロだ。前歯が半分ない。交互に俺らを見渡して、泣き出しそうな笑顔をつくる。まるで焦って、余裕がない。下品だ。憐れだ。この一言にしか興味がない。

「行こうか」

 途端に男の表情が変わる。相変わらず眉毛は極端に下げたままで、歯のない口元を歪め、細い嫌らしい眼をさらに歪めて催促を促す。

「賢いや、お客さん賢いや。初めから、そんな気がしてたんだよ。サービスしますから。ホントかわいいコしかいないですから。さあさ、どうぞどうぞ。サービスしますから。ウチのコが一番なんだジッサイそうなんだ。さあさ、こっちですから早く」

「いいのかよ。ここで」

「いい」

「安いからな。まあ俺はいいけど」

 ただ、一つだけ確認しとかなければならないことがあった。

「なあ、日本人なんだろうな?そうしなきゃナシだからな!」

 ナイフ傷は、振り返り振り返りこっちをみながら、ええ、ええ、そりゃあそうに決まってますよ。みんなかわいいですよ。うちは他の店とちげえから、サービスで勝負してるんですよ、と言った。サービスと言う言葉が妙に頭に引っ掛かった。


 店は、客引きの目の前にある大江戸クラブと書かれた店かと思ったが、全然違った。ナイフはどんどん狭い路地を進み、百メートルは歩いただろうか、ひと通りはほとんどなくなっていった。ナイフは早足で歩き、なにやらせかされたような気持ちでついていった。いや実際せかされているのだ。狭い、小さい路地を折れ、汚い雑居ビルに案内された。

 看板すらない汚いビルだ。階段横には、青いポリバケツが黒いポリ袋に押しつぶされている。ナイフは構わず階段を昇った。二階に案内された。

 小さいネオンには、夢所と書いてあった。なんの感情も湧かなかった。ただのアパートの一室だ。汚い、廃墟ビルだ。安っぽいが妙に熱い黒塗りされた木製のドアーを先導して開けると、カウンターの、見たところ四、五十のケバケバしい、皺だらけの、人目で上品ぶったとわかる、イヤラシイ女と、なにやらボソボソやっていたようだが、やがて、じゃあこれでといって俺らの前をそそくさと通り過ぎた。目も合わせようともしなかった。途端、不快な気持ちになった。

 中は、暗かった。ほとんど見えない。明るさを極端に落としたブラックライトと、回転式の赤や、青や黄の蛍光灯の光が、ほとんど届かないが微妙に店内の輪郭を形どっていた。待合室すらなかった。十五畳もないように思われた。

 カウンターと、薄いベニヤ板で仕切られた部屋は、いやほとんど仕切られていないと言ったほうが正しいが、ほとんど丸見えだ。ベニア部屋は全部で五部屋あるらしかった。たまに、回転式の赤や青や黄が当たるたびに、中の客の姿が浮かび上がった。正面の客は、どうやら同い年くらいの見たところごく普通の真面目そうな男だ。チェックのネルシャツが赤に染められれた。固く、背筋を伸ばしてうつむいているようだ。老婆が柔らかい口調で誘い、俺はカウンター手前の男のとなりの部屋に案内された。アユムは、どうやら一番奥の部屋らしかった。

 ベニヤ部屋の、ドアすらない個室には、黒い狭いソファと、丸いガラスのテーブルと、プラスティックの容器に入ったブロックアイスが置かれていた。それだけだった。それしかなかった。案内をしてくれたカウンターの老婆は、おしぼりを渡すと、ちょっとお待ちくださいと言った。

 俺は、ソファに腰掛けると今さらながら後悔を感じた。この、安っぽい文化祭の出し物は、俺に、不快と不安と怒りを持たせた。初めに、下品な老婆が現れたのにも腹がたった。覚悟するしかなかった。しばらく、待たされた。あまり時間はたってないかもしれないが寒かった。暖房は入っているようだが、皮のソファは妙に冷たい。低いベニヤ越しに女が現れた。姿はほとんど見えない。手に持ったおしぼりが発光している。ゆっくり、横に座った。狭いソファなので距離が異様に近い。微妙に顔の輪郭が見えた。年はさほどいってないように思える。だが俺より年上に見て間違いない。鼻が末広がりに潰れているのが分かった。目は大きい。少し濡れて発光している。パッツンにはりついた小さめの黒いシャツは、大きいらしい胸を強調している。変な香水の匂いがした。甘ったるく、気持ち悪くなる。

