女性の底力

現代の世は男女同権。

男尊女卑からの脱却。雇用均等。


只今の世では「法律」によって女性の権利を向上させようとしています。


妻は夫の三歩後ろを静かについてくるものだ。

夫の帰宅時には三つ指ついて迎えるべき。

男子厨房に入らず。


何時頃からそのような男尊女卑が形成されたかは私は詳しく有りませんが、近代の研究では、肉体的な頑丈さは男性に分があるが、精神的強さは女性、コミュニケーション能力も総じて女性に軍配が上がっています。


お芝居の話ですが、未経験の男女に演技をしてもらうと、余程の才能の差がない限り男は演じられず、女のが上手く演じる率が高いとされていて、私はその場にいた事があったので、男達が総じて女性は見れる演技をしていました。

演劇業界では、女性は吸収が早い早熟型が多く、男性はそれには遅れるが、挫折しなければ晩成型が多いとされます。


男性と女性は同じく人間ではありますが、向き不向きが有るのです。


差別ではなく「区別」と考えるのも一つではあるかと思います。


断って置きますが、私自身は男尊女卑を支持する人間ではなく、あくまで今回は中立として女性の活躍を取り上げて行きたいと思います。




まず過去に飛んでみましょう。歴史で学ぶ事が多いと思いますが「邪馬台国」という古代国があったとされています。

未だに場所の特定もされきっていない国ですが、大陸の書物には「邪馬台国の卑弥呼」とあったり「金印」を贈った。とされ、卑弥呼は女王であったとされます。


古代、いや今でも何処かで受け継がれている可能性もありますが、国をおさめるには男女の兄妹、姉弟が相応しいとされました。

男が軍事を司るなら、女は神格が高く、その霊力を持って男を支える。

更に近代の倫理観では否定的ですが、姉弟で夫婦となり子供をもうけるのが両親の力を受け継ぐ神子を作る神事とされたとも。


なしにろ神話にイザナギ、イザナミの男女の兄妹神が天沼矛で国造りを行った。

更に二人は夫婦となり国の基盤となる様々な子供神を生み出して…最後に産まれたのが火の神ヒノカグツチで、イザナミの女陰を焼いてしまい、イザナミは神去られた。

夫のイザナギは怒り、我が子のヒノカグツチを天之尾羽張でバラバラにして殺してしまいます。それほど愛情は深く…


失敗してしまいますが、黄泉の国迄出向き、神去った妻を連れ帰ろうともします。世界中に黄泉の国に黄泉がえりをさせる神話が存在しているので、その一端かも知れませんが、愛情を表すには十分な神話でしょう。


卑弥呼の時代は女性が権力を持つことに寛容であったと考えられますが、後々に形成される大和朝廷は男権的であり、女王は稀となりました。


そこから時代を進めます。


庶民の間で広まっていたかは不勉強で断言は出来ないのですが、少なくとも権力者と呼ばれる人達。当主は男性で妻を持ちます。

何かしら不幸があり当主が亡くなると、財産は紆余曲折ありますが大抵は妻が継承して家を維持したそうです。


そうなると無知ではいけません。


近代の倫理観では女は嫁に出すから勉学は必要ない!と言う家庭も多く、女性は読み書き計算ができない人が大半であったと言います。


ですが昔の女性は違いました。家を守るためには知識は必須。公認の子供の後見役になったりもしたでしょうから、ある程度の地位の女性は男性に負けない教養を持っていたはずです。


源氏物語、枕草子…このあたりしか知らないのですが、朝廷で女房と言う役職についていた女性は優れた文学作品を残していますし、天皇の子女のお付となって勉学を担いました。姫御子には女性しか側に居れず、結果有能な女性が居た証拠となりましょう。



そのような時代から更に現代に近くなる、血生臭くなる武家の時代。


この時代でも財産は夫婦共用であったりしました。

更に後世廃れて現代では見なくなりましたが、男女共悲しいかな浮気をする生き物であります。


正妻に夫の浮気がバレると、正妻に「特権」が発動します。


うわなり打ち


と呼ばれます。今年の大河ドラマでも時代の特徴としてうわなり打ちが再現されていましたね。


うわなり打ちとは死者を出さない女性の「合戦」と言えます。

正妻の親族が集まり正妻を大将として愛人の屋敷に討ち入るのです。

農具や棒、箒や木槌等を持ち出して愛人屋敷に攻め込みます。

そして屋敷打ちこわしに家財も奪うなり破壊します。

これは女性の正統の権利であり、夫は止められません。

たまにうわなり打ちの情報が漏れて、愛人側も親族を集めて防衛したという事もあったようです。


女性は意外とアグレッシブなのでした。


鎌倉時代で一番有名な女傑と言えば、源頼朝の正室、北条政子でしょう。悪女にも入れられる事もありますが、朝廷軍が鎌倉を制圧しようとしたときに動揺する御家人達を鎮め、繋ぎ止めるだけでなく、士気も高め、幕府の存続を果たした正しく「尼将軍」でしょう。

