43、届かない言葉

 タカトの仕事はいよいよ軌道に乗っていた。テレビでは母亡きあとも懸命に子育てをする一児の父としてもてはやされた。歌の津波のような強さは変わらず、若い頃の荒々しさは、少しずつ落ち着いた深さに変わり始めていた。彼の歌には人を選ばない普遍的な揺らぎがあった。揺らぎをもろに受ける時分の若いファンは昔も今も変わらず多かった。

 海外でのツアーが終わると同時に、ベストアルバムの話が再燃していた。数年前に俺のせいで流れてしまった奴だ。風向きが変わり始めたのは、例の聖母子像に細かな加筆修正をしていた、ちょうどその頃だった。

 音楽業界全体で検閲の強まる向きが生まれた。青少年の犯罪の抑止、健全な精神の育成を謳うこの動きは、一部の人間からは諸手をあげて歓迎されたが、一部の人間からは大きな反発を呼ぶことになる。先陣を切って反対に回ったのが、言うまでもない、羽山タカトだった。

「検閲っていうのはいつも、不適切なコンテンツの排除から始まるんだ。性的なものとか、不道徳なものから始まって、範囲はどんどん広くなる。何が道徳かを決める人間によって」

 そうしてどんどん言葉は狩られていく。言葉は思考の枠組みだとすれば、言葉を制限されることは、俺たちの思考を規定し、自由を奪うことに簡単に結びつく、と彼は説く。一歩目を踏み出せばあとは転がりやすい坂だ。どこまでも加速してしまうのだ、と。

 タカトによれば、こういった形での検閲は世界でもたびたび繰り返されてきた。不道徳の排除を口実に、権力にとって都合の悪いものが排斥されていく。ソクラテスは青年を惑わすと処刑された。啓蒙思想をうたったヴォルテールの書は封建制の下で禁書となった。彼らは言葉をもって文字通り命懸けで思想を語った。彼らの始めた検閲は、そんな世の中をつくることにもなりかねない。

 タカトは過激ともいえる言動で人々を煽った。賛同する人間は少なくなかったが、権力といたずらに揉めたくない事務所とは表立って対立することになる。大袈裟だ、虚言だ、身の程をわきまえろ、というバッシングも、長いものには巻かれるのが賢明だという事務所からのやんわりとした脅しも、タカトは強情とも言える態度で突っぱねた。彼は毅然としていたが、彼はあっという間に業界から干された。選曲まで進んでいたベストアルバムの話も結局、実を結ばないまま流れてしまった。

 表立ってメディアに出ることこそなくなったが、タカトは音楽をやめる気はないようだった。タカトは頑なだった。確固たる「正しさ」など、まして「正しい音楽」など存在しないというのが彼の正義だった。

「それは、陽介より大事なことなのか」

 あまりにまっすぐで、だからこそ敵を増やし始めたタカトに、正面からそう訊いたこともある。業界から干されて食いっぱぐれれば、彼ばかりでない、陽介も路頭に迷うことになる。タカトは苦虫を噛み潰したような顔をして、「だけど、こればっかりは退いちゃいけないんだ」と言った。「陽介も含めた全員の未来に関わることだから」と。

「ここで俺が折れたせいで、治安維持法みたいなのがまかり通るようになることの方が、俺は嫌だよ。それだって結局、自分の子どもを殺すのと変わらない」

 珍しく棘と怒りを孕んだ声だった。何度も同じことを訊かれたのだということは容易に想像がついた。時には息子の存在を盾にされるようなこともあったのだろう。

「それは自己満足じゃないのか」

「自己満足だよ。それが何? 自分すら満足できないようなことを俺はしたくない」

 彼の論理は相変わらず繊細で高潔で、それだけに厄介だった。

 そして彼はメジャーの舞台から降りた。はじき出された、と言ってもいい。タカトはそれでも音楽をやめなかった。時にはひとりで、時には賛同者たちとともに、ステージの上で歌い続けた。どんどん頑固に、過激になっていくタカトを見ながら、俺は何か危うい気配を感じていた。彼は大義を抱えながらも、敵の多さに気が立っていた。少しは冷静になれと諭したときも、彼は過剰なほど反応し、口論になりかかった。今までそんなこと一度もなかったのに。

 タカトはひとりで荷を背負いながら矢面に立ち続けた。歌手は身体による表現が基盤である以上、技術的な部分で、若い頃よりままならないことも増えた。その歯がゆさがますます彼を焦らせ、頑なにした。時折話を聞いてやることくらいしか、俺にできることはなかった。

 対岸の火事を眺めながら、俺は沈黙を貫いた。


 ずっと、どこかで嫌な予感はしていた。

 

 三月とは思えないほど寒い日。急に電話が鳴って、眠りが断ち切られた。もぞもぞと布団から出、通話に応じる。「もしもし、ヒサ?」いつかと似たような声が電話越しに聞こえる。どろりとした眠気に意識が負けそうになる。

 重い瞼を薄っすらと開け、時計を見ると、四時。まだ暗い。外を見ると、雨の中にわずかに雪が混ざっていた。今日はバスが混みそうで嫌だな、と心のどこかで思う。

「おい、今何時だと思って……」

 風音に気づいて、言葉尻が消える。この音は窓の外ではなく、電話の向こうから聞こえるものだ。

 外にいるのか? この天気で、この時間なのに?

「ダメだよな、俺、こんなの父親失格だよな」

 タカトの声は震えていた。泣いているようにも聞こえた。まずい、と思った。状況はまるでわからないが、ただならない事態だ、という直感が嘘みたいに眠気を覚ました。

「タカ? 今どこいる」

「……ごめん」

 声に混ざる、ごうっ、という風音。電話を握る自分の手が痛いほどに冷えていく。直感は確信に変わる。

「ズルいってわかってるんだけどさ、一つお願いしていいかな」

 戸惑うばかりで言葉が出ない。どうにかしなければ。どうすればいい? 混乱と焦りだけが頭を満たしていく。

「あの子のことを頼めるのはお前しかいないんだ。――陽介をどうかよろしく」

 タカ、と怒鳴るように言うと同時に、電話が切れた。

 いてもたってもいられず、上着をひっかけて玄関から外に出た。みぞれの大きな粒が目の前を落ちる。刺すような冷たい風に吹かれて、一気に頭も冷えた。タカトのもとに今すぐ駆け付けたいのに、どこにも行く当てがない。

 学生の時分、絵を描くことが苦しくて仕方なかった頃、無名の俺を見つけてくれたのは彼だった。あの交通事故のあと、知らず知らず死の際にいた俺を拾い上げたのは彼だった。

 なのに俺は、タカトを助けられない。

 はやる気持ちで身支度をした。タカトを探すあてがどこかにあるとしたら、まず彼の家だろうと思った。何より気がかりなのは陽介だった。心臓が痛いほどに早く打った。

 みぞれは途中から雪に変わった。始発が出るまで時間があったからタクシーを拾ったが、悪天候が災いしたのか、途中で渋滞にはまってしまった。やっと着いたころにはもう明るくなっていて、道端の枯草の上にべたべたした雪がうっすら積もっていた。

 息が切れるほど早足で向かった場所は、人だかりに囲まれていた。黒や灰色のダウンを着た男たちが、マイクやカメラを担いで家の四方に群がっていた。

 あぁ、と嘆く息が口から洩れる。息を整えながら、俺はどうしようもなく確信していた。

 ――俺は、間に合わなかったのだ。


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