「おまたせシマシタ。ハナチャンダヨ~」

 俺は、後悔した。やってしまった。騙された!口調が、トーンが完全に日本人じゃない。怒りが込み上げて来た。ナイフは、確かに日本人だと言った。バカにしている。俺を完全にバカにしている。だが、もうどうしようも出来ない。居直るしかない。

「お客サン、ハジメテデスね?」

 ハナチャンらしき女は、やけに発光したおしぼりの封を開け、ドウゾと言った。バカかこの女は。おしぼりはもう貰っている。おしぼりとブロックアイスしかないテーブルが見えないのだろうか。おしぼりは、俺のすぐ手前で乱雑に白く発光している。俺は無視した。

「ア、チョッとマッテネ」

 そう言うとハナチャンはいきなり立ち上がった。甘ったるい匂いが鼻を衝く。少し席を離れて出て行ったかと思うと、すぐ戻ってきた。

「ハイ。ドジョ」

 目の前に、ウーロン茶らしき茶色いグラスが置かれた。よく見えないが、氷が三つばかり浮かんでいる。咽喉が異様に渇いていたことに気づいた。軽く口を突けた。ウーロンハイだった。甘かった。一気に飲み干した。美味かった。ハナチャンは相変わらず近い。俺が飲み干したのを確認すると、ハナチャンが聞いた。

「スゴ~イ、デスね!ワタシもナニカノンデイイデスカ」

 俺は、承諾した。すぐにハナチャンがウーロンハイのグラスをもう一つ持ってきた。やけに早かった。イタダキマス。と軽くグラスを掲げて拝んだ。口が、極端に受け口だ。ヒョットコみたいだ。鼻に突きそうだ。あまり話したくない。俺は、ハナチャンがグラスから口を離したのを確認すると、一息吐いて、聞いた。

「日本人なの?」

「ナニガ、デスか?」

「だから、ハナちゃんは日本人かって聞いてるんだ」

「・・・」

「・・」

 ハナチャンがもう一度グラスに口をつけた。ゆっくり口に含むと、ゆっくり、飲み干した。

 ゴクン。

 白い咽喉仏が上下した。

 グラスをテーブルに置くと、両手を胸の辺りにゆっくり持っていった。

「ハナチャン、ニホンジンダヨ~!!!」

 絶叫した。いや、絶叫とまではいかなかったかもしれない。だが、籠ってはいたが、確かに叫んだ。俺は、絶叫に聞こえた。恐怖を感じた。だが、冷静に、言った。思ったより、冷静に言葉が口を吐いて出た。

「嘘つけよ。話かたが確かにおかしいんだよ。日本人はそんな話し方しないんだ」

「ヘンケンダヨ!ヒドイよ!!」

「ヘンケンなもんか。こうゆう店じゃないか」

「ヒドイヨ!!ハナチャンカナシイヨ~!ニホンジンナノに、ヒドイヨ!」

「ひどいもんか!俺は金を払ってるんだ。嫌なんだ。生理的に、無理なんだ。悪いけど、無理なんだ」

「ヒドイよ!ハナチャンカナシイ。ハナチャンカナシイ、ホントダヨ。ハナチャンニホンジンダヨ。ウソジャナイよ!ハナチャン、オトサンシャンハイで、オカサンニホンジンネ。ウソジャナイよ!ニホンジンダヨ!ダカラ、ハナチャンニホンジンだヨ!ブジョクダヨ!!ヒドイよ!ナンデソンナコトユウワカラナイヨ!ハナチャンワカラナイよ!」

「悪いとは思ってるよ。だけど、これは俺の趣味の問題だ。ハナチャンが悪いもなにもないよ。だが、無理なんだ。本当に無理なんだ。たとえハナチャンが日本人であっても、無理は無理だ。悪いけど、チェンジだ。チェンジして欲しい」

「ヒドイよ!ハナチャン、オカサンニホンジンネ!ハナチャンニホンジンダヨ!ウソジャナイノにヒドイよ!モウイイよ!サイテイダヨ!!」

「わかったよ。わかった。悪いとは思ってるんだよ。わかった。だけど、チェンジだ。ハナチャンごめんね。悪かったよ。けどチェンジして欲しいんだ。ごめんねハナチャン」

「モウイイよ!ハナチャン、コノオミセイチバンワカインダヨ!カワイイんダヨ!イチバン、ニンキアルヨ!モウイイよ!ハナチャンモウすぐアガリダカラ。アリガトゴジャイマス。サイテイネ。ニドトメイシネでクダサイヨ」 