強い方ですね。




鎌倉時代から更に時代を進めましょう。

世にいう戦国時代です。


世にいう戦国時代の走りの一つに京都を戦乱に巻き込み、諸国の群雄が管領や将軍について長年暴れまわった応仁の乱も外せないでしょう。

将軍の跡目争いと幕府のパワーバランスの崩れで京を舞台に争う。細川、山名、畠山、大内、将軍弟…名だたる勢力がそこかしこで殺戮や略奪、焼き討ち等、阿鼻叫喚であったと伝わります。


ですがこの乱には黒幕が居たと言います。悪女と名高い将軍正室「日野富子」その人である。


日野富子は直接戦には加わらず、我が子を将軍にしようと暗躍したと通説ではあります。

更にお金にがめつく京や周辺に滅多矢鱈に関所を建てて税を取り立てた。

更には京の武将達は遠征をしている立場であり、様々な物資で資金難にも陥っていた。

そこにどの勢力にも構わず関所で貯めた資金を貸し付けて戦を長引かせた…と枚挙に暇がありません。


しかし最近の研究では日野富子の行動がなければ乱はもっと長く残酷になっていたとされています。所謂再評価です。


日野富子、いや、幕府にはもはや号令で停戦させる権力も、自前の戦力も無い状態でした。

乱の実態は将軍を傀儡として三管領と呼ばれた名門御家人がいかに天下を握るかに焦点が移っていました。


そこで日野富子は未だ誰も手にしていない「武力」を発見します。

資金です。


日野富子は関所を滅多矢鱈に建てました。それにより税金を取るとともに、人の出入りに制限を加え、結果として京に無関係な人間の流入を減らしました。

その税金を財源として、三管領共通の泣き所である資金難に目をつけます。

そして内々に銭を貸し与え、利子という首輪もつけます。

利子もあり何度も資金を借りる訳にはいかなくなります。


そうなるとそれぞれがそれらしい理由をつけて撤退の準備を始めます。

それに対して日野富子は、それまでの遠征の苦労を労い、撤収の為の資金を出しました。

そこまでされるともはや争えません。諸勢力は着飾って領地に帰還しました。

日野富子は男の面子を潰さずに傷を少なく撤退させたと今では解釈されています。


何せ旦那である足利将軍は政治にも軍事にも世継ぎにも大した興味がなく、自分だけの文化の世界にのめり込みます。


正に母は強しです。列強から御家を守る為に八面六臂活躍したのが…後の悪女伝説なのでしょう。


この乱が日ノ本六十余州に戦火を広げてしまったのは皮肉でしかありません。




群雄割拠。他国に攻めたり攻められたり。

その都度女性は戦利品の様に扱われたりした…とあります。

人間明日死ぬかもしれないとなると男女共に性欲が増すと研究結果が出ています。

ですので戦で逃げ遅れた女性が居ようものなら兵達の慰み者にされたという史実もあったでしょう。

女性にとって完全な地獄…だったのでしょうか?


資料に残っている話ですと、有名な今川武田北条三国同盟。

その中で今川家大殿今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られてしまいます。

もう家督は息子の今川氏真に譲られていましたが、彼に家中を治める気概はありませんでした。

そこで登場したのが今川義元の母親でした。剃髪して尼になっていましたが、孫の氏真の補佐、もしくは代表として手紙をしたためたりと家中統一に尽力しました。ですが余りに高齢であった為に後事を氏真と重臣に託し先立ちます。それからはバランスが崩れ、武田と松平に攻め込まれ、名門今川家は滅亡します。

