中田はキーを回して

 中田はキーを回して車のエンジンをかけた。

 家の屋根からふわりと浮きあがった浮谷早苗の生霊が、宙を渡ってゆく。およそ東のほうへ向かっていた。中田はそれをサイドウィンドウから首を突き出して確認すると、慎重に車を発進させた。

 上空の生霊と車の進路を交互に見つつ運転するというのは、なかなか難しい。加えて空を飛べる相手は一直線にゆけばよいが、地面を走る車は曲がり角などで速度が落ちるため、どうしても移動の効率が悪くなる。

 早苗の生霊は人が走るよりも少し速いくらいだったが、両者は徐々に距離が開いていった。

「あーっ、見失っちゃうよ!」

 れのんがじれったそうに中田を急かす。

「わかっとる、わかっとる」

 中田は忙しそうにハンドルを操作しながら応じた。だが田舎町は街灯も少なく、夜道はどこも暗いのである。入り組んだ路地でスピードを上げるのは危険だ。とはいえ、これでは追いつくものも追いつかない。

 中田は早苗を追うのをやめ、狭い道を迂回することにした。とりあえず二車線の広い道路に出て、アクセルを踏み込む。相手の行く先はわかっている。例の男の子の家だ。余分な距離を走ったとしても、結果的にそこへ先回りすればよい。

 男の子の家は臼山町の南東にあった。ローカルチェーンで地元民がよく知るスーパーマーケットの近く。法地がひな壇のようになっていて、住宅が密集している場所だった。そこへ駆けつけた中田は、坂をのぼり法地の中腹にある小さな公園の前で車を停めた。

 車から降りたふたりが夜空を仰ぐと、早苗の生霊がこちらへやってくるのが見えた。なんとか僅差で間に合ったようだ。

「れのん──」

 中田が言って、傍らのれのんの肩に手を置いた。

「あの、わし、ちょっとトイレ」

「はっ?」

 伯父の予想外の言葉に、あきれた表情で固まるれのん。冗談でしょ、よりにもよってこんなときに。

 しかし、もじもじと身体をくねらせる中田は我慢できないようだ。おそらく早苗の家を監視しているときに、アイスコーヒーを飲み過ぎたのだろう。

「お、伯父さん、ちょっと待ってよ!」

 公園のトイレに向かって駆け出した中田の背に、れのんが言う。すると、中田はいったん立ち止まり、

「心配は要らん。霊子ガンは生きた人間の魂には悪影響がない。しかし彼女を撃つ前に、どうして幽霊になったのか訊いてみるんだ」

「そんなの、いったいどうやったら……」

「彼女の心に触れてごらん。大丈夫、おまえならできる。なんたって、聡と悠さんの娘なんだからな」

 そう言い残すと中田は公衆トイレに姿を消した。

 れのんはしばらく呆然としたあと、背後を顧みる。早苗の生霊は、もうすぐそばまできていた。

 焦りと迷いで身体がすくむ。こういうとき、どうすればいいかれのんは知っていた。なにも考えないで行動するにかぎる。自分がためらっているときは、頭を使っても無駄なのだ。

 公園の真ん中には滑り台とジャングルジムがくっついたような遊具があった。れのんはそれへ一目散に駆けた。少しでも高いところがいい。手と足を使い、よじ登る。遊具の天辺まできたとき、ちょうど早苗が頭上を通りすぎようとしていた。

「浮谷!!」

 滑り台の手摺りに手をかけて立ちあがり、下から呼びかける。

 早苗の生霊は風に吹かれた煙みたいに移動していた。人の形をした燐光に見えるそれが、ふと動きを止める。目鼻のある頭部が、れのんのほうを向いた。その頭の上からは細い紐のような玉緒が伸びている。いつだったか、孝士の魂が身体から抜け出たときと同じだ。

「覆盆子原、さん……?」

 寝ぼけているような声で早苗が応えた。

「そうだよ。あたしだよ」

「おかしいな、どうしてわたしの夢に、覆盆子原さんが?」

「浮谷、これ夢じゃないよ」

「そうなんですか」

 いまの早苗は半覚醒状態といった様子だ。おそらく自宅にいる本体もそうなのだろう。感覚があやふやな閾値意識でいるとき、人は明晰夢を見たり金縛りに遭ったりする。

「浮谷、あんたいま、どこへいくつもりだったの?」

「え、わたし……わたしは、景吾くんのところに……」

「その子に、なにをするつもり?」

 れのんの問いかけに早苗は黙った。

「今日の昼間、帰り道で男の子のこと話してくれたよね。自分でもわかってるはずだよ。彼を苦しめてたのが、自分自身だって」

「そう、です──」

 沈黙ののち、素直に認めた早苗の顔が、悲しげに曇る。

「だって彼、わたしの気持ちに全然気づいてくれないし、絵も上達して、どんどんわたしから離れていっちゃうみたいだったから……」

「それで、彼に嫌がらせみたいなことしたの?」

 こくりと肯く早苗。

「はい。わたし、引っ込み思案な性格だから、小さいころからなににも自信が持てなくて……ずっとひとりで絵ばっかり描いてました。絵だけは、ほかの人より自信があったんです。でも絵画教室にいったら、わたしよりうまい人がたくさんいて、びっくりしました。もっと上手になりたいってがんばったのに、いつの間にか景吾くんにも追いつかれて、自分はいままでなにをやってきたんだって、そう考えるようになっちゃって」