 そうゆうとハナチャンは席を立った。甘ったるい匂いが広がった。両手の平を合掌して軽く摺り寄せると、軽く会釈してベニヤの間を擦り抜けていった。

 俺は後悔した。だが、それ以上に安堵していた。怒りは、恐怖と安堵によって薄められていた。だが、この後にくる事態を想定して、少しテンションは上がっていた。いや上げなければならなかった。恐怖を隠すために、冷静を装った態度で店から出ようかと思った。だが、踏み出すのは勇気がいった。アユムはどうしてるのだろう。俺はトイレに行こうと思った。トイレを装って、暗い全体を把握したかった。

 俺は席を立った。薄いベニヤを擦り抜け、入り口と逆側にベニヤ伝いに歩いた。すぐに終わりがきた。十五歩も歩いた気がしなかった。

 すぐ右のドアーがトイレだった。前にはカーテンがあった。部屋全体は黒いカーテンで、よく教室にある黒いカーテンで覆われていた。トイレは端にあった。

 端からは店の輪郭が見えた。全部で五部屋だ。よくよく考えて、俺とアユム以外は三人だ。満室だ。なにもかもが貧相だ。部屋と呼べない囲いはあまりにも丸見えで、アユムはすぐ横の板の向こうにいた。

 たばこを左手にフカシながら、やけに饒舌だ。なにを言っているのかはわからないが、身振り手振りで大きくシェイクしている。奥の暗がりに女の顔ははっきりとは見えなかったが、赤いラメのドレスをきた女は極端に痩せていた。ガイコツのような指に、赤いマニキュアを塗った長い爪がグラスを隠している。アユムは笑っている。俺は怒りを感じた。アユムを連れ出そうと思った。アユムの囲いに勢いをつけて近づいた。

 ぶつかった。右肩になにかがあたった。鉢合せになった。右にはパッツン張った黒い胸があった。媚びるように潤んだ目と、鼻と、かさの張った鼻と、ハナチャンがいた。すぐ右手のカーテンの向こうに空間があるとは思わなかった。戸惑った。ハナチャンは、一瞬驚いたあと、軽蔑したように俺を見た。

「トイレデスか」

「・・・そうだよ」

「オダイジニ」

 そのままハナチャンは俺を擦り抜けアユムの部屋に入った。黒い、狭いソファに狭そうに座った。いつのまにかアユムは隣の女に肩をまわしていた。上機嫌でハナチャンを受け入れ、、ドリンクを勧めた。俺は怒りを覚えた。俺はなぜか惨めだった。アユムを連れ出すのは無理だろうと思った。

 部屋に、戻った。

 部屋はいつのまにか少し暗く感じた。周りの会話は、軽快なディスコミュージックと一緒くたになって耳に響いた。このまま、この安っぽい個室で、なにも見えない疎外感とともに消え去りたいと思った。外に出ても、なにもかもが俺を見下すのであれば全てを破壊してやる。俺にはこの店を出ても行く場所はないように思われた。しかし、アユムを待つにしろ、俺は外に出るしかなかった。レニー・クラヴィッツが聞こえた。レニーはディスコミュージックなんだっけ?そもそもディスコミュージックってなんだ?デュランデュランやダイアナ・ロスがディスコで、ロックで、フィル・コリンズがポップ。マーヴィン・ゲイがロックで、ジャック・ジョンソンがポップで、スタイル・カウンシルはポップでロックでソウルで、エミネムはラップで、ジェイ・ケイはクラブミュージック。クラブ?ディスコ??

 俺はなんて下らないんだろう。


 エレキのビートがぐるぐる頭をまわる。


 突然、部屋に、入り口に、背の高い、細い赤いラメの女が立っていた。赤い女は、ガイコツのような腕をひとふりふたふり、きらきらと*をばら撒きながら、ゆっくりと、姿勢よく、俺の横にストンと座った。俺は、奥に寄りかかった体を少し起こして、右肘を立て頬に掌をあてがった。

 母親の柔らかさを思った。

 女は、暗くて良くは見えないが、かなり年を喰っているように思えた。細長い指は、ごつごつして、ごつごつした指輪のなんてババくささ。強烈なファンデーションの臭いが鼻につく。