ですが最後の綱渡りに当主の祖母が政務を行った。女傑と言えるでしょう。



それから時が経ち、織田家の信長の乳兄弟池田恒興の娘は、信長お気に入りの森家(森乱丸が有名)の森長可の妻となりました。


森長可守備の城が攻められます。

森長可は織田家でも正に「狂犬」。主信長でも止められない暴れん坊。当然籠城せずに打って出ます。

一進一退の攻防を森長可の勝利に傾けたのは池田恒興の娘が組織していた女性だけの鉄砲隊でした。

正室も籠城せずに見事に鉄砲隊を指揮して敵を撃ち抜き退却させました。似た者夫婦だったのでしょう。


他に異説では、越後の軍神上杉謙信にも女性説が登場しています。上杉謙信の肖像画で有名なのは黒い尼頭巾を被った髭の肖像画でしょう。

ですが肖像画は複数存在しています。一番古い物は、尼頭巾も白く、体型はふっくらとして、髭も描かれていません。

更に文書にも謙信公は幾度と「むしけ(腹痛)」を患い、陣中でも姿を見せない時もあった…と。

研究者の間ではむしけとは「生理」だったのでは?とされて、それを根拠の一つに女性だった…と言われます。

徳川幕府二代将軍徳川秀忠の遺骨は研究者により発掘されているのに、上杉謙信の遺体は神職や様々な人々から発掘を拒否されているので余計にロマンが掻き立てられるのでしょう。




女性は男性より筋力に劣る…そう言われて、近代は男尊女卑、高度経済成長で重労働が昼夜もなく行われていたので男性の肉体的特徴は尊ばれたでしょう。


では女性は同じ活躍が出来なかったと言われれば…これだけの歴史的研究結果だけでも覆されると思います。


戦国時代の武田と北条の追撃戦で、北条は武田を甲斐に押し戻します。

これは歴史書にも載っているので事実と言えます。

ですが近代その撤退戦の行われた土壌を発掘すると…歴史書には載っていない「新発見」がありました。

人骨で男女を見分けるには骨盤の形で分かると言います。

その地層からは男性のみならず女性の遺体も発掘されたのです。

研究が進むと、武田軍団には投石部隊が他の大名より重要視されていました。

こぶし大の石が当る当たらない関係なく多量に飛んできたらたまったものではないですね。

武田軍団では女性も投石部隊の一員として従軍していたと言う結果も出始めています。


この時代、織田信長は足軽に三間槍を揃えて装備させ、武芸の稽古も積んだ武士が三間、約9mの長さの槍で叩き落とし、稽古の多寡関係なく対処出来ず武士は半農の足軽に負けました。


これはどうでしょう。

三間槍、投石、弓、鉄砲、大砲


段々と敵から遠いのに敵を簡単に倒す正に軍事革命だった。

距離と威力があれば女性も戦に出れるのです。

夫婦なら財産分与。戦は夫婦揃って出陣、もしくは籠城なら女子供は鉛を熱して鉄砲玉を作り、討ち取った敵の首にお歯黒を塗ったり髪を結ったりと遺体にも触れています。

それを残した書籍も伝わっています。


戦国時代の終わりの象徴。大阪城落城。

此時にもある女性の体験が残っています。

戦をしていた大阪城と徳川軍。

そんな中でも城を出ないで大阪城に居た女性となると、高貴な女性の侍女だったと考えられています。

時は夜。小腹がすいた侍女が台所で夜食を作ろうとしていたら何か焦げ臭い。

自分の竈の臭いでない。

侍女は夜討だとピンときて、手近な金品を持って一目散に城を出ました。


ですが焼けた臭いは城下町が焼けた臭い。もう徳川軍が城下に来ていたのです。

やはり頭の回る侍女。途中で敵方の足軽に見つかります。

足軽が構える前に袖から金を出して、


「こちらの方角に昔お世話した大名家の陣がある。そこまで護衛なさい。無事についたならこの倍の金を出しましょう」

余程足軽がお人好しだったのか侍女が上手だったのか、足軽に護衛されて縁のある大名家の陣に匿われました。報酬も足軽に払ったそうですし、侍女は日頃から着物に金品を忍ばせ、逃げ道も計画していたのでしょう。

その逃避の途中で他の女性も護衛させたなどとも伝わります。

先に述べていた精神力の強さは女性に軍配が上がったお話かと。





もっともっと戦国時代は女性の活躍の話が多いですが、大阪城落城の逸話も話したので、ここで泰平の江戸時代に移りましょう。



徳川のお膝元の江戸。時代劇でも出てくる通り、全国から人が集められます。


入り鉄砲に出女。


鉄砲は徳川にあだなす物なので止められ、出女とは、徳川幕府に忠誠を誓った大名が江戸屋敷に人質として正室か姫を屋敷に残していたので、出女に紛れて正室や姫が江戸脱出を謀るかもしれないと警戒されました。



江戸時代は着実に女性の権力を削いでいきました。


では庶民はどうだったでしょう?


