第五章

看取川にかかる橋を

 看取川にかかる橋を渡り、緩くくねった道路を進むと、やがて上り坂になる。

 このあたりの丘陵は唐松が生い茂るばかりで、臼山町の地元民でもあまり足を運ばない辺鄙な場所だ。徐々に傾斜がきつくなってくる二車線道路の路側帯には、いま一台の自転車が走っていた。いや走っているというか、よろめきつつかろうじて前に進んでいた。

 針村孝士である。

 スーツの上着を脱いだ孝士は、サドルから腰を浮かせて懸命にペダルを漕いでいる。本日の最高気温、三六度。不要な外出を控えるよう気象庁から熱中症警戒アラートが発表されていた。しかし、これも仕事だ。いかなる天候でも休むことができないのは、外勤のつらいところである。

 孝士とおなじく霊界データバンクで地域巡回スタッフの仕事をしている折戸謙は、まだいい。彼は軽自動車とはいえ社用車を貸与されている。孝士はなんとか自分にもと思うが、霊界データバンク円島支社の規模を考えれば無理な相談だろう。企業の経費は利益を生む部署へ多く注ぐのがあたりまえで、僻地の小さな支社が優遇されることはまずない。

 熱中症防止のために薄いグレーのバケットハットをかぶっている孝士の前方に、臼山霊園と書かれた看板が見えてきた。孝士の自転車はそのすぐ後ろにある横道へと入った。

 幅が三メートルほどのコンクリートで舗装された道がしばらくつづく。左右に生い茂った深い薮からの草いきれがすごい。青臭いもわっとした熱気のなかを進んでゆくと、まもなく砂利敷きの広場に着いた。

 臼山霊園の駐車場だ。収容台数ならば二〇台はいけそうな場所に、いまは一台だけが停まっている。隅には当駐車場で起こった事故の責任は云々とある注意書きの板が、鉄パイプの支柱に固定され利用者へと示してあった。孝士はうっすら赤錆の浮いた鉄パイプの傍らに自転車を置くと、ワイヤーロックで固定した。

 臼山霊園は市営の墓地であるから、寺院墓地とちがって敷地内にお堂などない。土地面積は三千坪ほどもあり、いびつで細長い形をしているが広さでいえばちょうど野球場くらい。設備は乏しいもののたくさんの区画があり、そのうえ利用料金が安かった。

 自転車のカゴに入れたリュックからタオルを取り出した孝士は、汗だくの顔と首の回りを拭った。ワイシャツが汗でべたつき、気持ち悪いことこのうえない。そうしてリュックを手に提げた彼は、駐車場からのびる小径をたどって墓地のほうへと向かう。

 急な下りの道。周辺の地形は起伏が激しい。ところどころに鬱蒼とした薮があり、孝士が歩む小径は半ば草に埋もれて獣道のようになっていた。お盆のころには草刈りをしたのだろうが、もう雑草がのびている。民間の格安墓地ゆえ、随所で手入れがおざなりなのだ。

 ほどなく進むと、遠くに東屋が見えてきた。木の柱が支える四角い屋根の下に、石造りのテーブルとベンチがある休憩所。

 孝士は仕事柄、就業中は臼山町のあちらこちらを自転車で巡回している。町内を彷徨う幽霊の所在を確認するために。臼山霊園は、その途中に彼が休憩がてら昼食を摂る場所となっていた。で、今日もいつものルーチンとしてここへやってきたのだ。

 孝士が東屋に近づくと、そこにはふたりの男性の姿があった。

 いや、二体というべきか。それらは、どちらも幽霊だった。片方は東屋のベンチに腰掛けて、もう一方は屋根の軒のところで寝そべっている。近所を散歩なんかしてると、たまに人の少ない往来でごろごろしてる猫を見かけたりするが、まさにそんな感じだった。くそ、気楽な奴らめ。

 ベンチに座っている幽霊が孝士に気づいた。

「やあ、針村くん」

 そう声をかけてきた相手に孝士は軽く会釈した。

「どうも」

 顔見知りの幽霊である。孝士は小太りで作業着の彼と、テーブルをはさんで向かい合う。

 炎天下から逃れて日陰に入ると、いくらか落ち着いた。孝士はリュックからスーパーで買ってきたペットボトルの水とおにぎりを取り出し、目の前に並べはじめる。すると頭上からふわりと幽霊が降りてきた。さっき屋根のところにいたもう片方の幽霊だ。