「お待たせ、ね」

 ヒョットコのようなくちは、半開きのまま、上唇に陰をつくっている。きらきらとラメが発光している。うんうん、と小さく頷いて、したくちびるが上下する。

「ニホンジンなの?」

「そりゃ、そうよ」

「いくつ」

「いくつに見える?」

「アユムと」

「連れの、ひと?」

「そうだよ」

「なに話してたの」

「ああ、アユムクンていってたかなあ?」

「・・・・」

「すうごくいいコね、同僚さん?」

「同僚じゃない。学生なんだ」

「うんうん、学生さん?じゃあバイトとかシテルのかな?初めて?こうゆうお店は」

「そうだよ。だからなに話していいかわかんないんだ」

「うんうん、私はあなたのコトもっと知りたいな。緊張しなくていいから」

 右手が、ふとももを這ってきた。俺は、鄭重にやめてくださいと言い、腕をどかした。二個のおしぼりが発光している。

 信号待ちしてるくるまみたいだ。二個あるグラスが、ひとつであったならどんなにか本物みたいだろうと思った。

「飲み物頼んでいいかしら?」

「どうぞ」

「じゃあ、あなたのぶんも作ってくるわね」

 すぐさま二つのグラスが運ばれてきた。とんとんと置かれ、おしぼりはひとつ、女の左の、長い爪に持っていかれた。とても嫌な気持ちになった。

「ねえ、アユムとなに話してたの」

 おしぼりをゆっくりと広げながら、また、皺張ったかさかさな手は、俺のふとももを上下した。

「だからアユムとなにを話して・・・」

「もうサービスタイムが始まっちゃうわ」

 左手にはおしぼりが持たれたまま、俺のチャックは強引に開けられていく。


 レニー・クラヴィッツはいつのまにか掻き消され、よくわからないラップのメロディが流れる。


 サアー コンヤモ マチニマッタ スパイラル!

 トンダ デフレモ スパイラル!

 サアー ヤッチャテ ヤッチャテ!! ブレイナコウズハマサニアナ!


 サアー コンヤモ マチニマッタ スパイラル!

 トンダ デフレモ スパイラル!

 サアー ヤッチャテ ヤッチャテ!! ブレイナコウズハマサニアナ!

 サアー コンヤモ マチニマッタ スパイラル!

 トンダ デフレモ スパイラル!

 サアー ヤッチャテ~ ヤッチャテ!! ブレイナホオズリマサニアナ!


 サアー コンヤモ マチニマッタ スパイラル!

 トンダ デフレモ スパイラル!

 サアー ヤッチャテ!! ヤッチャテ!! ブレイナコウズハマサニアナ!



 サア~ ショウミタイ

 

 コンヤモショウミタイ  



 サア~ ショウミタイ


 コンヤモショウミタイ


 サアサアサアサア


 ショウミタイ

 ショウミタイショウミタイショウミタイショウミタイショウミタイアホウガナイ


 上下に赤い肋骨が揺れる。

 股間のおしぼりは擦り切れそうだ。

 チャックと擦れてじゃあじゃあする。

 赤や青や緑や黄色。紫に黄土。回転するのは救いだ。


 大きく開かれたアシは、空中ブランコのように上下に振れる。振れる。振れる。


 イタイイタイイタイイタイ トニカクイタイ。


 目の前のパペットからはPTAのニオイがする。


 痛みは、頭で感じるものだ。頭に神経を集中させるんだ。


 フライングV


 俺は俺でなくなる。




 

        ※


 黒ぶちと、真っ白い二匹の猫が、互いに無関心といった様子でゴミ箱の上を行ったり来たりしている。

 白い一匹は路上で寝てしまった。

 蹴られて倒れたゴミ箱のビニールに、黒ぶちは首を突っ込んでくしゃくしゃにしている。

 ずっと、寒い。しこたま飲んだからだ。飲まされたからだ。いや、飲んだんだ。頭が痛い。

 カラダのあちこちについているヘンな粘液は、決して馴染むものではなかってけれど、諦めるコトはできた。諦めようと思った。

 虚無感と徒労感でいっぱいになったカラダのふしぶしは、とにかく眠気を眼に誘った。

 ポリバケツをもう一度蹴ろうとして、そんな気力もないくせに、一層中途半端な強気だけが、ゲロのような茶褐色の液体を力強く踏みつぶさせた。

 黄土色に変色しかけた白いスニーカーをこねくりまわしながら、ぐちゃぐちゃと雫を白い猫に飛ばしながら壁に寄り掛かった。白い猫は少し怪訝そうにこっちを見ながら、二、三歩後へ下がった。