時代劇では地方から人買いが幼子を買って幕府公認風俗、「吉原」に遊女、男性のはけ口として売っていた。

更に庶民も借金のかたに妻や娘を吉原に売られる…


女性はこんな扱いばかり…ではありません。



特に庶民ですが、江戸には地方から仕事を求めて人が大挙してきます。

勿論地方からです。 

織田信長はうつけ、たわけと言われていましたが、たわけとは田分け。貧乏百姓が土地を子供に分け与えて、結果子孫は猫の額の農地しか得られずに家が絶える。ですので田分けするのは愚か者の意味で使われました。


ですので田分けは行われず、百姓の男兄弟は長男が総取り。下の子は小作人と同じ扱いで、嫁もとれません。


ですから下の兄弟は江戸に自立のために働きに出るのです。

江戸時代初期の男性比率は7-8割。どこもかしこも男男。

残りの2割に僅かに女性がいました。更に少ない女性の中で、年頃で独身ともなると


争奪戦です。


江戸中期辺りまで女性は宝も同じ。


よく離婚を「三行半」と言われますが、これも凄いいわれです。



この女は悪い女ではない。

俺の甲斐性が無いから離縁する。

再婚しても問題ない。

○○←元旦那の名前


こんな感じの三行半の手紙を別れたら戸口に貼ったりしたと聞きます。

三行半は男の面子、やせ我慢でありました。

江戸中期以降は女性も増えて男女平等に近くなるのですが…



近代の男尊女卑は、私の考えですが、権力者である武士や貴族の考えが明治になって平民に成金が増えてくると、「面子」があって過剰に平民にも広がったのではないのかと思います。



実際の女性はとても強いです。コミュニケーション能力の高さから、江戸時代には「井戸端会議」等と言われいち早く情報を仕入れ、背中には赤子を背負って、内職や市に出向きます。


妻を「奥様」とも呼びます。奥とは家中の事。


豊臣秀吉の弟、豊臣秀長は登城したばかりの大名を茶室で持て成して。


「表向きの事柄はこの秀長に。『奥向』の事はこの利休に相談なされ」

と言ったと言います。



今でも奥向は女性が担っている事が大半と思います。



日本が大東亜戦争で敗色濃厚となると、前線の兵士の遺書には「かあちゃん…」と書かれている事が多いように思います。

男親には悲しいことですが、余程でない限り子供は母親贔屓なのだと思います。


敗色濃厚の時も、まともに配給もなく…そんな時は子供に蒸した芋を与えて自分は芋や大根のしっぽを齧って水を飲んで気丈に振る舞った奥様も多かったと思います。




どうでしょう。昭和辺りまで駆け上ってまいりました。


昭和高度経済成長期。夫はとても危険な仕事をしていました。うちの祖父は鳶と大工の間の子みたいな人で、後年はアスベスト被害で呼吸困難で、働いた定年は安らかにはいきませんでした。

祖父は全国飛び回り家に居付かない類で、飲む打つ買うの買う以外の2つはしたそうです。


祖父が九州の仕事で、足場から落ちて腰骨を折りました。

電報でそれを知った祖母は、子供の面倒を見ながら新聞配達を始めます。夫の分も賄ったのです。入院費も会社と折半。

そして子供を連れて夫を九州迄迎えに行ったそうです。



この話だけで、女性は劣っていないと私は思います。

いや、性別にこだわらない人達も出てきた現代では過去の遺物でしょう。



ですが男女同権、雇用均等法。

これには気になる研究結果があるのです。


男女合わせて議題を会議したところ、女性が増えると会議にならない事が増えたそうです。

オリンピック会議の様に切り抜かれて差別主義者にされたく有りませんが、重要事の会議での男女比は男八、女二、だと円滑に会議が進んだそうです。



私は女性だけの職場に男一人で入ったことが2回ありますが、女性の中には未だ男尊女卑だと感じている人も多く、男のプライドや誇りや尊厳を滅茶苦茶にして、失敗は男の責任。反抗ととられると泣き叫び男は男尊女卑の悪党にされます。


これからこんな女性がメインの職場が増えると、男社会と同じかそれ以上のイジメが発生するでしょう。男女共に弱者には残酷です。


それが「底力」なんだと言われません様に…

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