「針村、おまえまた墓場飯なの?」

 丸刈りで痩せぎす。セットアップの黒いジャージを着た幽霊が孝士に言った。

「いいでしょ、べつに。ここ落ち着くんですよ」

 と孝士。

「水とおにぎり……若いんだから、もっと精のつくもの食えよなあ」

「無理です。こう暑くちゃ食欲もなくなりますよ」

「贅沢を言ってんじゃねえよ。死んじまったら、なんも食えなくなるんだぞ」

 ぼやくようにそう言った幽霊は、岩元という名前だった。割と最近になって現れた幽霊である。死因は借金苦による自殺らしい。本人からではなく、いまここにいるもう一体の幽霊、清水から聞いた話だった。

 その清水はといえば、臼山町にいる幽霊では古株なほうだ。彼は生前、臼山町で小さな金属加工の工場を営んでいた。長時間労働による過労で亡くなり、あとに残した従業員や遺族のことが心配で幽霊となった。気の毒な話である。

 孝士はスマホの電源を入れてルートナビを起動した。彼が仕事で使う幽霊の所在を確認するためのアプリケーションだ。岩元と清水が確認できたので、それを入力する。その情報はネット回線を介して霊界データバンク本社のサーバーへ送られ、幽霊を管理統率するために役立てられるというわけだ。今日は、まだほかにもチェックしなければならない未確認の案件がいくつもあった。ペースはややよくない。

 墓地は浮遊霊が集まりやすい。孝士が毎日、臼山霊園へ寄るのはそれが理由でもあった。ここへくれば、いくつかのノルマを消化できるのだ。しかし通常ならば少なくとも三、四体はいるはずなのに、今日はちょっとあてが外れたようだった。

「今日、おふたりだけですか?」

 おにぎりのラップを外しながら、孝士が誰ともなく訊いた。

「そうだよ」

 と清水。

「最近、集まりがわるいよなあ。みんなどこいったんだ?」

 岩元はそう言いつつ、孝士がもそもそと食べているツナマヨのおにぎりへじっと視線を注ぐ。

「みなさん、成仏なさったんじゃないですか。おふたりも、はやくあの世に逝ったほうがいいですよ。そしたらぼくの仕事もラクになるし」

 その孝士の言葉に消沈し、しゅんと背を丸めたのは清水だ。

「でもねえ、うちの工場、まだ先行きが不安で……」

 清水は真面目だ。自分の工場を守るために過労死したところからも、それが窺える。方や岩元はといえば、

「岩元さんは?」

 孝士が問いかけると、当人はむすっとした表情で孝士を見た。

「あ? おれが、なに?」

「成仏しないんですか?」

「しねえよ。おれはまだ、あきらめてないからな」

 宙に浮いたまま、あぐらをかいて腕組みする岩元は、なにか居直ったような目つきである。

 幽霊は皆、現世になにかしらの未練を残しているものだ。清水は自分の工場と残してきた家族が心配だということで、まあわかる。だが岩元の場合、その幽霊となった理由が特殊だった。自殺した彼は、死んだことを悔やんでいるのだ。そして幽霊になってからずっと、なんとか生き返る方法を模索しているのだという。

 後悔あとに立たずとは、まさにこのことだろう。やはり自殺なんてするもんじゃない。

「でも、いちど死んだ人間が生き返るなんて──」

 無理ですよと言いかけ、孝士は口ごもった。その絶対な不可逆を覆してあの世から蘇ったのが、自分自身だからである。とはいえ、それと引き換えに霊界データバンクなどというあやしげな会社で働く羽目になったのだが。

 岩元がふて寝するように、空中でごろんと横になった。

「あーあ、なんとかなんねえかな。いっそのこと、誰かに取り憑いちまうか」

「いやあ、やめたほうがいいでしょう。それやったら、霊バンの要対処に指定されて強制成仏ですよ」

 と孝士。

「だよなあ」

 言って、岩元は虚ろな目でなにもない宙を見つめる。そして彼はぽつりと、

「ここだけの話、おれの死体、まだそのままなんだよなあ」

 それを聞いて孝士はぎょっとなる。

「えっ……まさか、岩元さんが亡くなった場所にってこと?」

「そう」

「どこにだい?」

 清水が横から興味深げに訊いた。

「そりゃ言えねえよ。教えたら供養されて、おれ成仏しちまうかもしれないだろ」

 岩元は、まるで自慢話でもする子供のような顔だ。

 では、いまも臼山町のどこかに岩元の干からびた死体が転がってるということなのか。彼はどこで、どうやって自死したのだろう。オーソドックスに首吊りか、または薬物の過剰摂取か、それとも飛び降り、もしくは古風に入水したのかもしれない。いずれにせよ、その様子を思い浮かべた孝士は急激に食欲をなくした。

