どうしてこうなった

 どうしてこうなったのか──車のハンドルを握る孝士は、ヘッドライトの光芒に照らされる山道を見ながらそう思った。

 緩いカーブのつづく道路は幅がそれほど広くない。夜の九時を過ぎたこの時間では対向車もほぼこないだろうが、路肩には蓋のない側溝があるため下手をすると脱輪してしまう。

 暗闇のなか、孝士は慎重に車を進めた。

 残業なんかするんじゃなかった。助手席の簾頭鬼へちらりと目をやり、孝士はため息をつく。さっき折戸の携帯に電話をしてみたが、繋がらなかった。たぶん、どこかで飲み直しているのだ。泥酔したという中田支社長は動けないし、夜中に事務員の寺石を呼び出すのもなんだ。となれば、簾頭鬼のお供をするのはやはり自分しかいない。貧乏くじを引くとはこのことだった。

 そうこうしているうち、行く手に臼山霊園の看板が見えてくる。

 孝士は看板のうしろの横道へ車を入れた。砂利敷きの駐車場に着くと、当然ながら停まっている車は一台もなかった。臼山霊園へ夜に訪れたのは初めてだ。敷地内には照明の類いなどいっさいなく、車のライトが照らす以外の場所はまっ暗である。

 エンジンを切り、ふたりは円島支社の社用車から降りた。

「ここですかあ~。なんだか気味の悪いところですねえ~」

 簾頭鬼があたりを見回しながら言う。

「そりゃあそうですよ、墓場なんだから」

 と、なかば投げやりに孝士。彼は事務所から持ってきた懐中電灯を点けた。それを見た簾頭鬼も、いつぞやのように指先から鬼火を出す。

 周囲が明るくなった。しかし懐中電灯の光はともかく、簾頭鬼の青白い鬼火は趣味の悪いイルミネーションのようだ。殺風景な墓地の様子が青く照らし出され、なんだか不気味さも増した。

「この霊園の南側というとお、どちらの方角ですか~?」

 簾頭鬼が訊いた。孝士は暗中で少しまごついてから、駐車場からのびる草に埋もれかけた小径を指し示し、

「向こうですね。道の先に休憩所があって、南側の森はそのずっと先です」

 今夜は三日月だ。ふたりは足下に気をつけて歩き出した。

 方々で虫が鳴いている。それへ、ふたりの草を踏む音が重なる。東屋を過ぎた。清水はいなかった。ほかの幽霊も。孝士は、もう清水は成仏したのだろうかと考えた。今日の別れ際、彼はそんなようなことを言っていたが。もしそうなら、ちょっとさみしくなる。

 墓石がならぶ区画へきた。ここらの地元では墓場に卒塔婆を立てる習慣はなかった。代わりに、墓参りするときには木枠の骨組みに和紙を貼り付けた、箱キリコという灯籠を供える。しかし最近ではそれも廃れてきて、かさばらない板型のキリコが主流となっているようだ。

 かなり歩いた。あたりには空墓地が目立ってきた。墓石はぽつぽつとしかなくなってくる。さらにゆくと地面の傾斜がきつくなってきた。アレチノギクやオオブタクサといった、背の高い雑草が密生しはじめて、ふたりはそれらを足でかき分けながら進んだ。

 やがて、ふいに孝士の懐中電灯が投げかける光のなかへ、行く手を阻むように樹木の連なりが現れた。

「ここですね」

 足を止めて孝士が言う。

 臼山霊園南部の森。外法古墳のある丘陵が近い。雑木が茂る森の奥へは光も届かず、まっ暗だった。下界の町中で暮らしているとわからないが、山の夜はほんとうに暗いものだ。

「ほほう~」

 簾頭鬼も立ち止まり、しばらく森のなかを見つめた。彼はふと手をあげ、目の前の宙を払うように腕を振る。

 蚊でもいたのだろうか。

「どうかしました?」

 と孝士。すると簾頭鬼は、

「ここお、骸形質が漏れてますねえ~」

「え? がいけい──?」

「骸形質ですう~。ミストプラズムとも申しますねえ~。現世ではない空間に満ちているう、霊力の媒質のことですよお~。どうやらこの奥にい、異空間を開いてなにかが潜んでいるようですねえ~」

 なんのことやらさっぱりだ。とにかく、この先に危険が待ち受けているのはまちがいないのだろう。簾頭鬼についてきたことを孝士は激しく後悔した。しかしそんな彼をよそに、簾頭鬼は目前の森へ踏み入ろうとする。