 コンクリートの地面に臀までべったりつけて座り込んで、一服した。

 目の前で若いカップルがラブホテルの算段をしている。ニット帽を被った背の低い彼氏がこっちを一瞥したが、何もなかったようにここは高いでしょ、さっきのほうがよかったでしょ、などとおとなしそうな彼女に話しかけている。下を向きながら、結局カップルはホテルに入っていった。

 黒ぶちが相変わらず目の前のビニールをくしゃくしゃに丸めながらのたうちまわっている。

 小さくゆっくり呼吸をすると、鼻腔の奥からアルコールと血の臭いがした。濃いい濃いい鉄は滑らかに舌を痺らせながら喉を波打たせた。穏やかに灼かれた喉は、余計な臭気を体内に蘇らせながら、闇の冷気に対抗して、頭はのぼせるようだった。

 ベンツのヘッドライトに漆黒に照らされながら間延びした猫の、影のある一点だけを見つめていると、そこに吸い込まれたらどんなにか気持ちイイのだろうと思い、一瞬だけ何も考えなくてもきっと自分は救われるような気がした。それはフェイクであればある故に心地良かった。


 

 とんとんとんとんと音が近づいてきて、黒いファーのダウンが降ってきた。薄い影が下半身を侵略したのを確かめてから、ダウンを着て、アユムに引きおこさせた。

 路地裏を抜けて、大通りに歩くまでの間二人はほとんど口を聞かなかった。

 人通りは減り、冷徹な欲望は風を切りながら全身を撫で付けた。駅前のロータリーでアユムが口を開いた。タクシーのおっさんが二人、立ち話しをしている。

 「俺、ハナちゃん待つわ。仕事もうすぐ終わるんだってさ。ここで待ち合わせの約束したし。」

 白い吐息を弾ませながらアユムは少し興奮している。

 「ハナちゃんマジでイイよ。超かわいいし。パイオツ揉ませて貰ったし。超イイコだよ!デートしようって言われてさ、ちょっと俺待つよ。ほら、タバコも貰ったしよ!」

 短い輸入物のタバコケースをぶらぶらさせながら、結局、ちょっとの間ロータリーのガードレールに座りながら、一服した。向かいには交番が見えた。二人で私服警官にタバコを見つかって高校に通報された日があった。あれは本当に警官だったのだろうか。警察手帳すら提示されていないのを今更ながら思い出した。

 はあはあと白い息を吐き続けるアユムに比べて、俺の息は弱々しく鼻から薄く闇の中に昇った。

 アユムからのタバコを拒否し、俺は最後の一本になってしまった、シケって冷えた穂先に火をつけた。ジジっと赤々と閃光が灯った。



 ロータリーの真ん中で、中年とヤクザのような男が殴り合いをしている。いつ始まったのかよく分からないが、怒鳴り声が上がったときには中年は額を押さえて血だらけになっていた。三発、四発、ヤクザのような体格のがっしりした背の高い男が膝蹴りを入れる。ジャッジャッと布が擦れる音がして、少し小太りの小柄な中年はやられっぱなしだ。血がだらだらと黒いコンクリートに染み込んでいく。微かな血の香りを漂わせながら、中年は死ぬんじゃないかと思った。周りには数人のギャラリーがいる。好奇の目を向けるもの、嫌悪の目を向けるタクシー運転手、ギャラリーの表情を気にする者、周りの様子を気にする者。一見どいつもこいつも目以外は無表情を装っている。助けを呼ぶ者も、騒ぐものもいないが、殴るヤクザの無表情に加えて、殴られる中年でさえ無表情なのはなぜだろう。



 持っても待ってもハナちゃんはこなかった。

 とうに二時間は経っている。

 薄手のインナーのみのアユムは寒そうだ。さっきから全く変わらず真正面を見据えている。黙ったままだ。撫で付けられてウエーブがかかった髪は乱れ、鬼のような形相をしている。