 ならば、早苗は自分で自分を追い込んだのだ。怒りや怨嗟の根底にあるのは悲しみ。その心の奥底で熾火のように燻る黒い火種が、早苗の胸の内をじりじりと焦がし、あげく自らを見失わせてしまったのだ。

 早苗の話を聞きながら、れのんは寒気を催す幽霊の気配を感じていた。嫉妬、悲観、自分本位──相手の負の感情が、痛いほど伝わってくる。

 れのんは携えたスクールバッグの口を開き、そっとなかに手を入れる。指先が霊子ガンに触れた。銃把を握り、撃鉄を起こす。霊子ガンに組み込まれた霊子増幅装置が作動し、虫の羽音のような高周波の音が鳴る。

 すぐに撃ってもよかった。そうすれば霊子力ビームによって、いま負のエネルギーをまとい生霊となっている悪性の霊子だけが分解され、早苗の魂は元の身体に戻るだろう。

 しかし、れのんは先ほどの中田の言葉が気になっていた。

 彼女の心に触れてごらん──中田はそう言った。

 思い惑うれのんが逡巡するうち、ふと早苗の様子に変化が現れた。空中にいる彼女は、自分の身体に両腕を回すと、縮こまって震えはじめた。

 嗚咽を漏らしている。そうして徐々に、早苗の負の感情が弱まってゆくのにれのんは気づいた。

「覆盆子原さん……わたし、いやだ。自分がこんな、他人の才能を妬んで、嫌がらせをする人間だったなんて」

「浮谷──」

 れのんは胸が詰まった。喉の奥から、なにかが込みあげてきそうだった。

「誰でもそうだよ。人間ってさ、いい人と悪い人の二種類がいるんじゃない。誰だって、やさしくてあったかい心と、冷たくて意地悪な心──そのふたつをいっしょに持ってるんだと思う。だからいまの浮谷は、その悪い心が大きくなってるだけなんだよ」

「でもわたし、彼にひどいことを……絵なんてやめちゃえって言ったり、一生懸命に描いた絵を破ったり……」

 早苗は後悔の念に苛まれている。その彼女を見て、れのんは咄嗟にスクールバッグから霊子ガンを取り出した。

「ねえ聞いて。あたし、浮谷のこと助けてあげられるかも!」

 言って、れのんが頭上にいる早苗に向けて霊子ガンを掲げる。すると、早苗は不思議そうな顔をした。

「なんですか、それ?」

「……人の悪い心を撃つ銃だって言ったら、信じる?」

 早苗はしばらく押し黙っていたが、やがて微笑を浮かべ、はっきり肯いた。

「覆盆子原さんは、嘘を言うような人じゃありませんから」

「うん。ありがと、信じてくれて」

 れのんが霊子ガンの銃口を早苗に向けた。相手がなにをするのか理解したのだろう、早苗は祈るように両手の指を組み合わせ、ぎゅっと目を閉じた。

「つぎに目が覚めたら、自分のこと否定するの、もうやめなよ。浮谷のすきな男の子にも謝んなきゃね。本人には、言ってもなんのことかわかんないかもだけど、きっと許してくれる。なによりそれで、浮谷の心が軽くなるはずだよ。恥ずかしかったら、あたしがいっしょについてってあげるからさ」

 そして、れのんは霊子ガンの引き金を絞った。

 れのんの霊子波が霊子力ビームとなり、銃口から吹き出た。それに貫かれた早苗は負のエネルギーをまとった霊子を剥ぎ取られ、裸の魂となる。輝く光の粒がぱっと弾けて、夜空に散華した。夏の、最後の花火。

 玉緒に導かれ、早苗の魂が元の身体へと帰ってゆく。

 早苗が目を覚ましたら、いまのことを思い出してどんな顔をするんだろう。れのんはそう思いついて、ひとりほくそ笑んだ。

「さて、終わったかな」

 れのんの足下から声がした。彼女が下を見ると、ジャングルジムの横に中田が立っていた。

「伯父さん、見てたの?」

「ああ、見てたよ。かわいい姪の仕事っぷりをな」

 れのんがジャングルジムから降りはじめる。彼女は途中でぴょんとジャンプして、軽やかに地面へと降り立った。

「で、うまくやれてた?」

「及第点だな。人の悪い心を撃つ銃ってのは、よかったな」

 声を立てて中田が笑う。それから彼は、ふいに表情を引き締めると、

「れのん、おまえは幽霊に対して敵意を抱くきらいがある。だけど、人が幽霊になる理由はさまざまなんだ。それを理解してやらんとな」

「それと似たようなこと、ママも言ってた」

「ん、悠さんが? そうか……」

 今回の件、ふつうの幽霊ならば、れのんは迷わず強制成仏させていた。れのんは幽霊を憎んでいる。というのも、彼女なりに調べた結果、両親の死の原因におおよその見当がついていたからだ。

 ふたりとも、幽霊に殺されたのだ。自分の両親を亡き者にした存在を憎むのは、当然だったろう。

 れのんにとって父親の記憶はほとんどないに等しい。対して母親である悠のことは多少なりとも憶えている。やさしい母親だった。自分と同じ体質のれのんのことを理解し、いつも味方になってくれていた。そんな悠がよく口にしていたのは、

『幽霊さんはね、この世に忘れ物をしちゃった人たちの魂なのよ』

 だから、幽霊を憎んではいけないということなのだろうか。思いやりを持ち、利他的であれと。

 でも、それじゃあどうして──どうしてパパとママは、幽霊に殺されなきゃいけなかったの。なんにも悪いことはしていないのに。

 れのんの心の隅には、割り切れないものが残っていた。

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