第27話主人公


最近の「主人公」とは物語の中心人物をあらわしますよね?


ですが禅家の仏教用語ですと、「主人公」とは自分の本来の自分であり、己の全ての中心であります。



海外の書物タルムードでは。

ある賢い男が王様の奇病を治すには雌ライオンのミルクを飲ませれば良いと聞き、ライオンの巣に赴いた。

賢い男は毎日一匹子供ライオンを雌ライオンに与え、10日経つと雌ライオンと信頼を築き、奇病を治す雌ライオンのミルクを手に入れた。

その夜に賢い男は自分の身体が誰が偉いかで喧嘩する夢をみた。

足が「俺が居なければここまで来れなかった」

目が「私が居なければ何も見えない」

喧々諤々です。

そして最後に「舌」が自分が偉いと主張します。

体達はよって集って「体にへばり付く骨も無い役立たずは黙っていろ」

舌は「明日俺がいかに必要か知らしめてやる」そう誓った。

翌日王宮で賢い男が雌ライオンのミルクを献上する時に、「これは犬のミルクです!」舌が急に叫びました。

それには体中が慌てて。

「お前が一番偉い!」そう言いました。

すると舌は「私の間違いです。これは雌ライオンのミルクです」

そう答えて難を逃れました。

一番重要な部分は「自制心」を持つべきだ…と言うお話でした。



この話以外にもタルムードでは「舌」が重要とされます。長らく苦難の歴史を歩んできた彼等にとって言葉は学問であり、自己の表現であり、誓いに必要な存在でした。

明くる日マーケットで美味い物を買ってくるとして、人は「舌」を買い求めました。

そしてまた明くる日、マーケットで最も良くない食べ物とは…人は「舌」を買ってきました。

何故2回も舌なのか聞くと、最上の物は柔らかい舌で、最も良くないのは硬い舌であるからだそうです。

聖職者が師弟に料理をご馳走します。やはり「舌」の料理です。

その中でも柔らかい舌の料理は人気でした。聖職者は「柔らかい舌を尊ぶように」と教えたそうです。




近しい故事があります。


古代の大陸の縦横家(しょうおうか)の話です。

縦横家、遊説家は舌鋒鋭く権力者に意見する人でもあります。特定の主君に仕えるか、自身に相応しい主君を探し旅もします。

有名人でしたら「孔子」も縦横家と言えるかも知れません。将軍としての一面と政治家、縦横家、遊説家の顔もあります。

今回は別の縦横家の話。

ある男が王の不況を買い、王宮で衛兵らに打擲(ちょうちゃく、打たれる)されて家に担ぎ込まれました。

その足腰立たぬ有様はもう槍働きも出来ないと分かります。

妻が「お前様、前々から言っていたではないですか…いつか王からこの様な仕打ちを受けると…貴方は全てを失ったのです」

妻が男の側でそう言い崩れると、男は顔を上げて口を大きく開きべーっと「舌」を出しました。

男は「どうだ?私の舌はあるか?あるならば私は何も失ってはいないよ」

そう言いました。

縦横家、遊説家は兵として槍働きする事が本分ではなく、自身の「舌」をもって有利不利、義理不義理、益不益等の要素で「戦わずに勝つ」人々なのでまず「舌」を大切にした…と言うお話でした。

更に「武士に二言はない」「吐いた唾は呑めぬ」ともあります。

彼等は己の「命」すらその「舌」にのせて鬼気迫るやり取りをしました。


人それぞれ役割や大切な物、自己の置所の違いが分かりますね。



はい。


主人公です。


物語の主役を主人公ともされますが、禅家仏教用語ではまた違います。


我々全てが主人公。


そうとも言えます。

人間は様々な欲望を抱えています。その欲望を制御して確固たる「自分」を確立するものを主人公とします。


人間は誰でも「自分の主人は自分」ではないか。そう思っています。

ですが現代医学を少し紐解くだけでその「確信」は揺らぐ筈です。


「血液」は自意識で流していますか?


「心臓」は自在に動かしたり止めたり出来ますか?


「呼吸」は永遠に吸ったり止めたり出来ますか?


「筋肉」だってそうです。

体に微弱な電気信号を起こして反応させている様ですね。

更に「神経」が傷ついてしまえば幾ら信号を出しても体はピクリとも動きません。


人間は誰一人「体の主人」ではないのです。


では「精神」は。


主に精神に作用しやすい物としては


キリスト教でも七つの大罪。

仏教では百八の煩悩。

煩悩以外にも十欲五逆があるとも。


人は水が低きに流れる如く何かしらの「悪徳」を持つ人が多いでしょう。



そして主にその様々な事柄について




人間誰もが「自問自答」している時は有りませんか?



本当に良いのか?


間違いないか?


道に逸れていないか?


騙されていないか?


等。誰かに問いかけていませんか?


少々強引ですが、その自分が無意識に問い掛けている相手こそが「主人公」なのです。


上記の「騙されていないか?」と言う問い掛けは「他者」に騙されるのか。それとも自身の「表面的自己」に騙されるのか。


主人公の禅語の元になった僧侶は表面的自己に本来の自己である主人公が騙されないか?と毎日問い掛けたそうです。


表面的自己は上記の大罪や悪徳にも嫌でも関わりますし、下手をすればその悪徳に染まります。


ですので僧侶は毎日庭の石に坐禅して「もう一人の自分」に問うていたのです。



ではまた踏み込んで反復になりますか…主人公に問い掛けている「自分」とは?


その自分は現世を生きている、社会活動をしている自分です。上記の表面的自己です。

そしてその自分(自己)が「自分自身」だと人は思っています。


ですが無意識に「問い掛けている」相手が居るのです。


意識と無意識とも言えます。


人は生活するにあたり意識的に仕事や学問、療養、日常活動を行います。


無意識とは自分たらしめている「本来の自己」。


映画ピノキオにもピノキオの「良心」を名乗るキャラクターが出ますよね?

ピノキオは欲望や言われるままに…そう、操り人形の如く動き、時には悪徳にも染まりますが…それを良心が注意しています。

ピノキオはわかり易い表面的自己と言えますね。

「感情」「悪徳」の「操り人形」としての自己。

そこに「それは間違いだ」と叫ぶ「良心」


わかり易い可視化された「主人公」です。


遥か昔の哲学者のソクラテスも物事にあたるにあたって、胸に手を当てて「良心」に適っているか…を念頭に置いて活動したと伝わります。


昔から人は自分の中に「もう一人」を見出していたようです。


そしてそのもう一人は表面的自己に「悪徳」勧める事をせずに「自制心」を求めると思います。



そして日本の神道では。


心とは、こころころ…心は「転がる」と言われる様です。


ですから神に祈るにあたり、「心」で念ずるのは幾らでも「心変わり」する。だから神に祈るには「言葉」にしなさい。


先に取り上げましたタルムードの「舌」へのこだわりは正しく「こころころ」でなく「言葉」を信じる「主人公」とも言えます。

大陸の縦横家達も仁義礼智忠信孝悌…等を心得ていた人々ですから「己、道、に恥ず」事をしはしなかったでしょう。



「宗教的」に聞こえるかもしれませんがこれは「哲学的」でもあり「心理学的」でもあり…




それこそ信じるに足るかは「自問自答」




が、一番だと思います。



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