38、責め立てる言葉


 新学期になって、新しい職場への移行と夕花の保育園とが始まった。現実的な部分を考えると、保育園に迎えに行けるのは部活のない日、週に一度が限度だった。延長保育を利用してもお迎えの時間は想像以上に早く、週に一度とはいえ、そのたびに職場で顔をしかめられるのも、迎えに行くなり夕花に「まだ先生と遊ぶ」と駄々をこねられるのも消耗した。

 そのうち週に一度すら抜けるのは難しくなり、結局すべて木立任せになった。こうなることは半ばわかりきっていたが、何も言われないのを口実に、俺は目を背け続けた。仕事も思うようにいかないことばかりで、絵を描くことだけが俺の逃げ場だった。絵を覗き込まれ、「娘さんの絵ぇ描けばいいのに」と悪気なく言われた時には、言いようのない寒気に襲われた。人間は描かないんで、と苦し紛れに返すのが精いっぱいだった。

 目を背け続けて、逃げ続けて、それでも家庭は滞りなく回っているように見えた。だから、俺は関与しなくても大丈夫なんじゃないかと、どこか高を括っていた。

 そんな風に逃げるように絵に向かっていた最中。奇しくも、かつて俺がお迎えの任務を負っていた水曜日。

「狩岡先生!」

 ピロティ―に駆け込んできた新任教師が、真っ青な顔で俺を呼んだ。筆が乗ってきたところだったから、水を差されたようで、対応が億劫だった。「なんですか」筆を置かないまま尋ねた俺に、「電話があって」としどろもどろな返答。

 電話。どうせ子どもが熱を出したとか、その程度だろう。そう思った矢先、「奥さんと娘さんが」と悲痛な声が続く。「事故で、運ばれたって……! とにかく来てください!」

 指先から筆が滑り落ちた。「早く!」という声で硬直が解けた。ピロティ―のコンクリートを蹴る。

 そこから先の記憶は朧気だ。気づくと病院にいて、生気のなくなったふたつの身体を見ていた。ふくふくとした小さい手のひらは、あんなに温かかったはずなのに、怖くなるほど冷たかった。夕花を庇ったらしい木立の身体は目も当てられなかった。大型トラックと民家の壁との間に挟まったこの事故は、運転手が心筋梗塞の発作を起こしたのが原因だった。感情の矛先がどこにも向けられない。あまりにも唐突すぎて、現実に心が追い付かなかった。

 あと数分、数十秒、タイミングが違っていれば。木立でなく俺が迎えに行っていれば。仮定はどこまでも仮定でしかないのに、降り積もった後悔が俺を内側から苛んだ。

 数多ある手続き、通夜、葬式。全てに現実味がないまま、事務的に作業を終えた。作業に追われているうちは何も考えなくてよかったから楽だった。いくつも思考が折り重なって、真っ黒にぐちゃぐちゃした何かになって脳を占めた。自分が何を感じているのか整理することすらできず、俺は無理やりに四肢だけを動かし続けた。悲しみを感じる余裕すらなかった。

 出棺の前に木立の母親から取りすがられた。「あなたなんかに嫁にやったのが間違いだった……!」「あなたが暁美を不幸にしたのよ」「こんな時にも涙ひとつ流さないのね」俺よりも悲劇的に泣く木立の母親は、皺だらけの拳で俺の胸を何度も叩いた。その力の弱さがむしろ悲しかった。俺はそれを何の感慨もなく見ていた。すべてのできごとが一枚膜を隔てた向こうのもののように感じた。

 ふたつの骨壺の箱を持ち帰って、空っぽの家に帰った。玄関に夕花の小さなサンダル。廊下には夕花の描いた絵が貼られている。まま、ゆうか、ぱぱ。下手くそな字は「ま」と「ぱ」の字が鏡写しになっている。

 壁に貼られた落書き。箪笥や冷蔵庫に貼られたシール。床に転がったぬいぐるみや玩具。

 幸せの体現のようだった、子どもの甘酸っぱいにおい。

 家の中には何もかもが残ったまま。けれど持ち主は永遠に帰って来ない。現実と俺を隔てていた膜が急に消える。俺は靴を履いたまま玄関で立ち尽くしていた。胸の中にある空洞が今更になって痛かった。喪服のまま骨壺だけを置いて、外に出た。月ばかりが煌々と青い。月にでも吠えたくなる夜だねえ。いつかの木立の言葉。煙草を買って、店の外ですぐに箱を開けた。引き抜いて、ゆっくりと火をつける。鼻腔に残った甘ったるいにおいを上書きしてしまいたかった。

 およそ四年ぶりに肺に入れた煙は、俺の空洞をニコチンとタールの毒で満たした。なんだかんだと禁煙ができていたのだということが少し意外に思えた。それももう、何の意味もないけれど。

 くしゃりと煙草が歪む。白い煙が視界を塞ぐ。目に沁みるような気がしたのに涙は出ない。

 これは罰だろうか。家族など疎ましいだけだとさんざん思ってきたことへの。あるいは、身の丈に合わない幸福とやらを手に入れたことへの。俺は必死に神経を鈍麻させようとする。久々のタールの重さに頭がくらりとする。

 甘さとは対極の辛く苦いにおい。俺にお似合いなのは元来こちらの方だった。こんな時にも涙ひとつ流さないのね。全くその通りだった。口から出るのは嗚咽ではなく、からからに乾いた笑いと煙だけだった。

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