「ちょっ、簾頭鬼さん、いくの!?」

 簾頭鬼の背へ追いすがるように手をのばし、孝士が言う。

「はい~。だってえ、そのためにきたんじゃないですかあ~」

 孝士を顧みた簾頭鬼は平然として笑みさえ浮かべている。

 当惑する孝士。だが、まもなく彼も簾頭鬼につづいた。というか、そうするしかなかった。こんなところでひとりになるなんて、絶対にいやだ。

 森のなかに入ってから、ようやく孝士も異変に気づいた。そこでは外部とはあきらかにちがったなにかが感ぜられた。圧やプレッシャーといった表現が近いかもしれない。誰かに見つめられているのに似た、居心地の悪さ。森の異様さはそれだけではなかった。急に霧か靄のようなものが立ちこめてきたのだ。周囲がわずかに霞んで見える。

 孝士もさきほど簾頭鬼がしたのとおなじく、目の前のなにもないところを手で払ってみた。すると、空気中で微粒子が舞い、それが動くのがわかった。最初は煙かと思ったが匂いはなく、どこかでなにかが燃えているのではなさそうだ。いまの条件下で霧が発生するとも考えにくい。

 では、これが簾頭鬼の言う骸形質──もしくはミストプラズム──なのだ。さっきは聞きそびれたが、霊力の媒質とはなんだろうか。孝士の身体にもまとわりつく骸形質は、進むにつれて確実に濃くなってきている。

「す、簾頭鬼さん、これ吸っても大丈夫なの?」

 心配になった孝士が口と鼻を手で押さえ、前をゆく簾頭鬼に訊いた。

「まあ、少量ならば問題ないでしょう~。現世に住む定命の方にとっては異質なものですがあ、毒ではないのでえ~」

 なんとも不安をそそる返答だ。

 しばらく、ふたりは言葉を交わさずに足を進めた。腐葉土が敷き詰められた足下は柔らかく、歩きにくい。やがて空気中の骸形質がさらに濃くなったようだ。懐中電灯と鬼火の光が乱反射するほどで、もはや周辺の景色はぼんやりとしか見えない。孝士は身の危険を感じた。

「簾頭鬼さん、もう戻りましょう。このままだと迷子になっちゃいますよ」

「いやあ、発生源は近いですよお~。ほらあ、あそこじゃないですかあ~?」

 言って、簾頭鬼が前方を指さした。

「うわ……なんだ、あれ?」

 孝士は前方に見える奇妙な光景に目を瞠った。

 それは空中にあった。位置的には孝士の目線から一メートルほど上。なにもないはずの虚空から、濃度の高い骸形質が生じている。懐中電灯と鬼火に照らされ青白く見える骸形質は、空気と比重が近いようだ。じわじわとにじみ出て、まるで周囲を汚染するかに拡散している。

「あれはあ、空間の綻びですねえ~。完全に閉じられてないのでえ、向こう側の骸形質がこっちに漏れちゃってるんですよお~」

 と簾頭鬼。

「ど、どゆこと?」

「つまりい、何者かがあそこに超空間的な通用口を設置したのでえ、部分的に空間の分界が不明瞭になっているんですねえ~」

「そんなこと、できるんだ……」

 孝士としてはわかったようなわからないような、判然としない心地だ。いや、それよりもだ。気になるのはいったい誰が、そんな空間どうしを繋ぐという常識外れをやってのけたのか。

「ではあ、せっかくですのでえ、なかに入ってみましょうかあ~」

「はあっ!?」

 簾頭鬼のとんでもない提案に孝士は仰天した。

「問題ありませんよお~。向こうにあるものがこっちに漏れてますのでえ、わたくしたちもあっちへ入ることが可能ですう~」

「いやいや、やめましょう簾頭鬼さん! あぶないって!」

「ええ~、そんなのお~、入ってみないとわからないじゃないですかあ~」

 まるで孝士をからかうような簾頭鬼の顔には、嘲笑じみた表情が浮かんでいる。

 この人──いや簾頭鬼は人間ではなかったが──もしかしてわざとやってるのか。さすがの孝士も、これ以上は付き合っていられない。異空間を出たり入ったりするなんて、どう考えても尋常でない化物の所業である。そんなのに襲われでもしたら、どうするつもりなんだ。

「ぼ、ぼくは帰りますよ! いくんなら、おひとりでどうぞ!」

 数歩あとずさった孝士は、たたらを踏んで身をひるがえした。そうして、きた道を引き返しはじめる。すると、無様にあわてふためく彼の背後でパチンと小気味よい破裂音が鳴った。

 簾頭鬼が指パッチンをしたのだ。

 つぎの瞬間──世界が、ひっくり返った。

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