 俺も寒くて仕方がない。背筋の悪寒はいやらしく背骨のまわりに張り付いていた。

 送迎のマイクロバスやワゴン車の出入りはもう全く見あたらなかった。

 ポケットから携帯を出した。

 ファイルを開く。

 全裸のおっぱいに消臭スプレーの缶を挟んで、挑発的なポージングをとるナース姿の若い女が上目遣いにこっちを見ている。女は得意げだ。消臭スプレーの缶を、上に下に擦り上げている。ナースキャップを被ったまま男のナニを貪るようにくわえるファイルもあるし、後ろからペットボトルをアナルにあてがっているのもある。アユムにメールを送信してから、電話した。

 「寝てた?・・・起きてたでしょ?・・・・・違うよ。・・・・。そう。・・・・・。・・・・・・・だから今からすぐ来てよ。そう。・・・金持って来て・・・。だから友達なんだって。いいから・・・・・・。大事なんだよ。・・・起きろよ。・・・O駅の東口のロータリーだよ・・・・車あんじゃん。・・・何?・・・・・・・だから・・・・・・・・・・すぐ終わるよ。・・・だから・・・好きにしなよ。・・・頼んでんだよ・・・・・・・・・いいから早く来いよ。」

 携帯を折りたたんでから、ダウンを脱いだ。メールに気づいていないアユムに携帯をみるように促した。

「俺、もう行くわ」

 ダウンをアユムに投げ返して、徒労感と、わけのわからない焦燥感を感じていた。


 頭が締め付けられるように痛い。


 大通りの並木道を足早に歩きながらユミに電話した。



「頼むから、早く来てよ」



 

 冷えたジャケットを着込んで、ポケットに手を突っ込んだ。傍らのユミは無表情だ。歩きながら俺は強引にユミの左手を掴んで、右手のポケットに押し込んだ。目の前の懐かしい銀色のビルディングは妖しくネオンを反射しながら、ミラーに二人の姿を吸い込んだ。

「みんな、近くのファミレスで待ってるよ。迎えに行って来るって言って出てきたから」

「いいんだ」

「良くないよ」

「いい」

「どこ行くの?」

「べつに」

「アユムクンは帰ったの?」

「帰ったよ」

「連絡くらいしなよ。みんな心配してたよ」

「ラブホに行こうよ」

「なに言ってんの」

「ちょっとだけ」

「行かないよ」

「ちょっとだけだよ」

「ムリだよ」

「頼むよ」

「いいや」

「あのときは良かった」

「・・・」

「すごく良かった。またシたいんだよ」

「どうしたの?」

「どうもしないよ」

「シンおかしいよ」

「おかしくなんかあるかよ。いつも俺は俺の思うように発言するし、行動してきたんだ」

 ミラーに反射して、眩い光を放ちながら闇夜にタクシーが裏返って走り過ぎた。

「あぁ、予備校んときは楽しかったな!毎日毎日勉強して楽しかったな。朝八時にはもう大きい教室に入ってさ、朝早いんだよ、電車で一時間かけて、すぐカード通して、あれがあるからサボれないんだよな。自分で行きたいって言ってるし。すげぇ眠いんだよ。予備校の一限ってなんであんな早いんだろうな。初めて予備校いったときなんだかドキドキしたよ。俺、男子高だったろ?女の子が隣にいるってだけで、ちょっとだけ緊張したよ。肘か当たるかあたらないかに押しつけあってさ、全然ヤラシイ気持ちなんてなかったな。みんな真剣だったから良かったな。真剣に人生と向かい合ったことなんてあれが初めてじゃないかな。ごめん、嘘だよ。ヤラシイ気持ちしかなかったのかな。俺は。授業中も半分くらいはセックスのことを考えてたのかな。授業だって面白かったよ。いつも前のほうに座ってる頭のイイコとセックスしたかったな。いいや、嘘。いつも真剣に前の方で講義を聴いてたのに、途中から一番後ろに行っちゃったコが良かったな。あのコ知ってる?名前なんて言ったっけ?ああ知らない。俺だって知らないよ。途中から来なくなったし。俺、ユミと出会えたのは人生のクリティカルヒットだと思ってるよ。初めてみた瞬間に抱かれたいと思ったよ。一目見て、そう思った。ヨウコと友達だったのはラッキーだったな。CD貸したの覚えてる?レニークラヴィッツ。俺ちょっと緊張してたよ。女の子としゃべるのって緊張するんだなって思った。冬期講習の二日目覚えてる?生物の講義の時の、ハイネックの茶色いセーター。あれ、最高だったよ。袖がブカブカのヤツ。あれに抱かれたらどんなにか気持ちイイだろうって思ってね、生物の時間はずっとそのことを考えるようになった。ブカブカのブカブカに入って転げたら失神するほど気持ちいいんだろうな。包んで欲しかったよ。もちろん、途中から行かなくなったのは冬が終わったからだよ。だって意味が、ないよ。もう持ってないんだろ?あの茶色いセーター。いいよ、もう。それよりあれだ!年が明ける前に初詣に行かない?うん、それがいいよ!それが一番いい!頼むよ。それだけでいいから。」