 沈んだ表情で食事の手を止めた孝士に、岩元は怪訝そうだ。彼はテーブルに残るもうひとつのおにぎりを指さして、

「おい、その昆布のやつ、食わねえの?」

「え、ああ……」

 曖昧に言って孝士は肯いた。あんたのせいなんだよと心のなかでつぶやきつつ。

 岩元がテーブルにある孝士のおにぎりへ手のばした。ひょいと摑んで、顔の前まで持ってゆく。

 実体を持たない幽霊は、現世の物体に干渉できないと考えている方がおいでかもしれない。が、そうではない。たしかに幽霊は実体がないゆえ、物理法則を無視して壁などを素通りできる。だが、たとえば自分がなにかを動かしたいと思ったときには、超自然的な力が働いて生前とおなじくその物体へ影響を及ぼすことができるのだ。実に都合のよい設定のようだが、これは本当です。

「あ、ちょっと、それぼくの──」

 孝士の咎める声を無視して、岩元はおにぎりのラップを外してそれにかぶりついた。

 しかし、食べることはできない。おにぎりからはがれた少量の米粒の塊が、ぽとりと地面に落ちただけである。

「チッ、やっばだめか」

 しょげた様子の岩元はおにぎりを孝士の前に戻した。孝士はその少し欠けたおにぎりを見て、顔を歪めた。

「いえ、もういいです。あげますよ、これ……」

「食えねえもんもらっても、しょうがないんだよ。はあ~、もう一回うまいもん食いてえなあ。あと女も抱きてえ、スロットも打ちてえ」

 それを聞いた清水が、やれやれといった表情で岩本を見る。

「岩元くん、元気だね。わたしなんて、家族と工場のみんなのことが心配で、それ以外のことには気が回らないよ」

 一家の大黒柱を失った家族と、経営責任者がいなくなった工場──当事者たちにとっては突然の災難だったろう。孝士は清水と顔を合わせるたび、彼から恨み辛みの愚痴を聞かされていた。本人が悪いわけではない。それはわかる。しかし連日、こう辛気くさい話をされては、さすがに鬱陶しい。

 ──幽霊もたいへんなんだな。

 孝士は思う。霊バンの仕事をはじめた当初は、生きているころの様々なしがらみから解き放たれた幽霊が、うらやましいと思うときがあった。ただし、彼らはその代償として負の感情に魂を縛られるのだ。もしも自分がと立場を置き換えて考えると、さすがにそれはいやだった。正直、ぞっとする。恨みや後悔といったマイナス思考に四六時中、苛まれることになる。とてもじゃないが正気でいられる自信はない。

 結局、死者の魂が安息を得るには、やはり成仏して輪廻の輪に組み込まれることが最善なのだろう。

 幽霊か。孝士はふと、円島支社で臨時要員として雇われている覆盆子原れのんの言葉を思い出した。いつだったか、彼女が言っていた。

『人間てさ、生きてるうちにできることをしとかないといけないんだ。死んでからようやく後悔して、未練がましくあがくなんて、みっともないよ』

 女子高生の言としては、妙に的を射ている。生意気な少女に言いくるめられたように思えて、孝士はなんだか自己嫌悪に陥った。

 それから仕事に戻った孝士は、午後のノルマもなんとかこなして、夕方には臼山神社にある円島支社へと帰った。

「ただいまー」

 事務所を兼ねた社務所の裏手にあるドアを開け、いつものようになかへ入る。そうして、孝士は驚いた。

 事務所内に、見慣れない人物がいたからである。

「あっ、針村様あ~、ご無沙汰しておりますう~」

 気の抜けるような喋り方で慇懃に孝士を出迎えたのは、忘れもしない。自分が死んだときにあの世で出会った、輪廻管理センターの簾頭鬼だった。

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