 気がつくと、雪が降っていた。暗闇の天空から降り落ちる小さな白塊は、乾燥した埃を撒き散らしながら、心地良い冷気を頬に溶かした。

 とんとんとんとん

 とんとんとんとん

 冷えた左掌の感触を心地よく思いながら、拳を堅く丸めさせ、上から目一杯の力で握りしめた。白い煙が立ち昇り、視界を遮りながら闇に白い頬は妖艶だった。歩きながら見る全ては切なげで、頼りにはならない。あの青白いネオンも、ずっと続く並木道も、深夜のコンビニも、ゴミに群がる猫たちも、いつもの場所にいつもいる浮浪者の老婆も、冷徹に闇に向かうブナの木も、中学校の鉄の裏門も、ハンバーガーショップも、ファミレスも。予備校講師や大学の教授、弟や親戚の姉ちゃんや、酒ばかり飲んでるおっさんや風俗に連れて行かれた先輩や。いつも寝ているおじいちゃんやウエストハイランドホワイトテリア。初めてのセックスやピンクの中学校。何でもかんでもが頭をよぎっては消えた。

 

 赤い鳥居は目の前の白いコートと対極を為し、布擦れの音をいっそう境内に響かせた。黒髪はサラサラと板に一本一本が付着した。滑らかに湿って紅く染まった谷間は、硬くなった先を一層強ばらせた。乱暴に右の谷間を掴みながら、はだけたナマ暖かい下着の体温が拳を溶かすのを感じながら、真っ赤な手すりはますます艶美だった。透き通るように白い腿に左手を滑らせながら、結合部の激しい温度を感じた。賽銭箱の板目がぎしぎしと卑猥な音をたて続けた。頭に付着した粉を払いながら、厚ぼったい紅い上唇を噛んだ。俺を包む凛とした一本一本はなんて美しいのだろう。潤んだ瞳は充血していた。長い睫毛が痛々しい。潤んだ瞳は俺を見ているのではない。俺の後ろの闇を恐れて、闇を勢いよく飲み込むのだ。ずっと、そうだったのだ。鼻の頭の大きなホクロは、ずっと俺を嘲っていたことになんで気付かなかったのだろう。

 ぽたぽたと血が滴り、足下の雪に鮮やかに点を作っていった。禿げた黄土色の土に滴った土は、頼りなげに灰色になっては闇に還元されていった。

 目の前に広がる闇に聳える鮮血の朱!白と朱と黒と黄土色の中にはだけた白い肉の塊が蒸気している。吐く息は白くも黄土色にも見える。

 やっぱり、そうだ、と、思う。

 こんなにも美しい世界が他にあるだろうか。

 


 タカヒロが鬱病になって、看病をしていたら、私も鬱になって、タカヒロはいっこうに良くならないし、私の症状も悪くなるばっかりだし、お互いのためを思って別れたの。

 で、気付いたんだけど、私は結局リョウが好きだった。リョウにはフられちゃったんだけどね。そのときに励ましてくれたサークルの先輩と付き合ってるんだ。先輩はもう就職も決まったの。大手のエンジニア。私も絶対小学校の先生になるから。



 シンのことは初めから嫌いだった。


 

 

 横断歩道でみんなと合流して、駅までを歩いた。

 少し明るみかけた気がした闇は、まだ濃い色を空に漂わせていた。

 タカヒロとナベとまると小林とユミと歩きながら、少し幸せな気持ちがして怖くなった。

 


 ホームはまだ暗く、いつも通りの一番端には人が一人もいなかった。一車線向かいのベンチには黄土色と茶褐色に照らされた嘔吐物が生々しく巻き散らかしてあった。軽いアルコールと濃い鉄の味を噛みしめながら、足下にも新しい嘔吐物が散乱しているのに気が付いた。暖かい、肌色をかかとで踏みつけたら、吐き気がした。奥から列車の淡い光が左頬を照らした。メロディが頭を揺さぶって、俺は列車に飛び込んだ。

                 

 完

                       

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る